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第32話

久しぶりに誰かと楽しく話し、満足な食事を終えた。会計を済まし、黒瀬と悠を待たせながら、レストルームで手を洗っていると後ろから懐かしい声で振り返った。 「倉本さん…!お久しぶりですね。」 嫌な予感がして振り返ると、苦い記憶のある元担当医の朝倉だった。 朝倉は昨年刺された拍子に頭を打ち、記憶を無くした時の心療内科医の担当だった。穏やかな落ち着いた笑みを浮かべて近寄ると、互いに軽く頭を下げた。 相変わらず羨ましいな……。 朝倉は中性的でどこか惹かれる容姿をし優秀で話しやすく、自分にはないものを揃え持っているような気がした。 「お久しぶりです。朝倉先生はご旅行ですか?」 ハンカチで手を拭いて、極めて冷静を装い微笑んだ。朝倉は照れた笑いをしながら、頭を掻いた。 「……たまに学会で来るんです。今日はたまたま昼に菫先生と会って、明日は1日街並みを案内してもらうんです。……倉本さん、確か菫先生とお知り合いですよね。会ってます?」 朝倉は嬉しそうに微笑んで、照れていた。 その顔は恋をしているように見えて、察するには十分だ。 「……いや、あまり。そんなに仲良くはないですよ。明日は菫先生と観光ですか、楽しそうで良かった。」 わざと知らないふりをし、棘がないよう終始最後のセリフまで気を遣った。 そもそもこの人にとって、蒼と自分が付き合ってるなんて話しても紹介もしていないのだろう。 「うん、菫先生がボストンに来た時からよく学会の度にこっちに来て食事したり観光してるんです。倉本さんは?」 「僕も大学の親友と一緒で、楽しく観光してます。」 緊張しているのか、朝倉に合わせて一人称が『僕』に変換されてしまった。 本当は一人で美術館と公園を往復する毎日だ。 「そう、お互い楽しんでますね。まあ、僕は仕事なんですけどね…。今日も同僚とここで食事するんですよ。美味しくて有名なので、楽しみです。」 照れたように朝倉は頬を赤くして笑った。いつもの診療する時の顔とは違い、魅力的に移った。 「………ええ、美味しかったですよ。すみません、待たせてるので。」 和かに笑ってその場を去ろうとした。 本当は立ってるのも嫌で、早く帰りたかった。 「あ、急に声をかけてごめんなさい。ではまた。」 恥ずかしそうに朝倉は俯くと、はらりと艶のある前髪が落ちた。その姿が酷く艶かしく見えて振り返って要らない事を聞いた。 「先生は菫先生の事、好きなんですか?僕は、こちら側なのでなんとなく察してますけど…」 自分を偽りながらも、その真意をなんとなく探りたくて、朝倉の大きな潤んだ瞳をじっとみつめると朝倉は顔を赤くした。 「……はは、うん。バレバレだよね。学会も口実で、菫先生に逢いたくて頑張ってるんだけど、いつまで経っても僕は見込みはないかな。」 ああ、やっぱり。 「朝倉先生ならお似合いですよ。応援してます。」 上手く自分の気持ちを濁しながら、朝倉の背中を押した。最低だが、1番見込みないのは自分だった。 付き合い直して、何度か会っていたがこっちに来るのは初めてだった。 蒼との外食も楽しみにしていたし、観光も下準備するくらい待ち遠しかった。 「うん、ありがとう。」 微笑ましく笑う朝倉に頭を下げて背を向けた。 なんだ、会っていたんだ。 そして昼間ホットドックを食べてる時に、二人はランチもしていた。 自分の昼の姿を思い出して笑えそうだった。 『彼は同僚だよ。間違えないで欲しい。』 蒼は前にそう言っていて、今もまたそう言うだろう。 別に朝倉と食事したり、観光するのは構わなかった。ただ、自分を蔑ろにされながら、それをされるのは流石にキツかった。 もう無理なんだろうか。 多分蒼にそういう仕打ちをされるには、そういう理由がある。 朝倉の細く薄い肩を思い出しながら、そう思った。

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