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第34話

ポツリ、と残された寝室で、山岡はぼんやりと考える。 無理に拘束されていた手が、ジリジリと痺れて思考が散りそうになる。 それでも、日下部があんなに怒りを露わにした理由と、いくつか口にしていた言葉を、必死で考えた。 「患者さん…亡くして…」 その気持ちは、山岡にもわかる。 必死で必死で掬い上げた命が、あまりにあっけなく指の隙間から零れ落ちていってしまったときの、虚脱感や無念。 山岡だって何度も何度も経験している。 不甲斐ない自分に嫌悪し、どうしようもない苛立ちに包まれることがあることも知っている。 「それから、昨日の…真相?嘘…香水…?」 嘘つき、と怒りを孕んだ低い日下部の声が蘇る。 「っ!まさか…」 いくつかの単語から導き出したその答えは…。 「オレ、浮気したと…。違っ…」 ハッと日下部が怒った理由に思い当たり、山岡は慌てて布団を跳ね除け、震える手でズボンと下着を履いた。 そうしてこちらはリビングに出てきた日下部。 ソファに腰掛け、眉間を押さえて項垂れる姿は、後悔と反省に包まれている。 「はぁっ…。何やってるんだよ、俺…」 泣きながら、その身を差し出して微笑んだ山岡の顔が、脳裏に焼き付いていた。 確かに、患者を亡くして、苛々していた。半ば八つ当たりの気持ちがなかったとは言わない。 しかも、昨日耳に入れてしまった山岡の話が、ずっと頭に引っ掛かっていたのも原因だ。 さらに今日はそれを確かめるわずかな時間すら与えられず、苛立ちが最高潮だったのも認める。 そこへ来て、先に帰宅したはずの山岡の帰りが遅くて、その上、山岡から香った知らない匂いだ。 ついうっかりキレてしまったのも仕方がないだろう。 だけど、だけど、なにものからも必ず守ると誓った日下部自身が、あろうことか山岡を傷つけ、あんな、あんな一番言わせてはいけないことを言わせてしまった。ただでさえ自分を大事にしない山岡を、日下部が追い詰め、その身を投げうつなどと、一番させてはいけないことをした。 山岡が、山岡自身を大切にできない分、日下部がどこまでも大事に大事にしてあげたいと思っていたのにも関わらず…。 「少し冷静になればわかるのに…。山岡が、浮気なんかするやつじゃないってこと…」 はぁっと止まらない溜め息が、何度も日下部の口から洩れる。 「山岡は、平然と嘘なんかつけない。全部顔に出るじゃんな…。デパート行ったのだって、嘘じゃないんだ。きっとそこで、また急病人にでも遭遇して、山岡のことだ、お節介にも介抱に入って、移り香がついたとか考える方が自然だよな…」 ははっ、と自嘲をもらす日下部の声が、静かなリビングの空気に溶けていく。 「そういう何かがあったから、買い物する気も失せて、手ぶらで…っ。それを俺は…」 ギュッと歪んだ日下部は、ようやく冷静に考えられるようになっていた。 「山岡が、上手く話しを出来ないことは、俺はよく知ってたのに…」 言葉数が少なくて、対人関係にはすごく不器用で。会話も、とてもゆっくり、山岡が上手く話せるように待ってあげなくてはいけなかったのに。 今日の日下部は、その余裕もなく、山岡の話を一切まともに聞かなかった。それは全て…。 「嫉妬、かよ…。格好悪ぃ~…」 自分の都合で苛立って、八つ当たりした挙句、嫉妬まで重ねて。 一体何をやっているんだ、と自分で自分に呆れたところで、ソロリと寝室のドアが開き、オズオズと山岡が顔を出した。 「あの…日下部先生…?」 「あぁ、うん…」 チラリと日下部を窺うようにして、その目に怒りがないことにホッとしながら、山岡はそっと寝室から出てきた。 「あの、オレ…」 「うん、ごめんな。俺が全部悪い」 恐る恐る近づいてくる山岡に気づいて、日下部はははっと小さく笑って頭を下げた。 「色々あって苛立ってて、でもそんなのは言い訳で、話も聞かず山岡を疑って、嫉妬して、キレた。悪かった」 顔を伏せる日下部を見て、山岡が慌ててパタパタとソファまで走ってきた。 「やめっ…やめてくださいっ」 「いや…」 「違っ…オレ…だから、そのっ…」 必死で伝えたい、けれど上手く言葉が作れない。 そんな必死な山岡の様子に、日下部はゆっくりと顔を上げ、ふわりと優しく微笑んだ。 