28 / 59

第28話

ボストンは治安もよく、バスと地下鉄が一般的に使われており、路線も豊富にあるので、市内の移動には不便することはなかった。毎日のように外へ一人寂しく繰り出していたので、大体慣れてきた。 美しく植栽された草花や行き交う人を眺めながら、昨夜の出来事を思い出した。 ボストンに来てから蒼はずっと忙しく、深夜に帰宅していたが、寝室は一緒だった。早朝に起きると蒼の寝顔が横にあって、頬にキスして我慢したりしてた。 放って置かれても、仕事なのだからしょうがないだろうし、疲れてるのだから会話も少ないのだろうと思い込んでいた。だから一緒に寝ているこの時間が唯一の癒しで、救いだった。 だが昨夜、ついに蒼は別室に移動した。 「黒瀬さんとはどのぐらい付き合ったの?」 夜中に本を読んでいると珍しく早く仕事を終えてシャワーを浴びた蒼がベッドに入ってきた。相変わらず会話は少なく、疲れてそうだったが顔色は良さそうに見えた。 広く逞しい背中を向けて、急にそんな事を聞いてきた。表情は見えず、声は冷淡だ。 どうしようか返答に躊躇していると、しばしの沈黙が出来てしまい、思い切って言葉を探しながら答えた。 「8年かな。」 「………そう、長いね。」 蒼はこちらに顔を向けず、背中を向けたままだ。もしかして黒瀬と一緒に来たことを嫉妬しているのだろうか。いや、でも、流石に一週間ほど放っておかれる筋合いはない。 「黒瀬の事、気になる?」 「そうだね、彼、黒木君とも似てて、なんだか皐月の好みが分かった気がした。」 蒼の言葉には刺があり、どう宥めたらいいのか困った。そして、今ここで黒木と黒瀬が親戚関係である旨を伝えるのは流石にやめようと瞬時に判断した。余計な事を言って、また拗れたら、この旅行もさすがに最悪な結末を迎えそうだ。 とりあえず黒瀬の評価を下げて、蒼のご機嫌を取ろう。そう思った。 「でも浮気ばっかりされてたから、どうかわからないよ。」 「………彼、浮気してたんだ。」 「しょっちゅうだよ。」 拗ねた子供を諭すように話すが、頑な蒼のご機嫌は治らなかった。 大学に入ると黒瀬はとっかえひっかえ女と遊んで、部屋へ行くと鉢合わせすることも度々あったのは事実だ。 「なんで別れなかったの?皐月は浮気されても平気な人?」 蒼に言われると胸が痛み、平気なわけがないと心の奥底で叫んだ。 ただ、浮気される度に優しくほだされてしまうと、結局許してしまう習性が呼び出されてしまっていた。 一度許すと、どんどんと出口が遠のくように、黒瀬の浮気を繰り返しては許していた。 それでも気づかないふりをして、平然を装って付き合うと月日だけが経ってしまった。 あの頃は若くて、好きで好きで、ただ傍にいたくて、なんでも許せばよいと思っていた。 「平気じゃないよ、浮気は辛かったし、結婚を機会に別れて良かったと思ってる。」 そう言って、毛布かははみ出た蒼の背中に触れた。エアコンが効いてるせいか、触れた指先は冷たく冷え、そっと毛布を掛け直してあげた。 「………そう。でも8年か、よっぽど愛してたんじゃないかな。」 「終わったことだよ。」 愛してたのだろうか。 惰性で付き合い続けて、自分のトラウマだけ作っていただけのような気もする。 「…終わった事か。僕、あの人と会ってから、今まで腑に落ちなかった部分がやっと分かった気がするんだ。」 蒼の声は普段より低く重かった、そして少し怒気が混じってるように聞こえる。 音楽もかけてないので、寝室に蒼と自分の声だけが響く。 「…もう、蒼だけだよ。」 蒼がなにが言いたいのかは分かった。 分かっているから懸命に蒼が好きだという事を伝えたかった。 「……ずっと桐生君だと思ってたんだ。でも何か違うってどことなく疑問を感じながらも、傍にいたんだ。それで、前に黒瀬さんといる君の表情を見てなんとなく分かった。」 「分かったて…なにが?」 「……ずっとあの人を想ってた事だよ。桐生君や僕と付き合っていても、君はあの人と比べて重ねてたよね。」 「……ごめん、初めは…そうだけど、もう好きじゃないよ。それは本当だよ。」 そっと蒼の背中を撫でるが、蒼はこちらに背を向けたまま動かない。ずしりと胃に嫌な感じが滲む。 「皐月、ごめん、付き合い初めは承知してたけど、遠距離をしながら、少ない連絡で過ごしていると、なんだか……その、君との関係に自信がないんだ。」 あ………。 蒼の言葉を聞いてどうしたら良いか分からず狼狽した。寝ている身体を起こして横に寝ている蒼の顔を眺めるが、横を向いて表情はわからない。 「………連絡は取れなくてごめん。」 やはり何度も入れ違いでかける電話に蒼は苛立っていたのだろうか。 「いいよ、今も黒瀬さんの影を引き摺ってる?」 「………昔は引き摺ってたのは事実だけど、今は違うよ。」 「………散々浮気されても8年付き合ってたんだから、別に引き摺ってるのはいいよ。付き合い初めは引き摺ってたの知ってたしね。」 「ごめん…。」 日本人の習性なのか、つい謝罪の言葉が口から出てしまっていた。表情の見えない蒼の背中に頭を下げながら、この状況を上手く切り抜けたかった。 「僕が一番しっくりこないのは別れたのに、あの人と仲良く話したり、ましてやせっかく僕の所に来るのに、一緒に飛行機に乗るとか僕は理解出来ないんだ。君はそうやって上手く絆されていいの?」 普段冷静な蒼が怒っているのを見るのは初めてだった。確かに数年ぶりに再会した元恋人と一緒に飛行機に乗り、懐かしい思い出を話しながら逢いに来るのは配慮にかけていた。 だが、あんなに愛してる、好きだよと言葉を紡ぐように伝え合ったのに、そんな事を考えていた蒼にショックを受けた。 過去を問われ、責められてもなにも出来ない。やり直す事も、戻る事も出来ないのを知ってる癖に蒼は執拗に責める気なのだろうか。 「……黒瀬は別れたけど、躰だけ繋ぐなんて最低な事しないし、今は友人として接する事も許させれないの?」 あまりの言いように腹が立って、ついに思ってもいない事を喋ってしまった。 「最低な事か。……そうだよね、僕は君に最低な事をしてたね。黒瀬さんのように友人にも戻れる自信もないよ。」 しまった、と思った。 お互いに触れない様に遠ざけていたのに、最悪のタイミングで持ち出してしまった。 「蒼?」   「…………ごめん、やっぱり疲れてるから、ソファで寝るよ。暫く頭を冷やすから、一人で寝てて。」 まるで自分がいると休めない言い方だ。蒼の心のシャッターは閉め切られた。 蒼は上半身を起こし、顔を見ずにそのまま立ち上がり、そしてそのまま無言で部屋を出て行った。 弁解の余地も与えず、ただ大きなベッドに一人残され、碌な会話もなく、喧嘩だけが進展した。

ともだちにシェアしよう!