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七 ②

 響が校舎に戻った後、一人空を仰ぐ涼は空に向かってひとりごちた。 「あんな事言われて泣かれちゃ、何も言えねーじゃねぇかよ」  行って欲しくない。本当は行って欲しくなんかない、自分の側に居て欲しい、神様なんかやめて自分を選んでほしい。  何でなんだよ、神様より、自分と過ごした時間の方がずっと長いのに。そんなに、そんなにあの男の方が、いいのか。  ああ、本当に一瞬だった。掌に掴んだ響の心は、すぐに零れて消えた。  午後になる前に勝手に早退した涼は、また神社に向かって山を登る。  結局渦巻く気持ちを響に吐露し、響の心を知り、やっと気持ちの整理がついた。自分は守りの者を継ぐ。だからいずれ、正式に神社に入る前に、結婚し、跡継ぎを育てなければならない。 「おお涼、熱心じゃな」  社務所で茶をすすって居た松山老人は、入ってきた涼を認めて微笑む。とりあえず休めと、茶を差し出す。  響を諦めると決めたものの、そんなにすぐに割り切る事も出来ない。どんな顔で響に会えば良いかもわからず、とりあえずここに逃げてきた。電波も入らないから、頭を空にするには丁度良い。 「響殿は?」 「平日だから来ないんじゃねーの」    しゅんと背中を丸め溜め息をつく祖父が何だか可愛く思えた。  さて、陽も落ち、境内の石灯籠に火を入れ終えた涼は手燭を掲げ本殿の戸をそっと開く。松山老人から、本殿の蝋燭の一本だけに火をつけて来いと指示されたのだ。  曰く、この蝋燭は常世へ向けたサインらしい。一本は守りの者が居るサイン、二本は巫女が来たサイン。  蝋燭の灯に照らされた座椅子と脇息を見て、響と煌隆の密会を思い出し涼は頭を振る。溜め息を吐いて踵を返すと、背後からかたりと乾いた音がした。 「あびっくりした!」  振り向くと、そこに地に付く程長い髪で、漆黒の布が下がる冠を頭に、束帯に似た衣を着た男が立っていた。  煌隆は座椅子にどさりと腰を下ろすと、扇子で床をトントン鳴らし、涼に向かって一言。 「座れ」  涼は松山老人に無理矢理着せられた漆黒の、慣れない袴にぎしぎし言う体を折り、固い板張りの床に座る。  煌隆にまとわりつく雰囲気は以前覗き見たやわらかいものと違い、今はぴりぴりと肌を刺すようだ。 「……何すか?」  涼を座らせた後も煌隆は一言も喋らず、重い沈黙に耐えきれなくなった涼が意を決して口を開く。  口が酷く渇いて、舌が上顎に張り付く。  煌隆は扇子を広げ冠から下がる漆黒の布の前にかざし、冠を取る。扇子の向こう、長い前髪の隙間から切れ長の目に光る黒い瞳が涼を見据える。  目許だけが見える状態のまま、上から下まで観察される。  瞳は一度大きく見開き、すぐに半眼閉じる。 「松山老人の若い頃に瓜二つだな」  扇子が邪魔で少し聞き取り難い。  涼は相変わらずの金木犀の香りにまた苛々していた。 「布取って良いんすか」 「構わん。響と会う時でなければ一部を隠すだけで良い」  いい加減何の用だ。  涼は噎せ変えるような金木犀の香りとぴりぴりとした威圧感から早く解放されたくて、そわそわと落ち着きがない。 「どういう了見だ」 「何がっすか」 「とぼけるな。守りの者の分際で巫女を汚しおって」 「ああ……あれ。どこで見てたんすか」 「巫女を映す水鏡によって響の事は総て把握しておる」 「それ、ノゾキって言わないっすか?」  涼は敵意を露に鼻で嘲る。  しかし身体中に絡み付く冷えた空気と、剃刀のような目付きに本能的にたじろぐ。