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第3話 過去の男?

すっぽりと見知らぬ男の逞しい胸板を押し付けられ、きつく抱き締められると困惑しつつ距離を取ろうと懸命に動くが無駄だった。 そして何処かで見たような記憶がして、思いつく心当たりを頭の中で思い浮かべた。 「……会いたかった。皐月、黒瀬槇(くろせ まき)だよ。覚えてる?」 満面の笑みで、黒瀬は微笑んだ。 黒髪と黒曜石のように澄んだ漆黒の瞳は見覚えがある。忘れていたバラバラで崩れかけていたピースが合致し、閉じ込めていた記憶がまざまざと思い出された気がした。 忘れたわけではない。 甘く軽い黒瀬の声は昔の苦い記憶とあまり変わらなかった。 「……槇?」 顔を見上げると、懐かしさと辛い記憶で胸が締めつけられそうだった。全身の血の気が引き、急に寒気すら覚える程に身体が硬直した。 柔らかな黒髪は綺麗に整えられ、甘いマスクは相変わらず人々を騙すには丁度良く健全だった。 ああ、なんで今になって思い出すんだろう。やっと忘れたと思ったのに……。 じっと見上げながら、黒瀬の不敵な笑みを見つめて呆然と抱き締めながら立っていた。 「――――――――皐月、大丈夫?」 聞き慣れたその優しく穏やかな声が頭上から響き、止まりそうだった鼓動がバクバクと持ち直して、冷えた身体に熱が戻ってきた。  「……あ……蒼?」 「桐生君、知り合い?」 にこにこと穏やかな落ち着いた声で、蒼は隣にいた桐生へ質問を投げかけた。 「いえ、皐月の知り合いだそうです」 桐生はあまり関わりたくないのか、素気なく答えて横目で黒瀬と自分を眺めた。 黒瀬はまだ自分を抱き締めたまま、傍に寄る蒼と桐生に軽く会釈し、きょとんと目を大きく見開いた。 長身の三人は正装であるタキシードを品よく着こなし、集まるとより周囲から目立つようなきがして、自分は一人でハラハラとこの場から逃げい衝動に駆られた。 グラスがぶつかる音と忙しない貴婦人達の会話の中、背の高い男前が端に寄り添いながら笑顔で談笑してるように見えるが、実際には冷淡な視線と無言のやり取りが胃を痛めた。 思ったとおり好奇の視線が集まるのを感じ、蒼の声でさらに腕の中でもがいた。 「く、黒瀬、離して……」 「黒瀬さん、ちょっと離して頂けませんか?」 おどおどと黒瀬の胸板を押しのけると、窘めるように蒼は間に割って入った。 顔を見ると少し、いや、かなりの怒りを隠しながらも、表情は紳士らしく穏やかで冷静だった。 「わ、ごめん! 皐月。菫さんですね、噂は予々訊いています。黒瀬槇です。金融コンツェルンをしていていて、弟さんにはかなりお世話になっていますよ。お兄さんとも話したくて、今日は本当にラッキーだな」 「いえ、こちらも弟がよくお世話になってます。皐月、こっちにおいで。」 蒼はすっぽりと埋まった自分の手を引き、引き寄せた。黒瀬ももがく自分を名残惜しく手離し、分厚い胸板から解放した。 そして、蒼へ優雅に手を差し出して、笑顔で握手を求めた。 「どうぞ宜しくお願い致します」 「こちらこそ、今日は家の代理で来ました。菫 蒼(すみれ あおい)です。普段は外科医をしてます。よろしく」 「……へえ、外科医か。それは多忙ですね。皐月とはどういった関係で?」 黒瀬は慣れ慣れしく、機嫌がよろしくない蒼に聞いた。桐生はいつの間にか席を外して、いない。逃げ足は流石だった。余計な事に首は突っ込みたくないのだろう。 蒼は静かに微笑みながら低い声で答えた。 「親しい友人ですが、貴方は?」 「僕ですか? 僕は高校から大学までお付き合いさせて頂きました。ね、皐月」 何年も傍で見た微笑みは変わっておらず、黒瀬は平然と話して欲しくない相手に、悪びれる事もなく最悪だった自分の過去を話した。 「……う、うん……」 「へぇ、そうなんだ。皐月、僕初めて知ったかな」 薄緑色の瞳はシャンデリアのように煌き、キラキラと自分を優しく見つめていた。

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