32 / 426

第32話

その翌日。 日下部が、朝から大層不機嫌だった。 さすがに、それを周囲のスタッフに撒き散らしはしないが、普段の3割減ほどの笑顔に、馴染んだ消化器外科病棟のスタッフは気づいていた。 「今日、日下部先生、機嫌悪かったね~」 「うんうん。ご機嫌斜め~。やっぱあれじゃん?」 「ん?あれ?」 「昨日、山岡と一緒に帰ってなかったらしいよ。これは喧嘩でもしたな、ってみんな言ってた」 「あ~、そこ。それにしては、あっちは普通じゃない?」 今日も、絶賛噂話中のナースステーション内から、たまたま前の廊下を通過して行った山岡に、看護師たちの視線がチラリと向いた。 「まぁ、相変わらず表情が見えなくてよくわからないけど…」 「でも山岡のことだからな~。何かやらかしたのに、鈍くて日下部先生を怒らせてるのに気づいてないだけかも」 「あり得る~。それだ、きっと。だから余計に日下部先生、不機嫌なんじゃん?」 そうだ、そうだ、と勝手に盛り上がっている看護師たちの会話。 実は、当たらずとも遠からずなところは、さすがの付き合いか。 日課のようにワイワイと看護師たちがおしゃべりしていたところに、ふとナースコールの音が鳴り響いた。 「おっと。仕事、仕事」 「そうね。仕事しなきゃ」 パッと看護師たちが散って行ったナースステーションが、無人になった。 そこへ午前フリーの山岡が、回診のチェックをしようと、看護師たちとちょうど入れ違いになる形で入っていった。 その、噂の日下部は、今日は午前中は外来担当で、やけに鋭い顔をして、診察室でバリバリ患者をさばいていた。 病棟の看護師たちが察していた通り、確かにとても苛立っていた。 その理由もまた、看護師たちの噂が半分当たっている。 (くそ~。山岡、今日に限って出勤遅いし…) いつもは結構早めに出て来ている山岡と、今朝会えるかと思っていた日下部は、外来準備に下りなくてはいけない時間ギリギリ過ぎにやってきた山岡と、結局すれ違ってしまい、会えなかったのだ。 (昼は絶対捕まえて、話聞かなきゃな…) 昨日。山岡が先に帰った後、どうせ夕食が1人なら、少し仕事を片付けていこうと残業した日下部。 それも終わり、のんびりと職員出入り口に向かったところで、ちょうど顔馴染みの消化器外科外来の看護師たちが帰ろうと歩いている後ろにつく形になった。 特に聞くつもりはなかった看護師たちの会話が耳に届き、それが日下部の心中を穏やかでいられない状態にした。 それによると、山岡が新患にナンパされただことの、携帯番号を渡していただことの。食事がどうのとか、快諾していただとか。 まぁ、看護師も、処置があったり呼ばれたりしない限り、診察室内にずっと同席しているわけではないから、それがすべてではなくて、1部聞き齧りだということは、日下部だってわかっている。 それにしても、1部とはいえ、1患者とそんな個人的なやり取りをしていたとなったら、日下部にとっては面白くないことこの上ない。 それでも何とか冷静を保ち、とにかく本当のところを本人から聞き出そうと朝会いたかったのに、すれ違い。 ただいま外来をこなしながら、昼こそはと力が入るのは仕方がないことだろう。 いつもの倍くらいのペースでガンガン患者をさばいた日下部は、12時ピッタリには、外来を終えて病棟に向かっていた。 「お疲れ様。山岡先生は?」 消化器外科病棟に上がり、ナースステーションに顔を出した日下部は、山岡の姿がなくて首を傾げた。 たまたま中にいた看護師が、そんな日下部を振り返ってのんびり口を開く。 「午前中に内科から急患回されて、緊急オペ行きましたよ~。長丁場、って呟いてました」 チッと舌打ちしそうな勢いで、日下部が不機嫌そうに頷いた。 「そう。なんのオペかわかる?」 「さぁ?PHSで話しながら行ってしまったので、緊急オペとしか」 「そっか…。何時頃出た?」 「11時ちょっと前だったかな…」 「ありがとう」 チラリと時計を見て、日下部は溜息をついた。 なんの急患かはわからないが、山岡が長丁場、と呟いていたなら、3時間は余裕で超えるはずだ。 (今日に限ってすれ違うなぁ…) 昼を一緒にできないことは確実で、日下部はとりあえず、内科に行ってなんの急患を回してきたのか確認し、手術時間の予想でも立てようと、ナースステーションを出て行った。 それでも結局、山岡が手術を終えて病棟に上がってきたのは、もう夕方過ぎで、帰宅時間までもう少しのところだった。 「お疲れ様」 「あっ、日下部先生。お疲れ様です」 ナースステーションにいた日下部が、ようやく山岡と顔を合わせられたが、山岡はだいぶ疲れていた。 「大丈夫?」 「えっ?あっ、はぃ…」 心配そうな日下部の声に、山岡はふと何を思ったのか、ストンと視線を落とした。その理由は、日下部には容易く知れる。 「そっか。昼抜きか」 「っ…はぃ」 まずそうな顔をする山岡に、日下部は思わず苦笑してしまう。 「あのな、不可抗力を怒りはしないから…」 緊急オペで食事が取れないことは、日下部だってあるのだ。それを怒ったところで、改善などしようがないのは分かりきっている。 「あ…そう、ですよね…」 「山岡、考え過ぎ。でもまぁ、じゃぁ今日は夕食、たっぷり食べような。もちろん来るだろう?」 