相手との歴然とした力の差に身がすくむ。 「いいじゃねーか! どうせもうすぐ響はあんたのもんになるんだ。最初で最後の一回くらいどうって事ねぇだろ? お陰で響がどんだけあんたに惚れてるか痛い位伝わったよ!」  張り詰めた空気に叫ばずにはいられなかった。  どれだけ力を込めても、吐き出す声は震えて情けなく気迫もない。最初に煌隆の発した低く重い声に比べれば小型犬の可愛い威嚇。  おまけに立ち上がろうとして足が痺れている事に気付き、思わず手を付き土下座のような格好になってしまった。 「い、い、いいか、あんた随分女好きみてーだけどな、俺が守りの者になるからにはここに女は一切近付けねぇからな! 浮気なんか出来ねーぞ! 響を泣かしたら黙ってないかんな!」  煌隆は目を細め、扇子の向こうでくすくす笑う。 「面白い奴だ。どう黙っておらんのか見れぬ事が残念だ。私が響以外に移り気するなど有り得んからな」  煌隆は冠を被り、扇子を畳み立ち上がる。木戸に手を掛けゆるりと涼を見下ろす──見下ろしていると感じる。 「良いか、松山老人の孫よ」 「涼っす」 「松山涼よ、二度はないぞ」  煌隆が常世に戻ると、涼は大きく重い息を吐き出した。汗で下着が体にはり付く。 「なんつー威圧感だよ……流石神様ってか……」  社務所に戻って来た涼は炊事場で夕食の支度をしている松山老人に声を掛ける。松山老人は手を止め土間から上がり、涼を自室の隣へ案内する。  涼が昼から松山老人に倣って神社の雑務をしている間に、何年も使っていなかったこの六畳の部屋を涼の部屋にと、整えておいた。 部屋にはこれと言って家具は無く、古びた和箪笥と姿見、衣桁と帯掛があるだけ。 「遅かったの?」  松山老人は涼が脱いだ着物を衣桁に掛けながら訊ねる。  本殿での出来事を話すと、突然頭に手刀がめり込み、静かな山に松山老人の怒声が響き渡る。 「こんの無礼者ー!!」  寝静まっていた鳥達が一斉に飛び立ち木々は揺れ、山がざわめく。  鳥居のすぐ下まで来ていた響はつんざく怒声に耳を押さえ苦笑した。 「……元気なお爺さんだなぁ」  やはり涼はここに来ているらしい。響は開け放してある社務所に入り、框に腰掛ける。  教師は早退したと言うし、家に行けば帰ってない。携帯からは不通の案内が流れるだけ。もしやと思い山を登ったのは正解だった。陽が落ちても手形は迷わず神社まで導いてくれた。  顔を真っ赤にし、ぶつぶつ呟きながら床板が抜けるのではないかと言う勢いで居間へやってきた松山老人に挨拶する。驚きで声を失った松山老人に、口に人差し指を当ててみせる。  松山老人は声を落とし、陽が落ちて山を登ってきた響を静かに咎める。次いで風呂場から湯がぬるいと叫ぶ声が聞こえる。 「心配だったんです。元気そうですね、涼」 「響殿、そんな事のためにわざわざ」 「そんな事じゃないですよ、涼は大事な……友達だから。オレが来た事は内緒にしておいて下さい」  響は社務所を出て、暗い空を仰ぐ。 「主上と話して行かれないのですかな?」 「うん……今夜はちょっと、気分が乗らないんです。また週末に来ます……お爺さん、涼は守りの者を継ぐんですか?」 「そのようですな、随分勉強熱心ですじゃ」 「へぇ、あいつがね」  必死に勉強する涼の姿を想像すると少し滑稽で、くすくす笑いが漏れる。  涼を宜しくと言い残し鳥居に向かう響の背に、短く呼び止める声が届いた。

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