「落ち着いて。聞くから。ちゃんと聞くから、な?」 ごめんな、と首を傾げた日下部に、山岡はホッと一息ついて、コクンと頷いた。 「ほら、おいで」 自分が座ったソファの隣を空けて誘う日下部に、山岡は素直に従う。 並んで座った腕と腕が軽く触れ合って、そこに互いの苛立ちも怒りもないことに、2人ともホッとする。 「えっと、まずは、嘘つき呼ばわり…ごめん。山岡、本当にデパートに行ったんだよな?」 「はぃ…」 「何も買ってこなかったのと、香水の匂いは…」 「ごめんなさい。途中で、知り合いに出会って…。その人、途中で体調悪くして…えっと、支えたり…」 ほぼ、日下部が冷静に考えた真相と同じことに、日下部はホッとする。 だけど、不自然に言葉を切った山岡が、今度は本当に疾しそうに、ポツリとその先を続けた。 「抱き…締めて…。オレ…」 「え…?」 山岡の口から出た、思わぬ単語に、日下部の思考が一瞬フリーズした。 「違っ…その、日下部先生とするのと…違う、あの…えっと…」 必死で言葉を選ぶ山岡に、日下部は、あぁ、と言いたいことを察した。 「看病して、励ました?色気のある抱擁じゃなくて、仲間とするようなハグ?」 「っ、ん」 日下部のフォローにコクコク頷く山岡に、日下部の目が緩んだ。 「わかってるから、大丈夫。でもそれ…男だったんだ?」 「あ、はぃ。昨日…紹介で来た患者さん…」 ポツリ、と漏らした山岡の言葉に、日下部の落ち着いていた心が、一瞬ブワッと嫉妬に燃えあがった。 「それはもしかして、山岡が昨日、食事に行った人?」 「あ、はぃ」 キョトン、と頷く山岡に、日下部はふらりと毒気を抜かれてしまった。 「はいって山岡…友人と食事、って言ってなかったか?そいつ、診察中にナンパされたんじゃ…」 看護師たちの話では、そんなことになっていた。 「え?ナンパ?オレが?」 ますますキョトンと目を見開く山岡に、日下部は、やっぱり噂話などあてにならないと、普段あてにならなさすぎる噂話をやたらと作り上げている自分を棚に上げて思っていた。 「違う…よな。本当は、なんなの?」 「あ、その…。その患者さん、たまたま知り合いだったんです…知り合いっていうか、昔いた病院の…先輩…」 「昔いた病院の…?」 「はぃ。大学病院の、1つ上の先輩で…医者、でした」 「仲良かったの?」 「それなりに…」 ポツリ、と呟いて俯いてしまった山岡に、少しだけその頃の過去に触れたことのある日下部は、どこまで踏みいっていいものか考えた。 その隙は、山岡があっさりと奪っていく。 「多分、重い症例だから、カンファかけるので、知れると思うんですけど…」 「え?」 「川崎先生…あ、川崎彗河さん、って言うんですけどね、その人。MKのステージ3で…多分、B期…」 「それは…」 「明日CT入れてるんですけど…楽観はできないと思うんです。それで…」 山岡がポツリ、ポツリと話し始めたことは、日下部にも何が言いたいのかわかってきた。 「医者って言ったな…。それは、きつい、な…」 きっと、自分の病気が、わかりすぎるほどにわかるだろう。 先輩で仲が良かったということは、きっとその人も消化器外科の専門医で、同じ症例と、そして行く先を、いくつも実際に見たはずだ。 「はぃ…。怖いって…。あんなに強くて、優しくて…オレには、本当に眩しいほどの光だった人が…怖い、って微笑むんですよ…」 しんみりと目を潤ませて、山岡が辛そうに呟いた。 「ん…」 「だから、食事行こうって…そんなの、断れるわけなくて…。でも、日下部先生が…面白くなかったら…ごめんなさい…」 浮気のつもりはなかった。だけど、日下部がどう取ったのかの方が、山岡には重要だった。 「あぁ、そっか。そうだよな。山岡は…。ごめんな。俺、もう疑ってないよ」 「っ…?」 「大切だったんだろ?その、川崎先生って人」 ニコリ。理解を示して微笑む日下部に、山岡はコクンと頷いて、ポツリと口を開いた。 「少し…日下部先生も、知ってると、思うんですけど…」 「うん」 「オレ、昔、大学病院にいて…」 「うん」 小さく震えながらも、辛いだろう過去を、話そう、としてくれている山岡に、日下部は静かに相槌だけを挟んだ。

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