腕を振るうよ、と笑う日下部に、山岡はわずかに目を上げて、微かに微笑んだ。 「はぃ。行きます」 「よし。じゃぁ、もう上がれる時間だな。帰れそう?」 「はぃ」 着替えだけすれば、今日は特に片付けなくてはならない仕事は他にない。 俺も、と言いながら、日下部はようやく山岡と話せる時間が持てそうなことに、気を急かせながら立ち上がった。 「じゃぁ行くか…」 「日下部先生!急変です!」 バッドタイミング。山岡とようやく話せると思ったのも束の間、ナースステーションに駆け込んできた看護師に、日下部の顔が思い切り歪んだ。 「そうくるか。誰?」 「個室の前田さんです」 「了解」 イラッとした内心は綺麗に隠し、日下部はパッと真剣な医者の顔を浮かべて、廊下の方へ足を進めた。 「あっ…じゃぁオレ…」 日下部の背に急いで声をかけた山岡を、日下部は一瞬だけ振り返る。 「片付いたら帰るから!今日は絶対会いたいから。先に家、入って待ってて。必ず帰る」 1秒を惜しみながらも、それだけ言い残して消えて行った日下部を見送り、山岡はコクンと頷いた。 「分かりました…」 もう届かないとわかっていながら、律儀に返事をした山岡の声が、ナースステーションにポツリと落ちた。 それでも、と少しだけ病院で日下部を待っていた山岡だけれど、さすがに日下部は戻って来なかった。 することもなくなってしまい、山岡はひとまず、今度は先に帰って、日下部の家で待つことにしようと、帰り支度をして病院を出た。 「合鍵…」 勝手に家に先に入っていられる、というのが、恋人ということを認識させて、なんだか嬉しくて、山岡は思わずにやけながら、病院の外の路上に出て歩き始めた。 「そうだ。少し買い出しして行こうかな」 ふと思いついた案に、自分で満足して、山岡はデパートの方へ足を向けた。 そうして、食品と酒を買うつもりが、その前に目に入った本屋に思わず寄り道してしまった山岡。 そこで偶然、後から店内に入ってきた川崎と会った。 「あれ?」 「ん?あれ、山岡先生」 「川崎先生。偶然ですね」 ニコリと微笑みながら、何の疑いもなく声をかけた山岡。川崎も、驚いたといった表情を浮かべている。 それは、わずかに嘘を含んでいたのだが山岡は疑うことを知らなかった。 「何か探してるの?」 「あ、いえ。特に目当てがあったわけではなくて…でもなんかよさげな雑誌とか本とかあるかな、と…」 「そう…」 「川崎先生は?」 「ん~?俺は、ちょっとね…」 言いながら、ふと医療関連書籍のコーナーに視線を流した川崎。 山岡は、そのことに気づいて、ふと顔を歪めてしまった。 「山岡先生。そんな顔するなって」 ははっと笑う川崎に、山岡はハッと表情を引き締めた。 「ほら、よくなんたら闘病記とかあるだろ~?俺も、こうして克服しました!みたいな本を出版する日のためにだな、勉強しようかと」 クスクス笑って言う川崎の出版うんぬんは、冗談なのはわかっていたが、山岡は、その前向きな思いは本当なのだろうと感じ、ふわりと笑った。 「そうですね。楽しみです。出版されたら買いますね」 「うん、うん。その後は印税生活だ」 明るく笑う川崎に、山岡もつられて明るい気持ちになったとき、不意に川崎がみぞおちの辺りを押さえて呻いた。 「っ!川崎先生、痛みます?!」 「う~、少し…」 「こっちに。支えますね」 パッと顔を引き締めた山岡が、川崎に肩を貸し、デパート内の休憩用ベンチのところまで連れて行った。 「大丈夫ですか?吐きたいです?ちょっと失礼します」 ベンチに川崎を座らせ、素早く脈を診たり、目の下をベーッとさせて見たり、熱を測ろうと肌に触れたり…と、観察を始めた山岡に、川崎はほんのりと微笑んだ。 「大丈夫…。でも少し休ませて」 「はぃ、それはもちろん。横になります?」 「いや…でも…体、貸してもらっていい?」 「はぃ…」 寄りかかりたい、と言う川崎の要求に、山岡は川崎の隣に座って、そっと体を預けてくる川崎に、肩と右半身を貸した。 「情けないな~」 「え?」 「あまりに、身体が思うようにならない…」 ポツリと、力なく呟く川崎に、山岡はヒュッと息を呑んだ。 「なぁ、山岡先生…」 「はぃ」 「俺、死ぬのかな?」 「っ!なにを…」 突然の弱気発言に、山岡はカッとなりながらも、これほどまでに川崎が弱っていることに驚いていた。 「やめて下さいよ…」 「うん。ごめん…」 「ぃぇ…」 「でも、時々、どうしようもなく怖くなる。どうしようもなく弱くなる」 震える川崎の声と、触れた身体から伝わる震えがたまらなくて、山岡は思わず、隣の川崎の身体を抱き締めていた。 「大丈夫。大丈夫ですよ。オレを信じて下さい」 「山岡先生…」 「あなたはオレに光をくれた。オレはあなたの光になります。だから…」 「ん。ありがとな」 ギュッと抱き返してきながら、川崎がニコリと笑った。 「早めに入院と…オペの予定、立てますね」 「うん」 「川崎先生…。オレ、必ず…」 「うん。信じてるよ、大丈夫。俺は大丈夫。大丈夫」 まるで自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す川崎に、山岡は、何度も頷いた。 そして、この強くて、だからこそ1人で踏ん張りすぎるこの人の、わずかな支えになりたいと、強く思った。

ともだちにシェアしよう!