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第9話 黒瀬と過去

とにかく、そんな過去と黒瀬の存在を蒼に知られたくなかった。蒼とはずっとそれを隠して付き合えていけたら、と願っていた。桐生を利用して、黒瀬を忘れるつもりで、後で知る桐生の家柄とその格差、制限された関係と躰だけ求められる生活に黒瀬をさらに思い出させた。そして桐生の兄、義孝に酷く詰られて、黒瀬と関係を続けていても同じような現実が待ち構えているんだとも絶望の中、感じていた。その後、自分の中の黒瀬や桐生への思いを終わらせてやれると、泣きながらボストンバックに荷物を詰めたのを覚えている。 結局、住む世界が違うし、自分にまともな恋愛など無理なのだ。 そう思うと酷く惨めで、悲しかった。 勿論、桐生の事は愛していたし、好きだった。 だけどもどこかで黒瀬の影を引きづっていたような気がしていて、普通というものを諦めた。 そのまま逃げるように東京を立ち、誰も知り合いのいない札幌を選んだ。 そして蒼と再会してしまった。 喫茶店で小説を書き綴って、貯金を崩しながら慣れない生活を送っていた。 その時も喫茶店に通っては駄文を綴り、珈琲を何杯も飲んでいた。 長身で端正整ったスーツの男が店の入口から入ってきて、周囲の視線を集め、自分も顔を上げた。 ふと、どこかで見知った顔だなとみてると薄緑色の瞳がすぐに自分を捉えて、煌めいたのを覚えている。 一瞬、その姿に黒瀬が迎えに来たかと身構えてしまった。そのぐらい当時は、黒瀬と蒼は似ているように見え、黒瀬の影に囚われていた。 一度きりの食事で数回言葉を交わしただけなのに、すぐに自分に気づいて蒼は尻尾を振った大型犬のように近づいてきた。 『……サツキだよね、覚えている?』 いきなり下の名前で呼ばれて、驚いて目を丸くした。 声も違う、顔も違う。 その明るく穏やかな雰囲気に、飲み込まれそうだった。 『……あの時のお医者さんですよね。おひさしぶりです』 『……良かった。覚えてくれてたんだ。元気だった?』 急に安堵したかと思うと、ものすごい強い力で抱き締められ、びっくりしたのを覚えている。 海外に住んでたせいか、蒼はスキンシップが激しい。 『わわっ、菫さんっ……』 座ったまま抱き締められて、周りの客の視線をさらに集めて恥ずかしかった。 蒼ははっとして照れながら、向かい側の空席へ座り直した。 『ごめんごめん、こっちに今いるの?』 『……はぁ、暫くはこっちに住もうかと……』 『そっか。よくこの店には来る?』 蒼はパタパタと尻尾を振った犬のように、薄緑色の瞳を煌かせながら質問をどんどん投げてきた。 どうせ、暇なのだ。 今日帰るだろうと思って適当に返答した。 そして蒼は次の日も、その次の日も同じ時間帯に店に顔を出した。 『…………明日帰るんだけど良かったら、ご飯食べない?』 ある日、帰ろうといつもの喫茶店を二人で出て、解散しようとすると、服を引っ張られ小さな迷子の子供のように上目遣いでそんな事を言われた。 色男がそんな可愛い仕草をしているのが、あまりにも可笑しくて、思わず噴き出してしまった。 『……ふは、蒼さん、恰好良いのにそんな可愛い事するんですね』 モデルのように脚が長く、長身でスーツを優雅に着こなし、周囲の視線を集める蒼が小さな子供のように見え、そのギャップが本当に可愛くて面白かった。 『……僕も緊張する時だってあるさ。返事が聞きたいのだけど、どうかな?』 蒼はむくれた表情と真剣な声で訊いてきたので、またそのギャップに笑ったのを覚えている。 それから蒼はわざわざ札幌までやって来ては、話をしてご飯を食べ、帰って行った。 話す相手がおらず、誰の目も気にせず会話を楽しめるその空間が心地よかった。 何も知らない蒼が愛しくて、どこかで黒瀬を重ねて見ていた。蒼と付き合うなんて想像もしてなかったし、恋愛なんて望んではなかった。 ただ次に会う約束もせず、いつ来るか分からない蒼をただあの喫茶店で待っていた。 完全に黒瀬を忘れたわけでなく、どこかでその面影を蒼に重ね、会う度にその影を消して、淡い思いを育てるだけで十分だった。

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