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第43話

しばらく館内をぶらついて出口に辿り着くと、また車に乗り、美味しいランチを食べた。 黒瀬は丁寧に悠の口を拭いて、ちゃんと子育てをしている姿をみるとなんだか昔の黒瀬が信じられなかった。 そして悠を砂浜を遊ばせながら、三人で散歩とあっという間に夕方になった。帰りの車では悠は歩き疲れたのか、後部座席に設置しているジュニアシートに身体を預けて寝ていた。 「都内で良かった?」 黒瀬はサングラスをかけ、ハンドルを掴みながら優しく聞いた。 帰宅ラッシュの前なのか車は少なく、幹線道路はスムーズに流れている。 「うん、ありがとう。都内の適当な場所で下ろしてくれたら助かるよ。」 「………お願いがあるんだけど、1日だけ悠を預かって欲しいんだ。大変申し訳ないんだけど丁度いいシッターもその日に限って見つからないし、できれば懐いてる皐月に頼めたらお願いしたい。駄目かな?」 運転しながら黒瀬はペットボトルでお茶を飲んで言った。 「………いいよ。仕事も落ち着いたし、ボストンでは世話になったんだから。全然構わないさ」 そう言い車窓から海を眺めた。 悠もよく懐いててくれて、一緒にいると癒されるので大歓迎だった。 車窓から見える海は風が強くなってきたのか波が荒くなって、どんどんと岸に打ちつけ寄せ合っている。 「ありがとう。助かるよ。」 先程コンビニで買ったドリップコーヒーを口に含む。ボストンの珈琲よりは苦くなく酸味だけが口腔に残り味はまあまあだ。 「………あのさ」 自分は飲みかけたドリップコーヒーを置いて、黒瀬にぼそりと声をかけた。 「なに?」 車が信号で止まり、ウィンドブレーカーがカチカチと音を鳴らし車内で響いた。合流地点なのかここから車が渋滞になりそうだ。 「………俺達、別れて良かったね。」 唐突な自分の言葉に黒瀬の視線を感じ、顔を見られないように横を向いた。 「僕は嫌だったけど。」 「………そうだね。黒瀬は最後まで嫌だて言ってたのを覚えてる。でも悠君を見ると正解だと今日感じたよ。あの時は浮気は辛いし嘘もつかれたくないて思ってたけど、今はあの時の自分に感謝するかな。」 波立つ海を見ながら、若くて苦い記憶を思い出した。あの日も夏だった気がする。 「………本当は君に振り向いて欲しくて、浮気してたらどうする?」 はっとして、黒瀬の顔をみたが表情は前を向いてよく分からない。 「なにそれ。」 「……君はバイトで忙しいし、逢っても素っ気ないし、いつも不安だったよ。」 「…そうかな?」 「そうだよ。その時は若かったし、調子乗っていたけど、結局、君は浮気しても黙って許してくれて、本当に好きなのかって疑っては試してた部分もあるんだ。それでも付き合ってくれるから、ずっとこのまま一緒に傍にいてくれるんじゃないかなて思ってた。」 「……誤解だよ」 「そして、悠が出来ても僕を責める事なんてしなかったよね。……それに、君が在学中に両親を交通事故で亡くしてたのを別れてから知って、ショックだった。信用されてなかったのかとすら思ったよ。浮気ばっかりして深く傷つけて、本当にごめん。でもずっと好きだった。」 「……うん。」 「早く忘れなよ。傷ついた顔を見ると、つけ込みたくなる。」 「それは勘弁。………でも俺も黒瀬の事は好きだったよ。なんだろうね、あの時は好きだったけど槙はモテるし、常に誰かといたから、なんとなく重いし言えなかった。」 「………あの時、言ってくれれば良かったのに。君と別れてから知って、自分のしていた事に初めて後悔したよ。謝ろうとしても連絡はつかないし、心配してたんだ。本当に、ごめん。」 「……いや、俺も話したつもりで話そうとしてなかったんだ。その後色々あったし……。いいんだ、俺の方こそごめん。」 お互いに謝り合い、変な感じがした。 大学の時に両親が旅行に行き帰り道の運転で、交通事故に巻き込まれて二人とも亡くなり、賠償金やら保険手続きなど大変だった。 連絡を受けて、駆けつけると無残な姿に涙も出ず、ただ淡々と警察の説明を受けた。親戚もそんなにおらず、一人で全ての手続きを終え、手にしたお金と残った貯金とバイトとで大学を卒業した。 それを黒瀬には話しておらず、逆に遠ざけてしまってたような記憶がある。余計な心配と浮気を繰り返す黒瀬に対して気持ちが重くならないようにセーブをかけていた。 「……君は急に僕を遠ざけるし、気づくべきだった。」 「………ごめん。余裕がなくてさ。でも傍にいてくれただけでもすごく感謝してるんだよ。それに一人になりたくなくて、君に縋りたくなって、浮気も黙って見過ごしてた。だから本当は、俺が謝るべきかなって思ってる。槙、ごめん。」 「僕は浮気してたんだよ?しかも子供まで作った。」 「………………いいんだ、もう。」 黒瀬は驚いた顔をした。 家族を亡くして一人になりたくないという思いが、どうしても黒瀬を手放せず、付き合い続けたのがそもそもの原因だった気がする。 黒瀬は根気よく誘い、根負けして逢って抱かれるとその甘い言葉に酔いしれた。黒瀬の甘いマスクと上っ面な歯が浮くような言葉はそれなりに楽しく、それで幾分か救われたのは事実だ。 浮気する度に『君の事が一番好きなんだ』、『君とずっと傍にいたい』と何度も仲直りし、耳元で囁かれると段々と麻痺して従順に従うしかなかった。 そしてその結果として、黒瀬は知らない所で悠を作り、結婚式を笑顔で祝うというなんとも残酷なものを受けた。そのせいで、しがみつく恋愛を避けてきたのもあった。 だが今こうして話し、悠と出かけるとなんだかんだで、別れて良かったと感じる。 あの遠く辛い過去を乗り越えた分、穏やかで静かな時間を今日過ごせた。 「………僕達、ちゃんと話してればよかったかな」 「どうだろう。浮気は治らないからね。……いや、やっぱり、浮気は駄目かな。」 「あの頃だけだよ……。」 「へえ、それは良かった。」 そう言って黒瀬を茶化すと、お互いクスクスと笑い合った。 8年付き合った分だけ、濃くて辛く、苦い記憶がゆっくりとさざ波のように穏やかにやっと消えていく気がした。 「再会して思ったけど、君は不器用で上手く伝えられないんじゃないかな。小説家なんだから、手紙でも書いてあの人に送ったら?」 前の車が進み、合流地点に入ると車はスピードを上げ、黒瀬はハンドルを握りながら言った。 「………それは善処しとくよ。」 自分の駄文が蒼の心を射止めるとは思えなかった。 射止めたとしても、また嘘をつかれるのではという気持ちが湧き出て、どうしても文章が浮かばない。 シートにもたれ掛かると眠気が襲ってきて、振動ともに寝息を立てて寝た。ボストンから帰ってきて初めて体力を消耗した久しぶりの外出だった。

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