1 / 59

第1話 桐生と皐月

外は、一歩踏み出すと蒸し返しそうな熱帯夜だった。6月後半からの暑さは増すばかりで、湿気と熱風で夜もまた蒸し蒸しとしている。 対照的に高層階に位置するホテルのホールは華やかで、豪華な照明の下、煌びやかな服と会話で涼しげに賑わっていた。 横目では都内を一望できる大きな窓ガラスが張られており、下方では車のライトが川瀬のように流れていた。豪華な人集りを避けて、自分倉本 皐月(くらもと さつき)桐生 楓(きりゅう かえで)は至極目立たないように端に身体を寄せて、少ないシャンパンを飲んでいる。 シャンパンの泡はきめ細かく、芳香な香りがして口の中で溶けるように喉を伝う。やはり高級なのか味が違うように感じるが、違いがあまり分からなかった。 「……なぁ」 桐生は前を向きながら、白ワインを飲んでいた。その横顔は俳優さながら端正整った顔で、お気に入りのブリティッシュラインを基調としたタキシードを綺麗に着こなしていた。桐生のタキシードは初めで見るが、ドキッとするぐらい鍛えられた肉体がよく映えて良く似合っていた。 「…………聞きたくない」 目の前で行われる縁の遠い上流社会の社交界を眺めながら、タキシードを着こなす色男に集まる艶やかな貴婦人達を眺めていた。 「俺、さっき物凄い眼で蒼さんに睨まれた」 「……俺は…怖いから見ないようにしてる」 「その方がいいな」 「……でも、怒ってるのはよく分かる」 「それは俺でもよく分かる」 遠目で集まる周囲を丁寧に穏やかな微笑みで接する蒼に視線を移すが、目も合わせずに笑顔を張り付かせたままだった。 本当は蒼に今夜のパーティーを誘われていたが、着て服もなく、話す人も居らず、仕事を理由に断った。 知り合いもおらず、無意味に人間関係を構築したとしても、交流関係が広い蒼と違い、パーティーに参加するのは苦痛しかないのは行かなくても分かる。 だが、急遽友人である弘前満(ひろさきみつる)が同居人との参加がキャンセルになり代理を頼まれ、代理としてなぜか桐生と参加を余儀され、服は近くで桐生に見繕って貰い、土壇場で引き摺られるように連れられてきた。 自分が行っても無駄なのに、桐生はどうしても自分が必要なのか嫌がる自分に頭を下げてお願いされると弱かった。 そして、運の悪い事に狭い社交界のパーティーで鉢合わせたように、恋人でボストンと日本で遠距離恋愛中の菫蒼(すみれ あおい)を見かけてしまい、近寄る雰囲気もできず、お互い声もかけずに今に至る。 前回、蒼には二回も振られて、苦い記憶はまだあるがお互いを求めて、やっとお互いのわだかまりが解けてまたやり直すようになった。だが、外科医である蒼はやり直す前にボストンの病院に行く事を決めて、そのまま渡米した。 医者としても優秀で、ハーフで彫りも深く、浅黒い引き締まった肉体は魅了を増し、薄緑色の瞳を潤ませる蒼を周囲はほっとくわけがなく、常にモテる完璧な恋人だ。 そんな蒼だか、今は恐らく、物凄く怒ってるのは確かだ。 本当は仕事を終えて、ボストンから帰国した蒼と明日待ち合わせし、久しぶりにゆっくりホテルで一日過ごす予定だった。 それが何故か事前の連絡もせずに、正装し桐生と楽しく談笑している光景を見せつけられると流石の蒼も怒りそうだ。 桐生と冷や汗を掻きながら、どう弁明しようか頭の中は一杯で良い言葉も見つからないまま今に至る。 意外にも嫉妬深いこの完璧な恋人は、未だに桐生や黒木と二人で会うのを嫌がる。今回も連絡せずに桐生と二人でいるので、それもまた疑われてもしょうがなかったが誤解は解きたい。 桐生にとっては昔付き合っていたのもあり、蒼はものすごく固執し、なにか頼み事を桐生にお願いするにも蒼は『まずは僕に相談して欲しい』と言うくらいだ。 とは言っても、ボストンと日本の距離関係を考えれば緊急要件の際は無理があり、どうしても事後報告になる。 どうしようもないループを繰り返しながら、愛を深めるにはまだ時間が足りないような気がした。

ともだちにシェアしよう!