18 / 126

16

授業というよりもそれは一冊の絵本を読み聞かされているような気分だった。グレアの柔らかい声もあるせいだろう。 眠らないようにするのが精一杯だったが、皆眠くないのだろうか。熱心にガリガリとノートに書きなぐっている。というか絶対にそんなにノートに書くようなこともないだろう。辺りに散らかされるノートの残骸。黒羽はというとただじっと静かにその授業を聞いていた。 俺だけなのだろうか、眠たいのは。 あれだけ気合入れていたのに授業内容が頭にまるで入ってこない。けれど、眠るわけにはいかない。グレアの授業だ。初日から居眠りなど、と手の甲の皮を抓り、痛みを堪える。 「なので、空に浮かぶ星というのは早い話、彼の排泄物なんですね。とはいっても糞尿とはまた別になるわけです。彼は食物を摂取していないのですから。夢を食べ、悪い夢は雨雲へと昇華し、良い夢は星へと作り変え、吐き出す。僕たちが見てるのは皆の夢なんですね」 ……俺が知ってる天文学とは大分違うようだ。 ふわふわとしたグレアの話を必死にペンで追う皆。 到底信じられない話だが、にやにや笑うあの月の顔を思い出すとあながち間違いにも思えない。けれど、夢はある話だけど、だとしたら俺の見た夢も星になったのだろうか。それとも、雨雲へとなってしまったのか。どちらにせよ、天気を見る限り晴れているようだけれども。 時間というのはあっという間だった。遠くから聴こえてきた鐘の音。懐中時計を確認すれば、既に一時間を回っていた。「それでは、本日の授業はここまでです」とグレアは思い出したように話を終える。 日直という存在はこの教室にはいない。代わりに、グレアの一言を革切りに皆が一斉に動き始めた。それから、グレアも教室を後にする……前に、俺の方へとやってくる。 「どうでしたか、初めての授業は。……途中からだったので、難しかったんじゃないですか?」 「そうですね、初めて聞く話ばかりで……興味深かったです」 「そうですか。そう言っていただけ安心しました。次の授業は魔界の天気についてなので、興味があればまた来てくださいね」 「はい」 「ああ、それと……これを渡しておきますね」 そう、グレアはローブの中から二枚の革の手帳を取り出した。 「これは文学部の授業日程が記載された手帳です。他の学部の日程も書かれてるのでどうぞ使ってください。……こっちは黒羽君に」 「……頂こう」 手帳は制服に合わせた黒を基調にしたもので、表紙部分には校章らしき紋章が彫られていた。 中をパラパラと捲ると、所謂生徒手帳のようだ。 校内の見取り地図や、校則も書かれてる。……俺のような方向音痴にはありがたい代物だ。 「ありがとうございます」 「本当は先に渡しておくべきでしたが、遅くなってしまってすみません。それでは、僕は準備があるのでこれで」 失礼します、と、グレアは言い残し、やはりふわふわとした足取りで教室を後にした。 生徒手帳を眺める。文学部の2限目の授業は、天文学と、地学、そして文学があるようだ。 どれも気になるが……。 うーん、どうしようか。なかなか決められず、黒羽に助言を貰おうかと「黒羽さん」と立ち上がったときだった。 ざあざあと、鉛が叩き付けような激しい音が窓の外から響く。 朝も聞いたことがある。まさか、と思い顔を上げれば、ガラス張りの屋根には無数の黒い霧が渦巻いていた。 いや、違う、蝙蝠の群れだ。霧だと思っていたものはよくみると一匹一匹が大きな羽を動かしていて、雨のような音は跳ね同士がぶつかってるそれで。茶髪の紳士、アヴィドの顔が過る。 何やら窓の外で慌ただしく回ってるが、どうしたのだろうか。窓を開けてあげようかとも思ったが、黒羽に「移動するぞ」と呼ばれる。 「あの、黒羽さん……なんか外に蝙蝠が……」 「あまり不用心に窓を開けるのはよくない。……もし伊波様の命を狙ううつけ者だったらどうするつもりだ」 「うーん……そっか……」 確かに前回のこともある。俺は会釈だけして、一度第Ⅳ教室から出ようとした。 そのときだった。俺が開けるよりも先に目の前の扉が開いた。 一言で表すなら、紫。紫色の派手な頭に、黒のメッシュ、金色の瞳。どこぞのバンドマンのような派手なその男は、目の前に立ち塞がってる俺を見るなり、「お」と声を漏らす。 「……見つけた」 そう、男が笑ったと思った次の瞬間だった。骨張った手が伸びてきて、頬に触れる。「え?」と思った次の瞬間、べろりと唇を舐められた。それと、間髪入れずに短刀を引き抜いた黒羽が男を切り裂いたのは同時だった。 目の前の男は霧散し、一匹の紫色の蝙蝠が黒羽をからかうように飛び、そして俺の背後に紫髪の男が現れた。 「あっぶねーな。ちょっとした挨拶じゃん、怪我したどうすんの」 「……殺す」 「おー怖い怖い。妖怪の爺どもは短気で困るなぁ」 「けど、流石人間。汗も上手いな」釣り上がった口の端からは尖った牙が覗く。悪びれた様子もなく微笑みかけてくる目の前の男に、今になって自分がされたことに気付く。 キス、と呼ぶにはあまりにも色気がない。寧ろ、味見と言った方が適切か。ごしごしと唇を裾で擦れば、「いい反応」と男は笑う。二発目、黒羽の放った手裏剣を、男はひょいと避けた。タンタンタンと壁に深く突き刺さった手裏剣を一枚引き抜き、男は玩具かなにかのようにそれを指先で弄ぶ。 「まあまあ、別に俺あんたらと戦争したいわけじゃないんだから仲良くしようよ」 「なっ!」と、男は手裏剣を黒羽に投げ返す。危ない、と思う暇もなかった。なんなく短剣の刃でそれを防いだ黒羽に、男は口笛を吹いた。 「やるねえ、ま、親善大使様のお付きならこれくらい当然か」 「口を慎め、無礼者が」 「あ、あの……黒羽さん、落ち着いて……」 ざわつく教室の中。確かに驚いたが、目の前の男からは殺意は感じられない。もしかしたら本当に種族からしてみれば挨拶なのかもしれない。とにかく、黒羽を止める。このままでは教室が壊れてしまう。 「あの……俺に何か用?」 「うん、用。俺、あんたに会いに来たんだ」 「俺に……?」 「親善大使様に頼みがあってさ」 頼み。あまりにも軽い調子で続ける男に、ペースに飲まれそうになったとき、手を握り締められた。 「俺を助けてほしいんだ」 紫髪の得体の知れない男はそう、悩みとは無縁そうな涼し気な顔で笑う。 伊波曜としての俺ではなく親善大使としての俺に持ち掛けられたその相談を、断る方法があれば教えて欲しい。

ともだちにシェアしよう!