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第5話 ②

 川が近付いてくるにつれ、辺りに特有の生臭さが漂ってくる。煙草を外へ弾き飛ばして窓を閉めると、マルシャルは裏道へ進路を取らせ、細かく道順を指示した。  クライネ・ヴェーザーの支流が行き止まりを迎えた湖から、歩いて30分も掛からない場所に、その宿はあった。閑静な住宅街の真ん中にある建物は2階立て、恐らく客室は10室あるかどうか。鄙びているが、民宿と呼ばれるのは我慢ならない観光旅館の典型と呼べる佇まいだった。クリーム色に塗られた羽目から、深緑色をしたビニール張りの日除けが伸びて、洒落たカフェも兼任していることを誇示している。  普段は最低限、周囲との調和を約束しているそこは今、すっかり異質な空間と化している。軒下のテーブルには空席が一つもなく、通りは路上駐車で溢れ返る。これでもまだ足りないと言わんばかりに、湖へ隣接する公園へ車を停めてきたらしい人々が、通りの北側からぞくぞくと歩いてきた。    幸い、駐車する場所を探し回る必要はなかった。ちょうど車を一台入れられるだけの空間を路肩に確保してくれていたのは、恰幅の良い中年男性だった。こちらへ向かって子供のように手が振られるたび、袖口から覗く金時計が、真上の太陽を反射する。 「いや、本日はどうも、神父様」 「今日もまた、多くの方にお越し頂いたようですね。有り難い話です」 「それはもう、神父様の人望あっての事ですよ」  幾ら神父とは言え、自分の息子と呼んで通るかもしれない年の人物を相手に、男は喜んで遜る。そしてそれを、マルシャルは当然の如く受け入れ、頷いて見せるのだ。述べた礼に込めた感謝の気持ちと、違和感を覚えさせることなく両立させながら。 「食堂は満員で、喫茶室を一時的に閉鎖し、スピーカーを引いています」 「そこから参加者の顔は見えますか」 「はい、この前仰られた通り、そのように」 「なら結構。それと、こちら聖母の涙学園で手伝いをして頂いているヘンペルさん。レムケさんは、今回の講演を手配して下さった方です」  運転席前でぐすついていたヨシュアを振り向くと、マルシャルはそう紹介した。するとどうだろう。今まで、こちらの存在を無視して当然と思っていたらしい男が、ヨシュアと握手を交わす。心からの敬いの念を込めて。 「ようこそいらっしゃいました。あそこでの仕事は大変だと聞いていますよ……すぐにコーヒーでもお持ちしましょう」 「いえ、彼は話を聞いてみたいと。席を用意して頂けますか、出来れば食堂の中に。それでいいね、ヨシュア」 「ありがとうございます」  咄嗟にヨシュアは、そう口にしていた。適切な返答であったかどうかは分からない。ただ、何かとんでもないことが自らの身へ降りかりつつあるのだということは、本能で理解できた。  宿の前に集まっていた聴衆が、マルシャルを見つけたらしい。彼を中心にして、ざわめきが円環状に広がる。誇らしげに先導するレムケは完全に無視されていた。それまで絵に描き込まれているようだった群衆が、ぱっと生気を灯す。 「こんにちは、神父様」 「今日を楽しみにしていました」  誰もが彼に挨拶をしたがった。マルシャルはにこやかに言葉を返しながら、人々の波を2つに割っていく。その堂々とした姿は、創世記に登場する英雄の巨人を思わせた。 「彼らの殆どが福音主義者なんですよ」  会場まで向かう途中、誰もいない厨房へ差し掛かった時、マルシャルは呟くように言った。 「EKD(ドイツ福音州教会)の連中は、なかなかやり手でね。この街にある州教会へ信者を縛り付けて手放さない。私が白い襟を差してここへやってきたら、誰も話へ耳を傾ける気を持たんでしょう」  彼は一瞬ぐっと身を傾け、ヨシュアの耳へ、彼だけに聞こえる声で囁いた。 「でもそれが逆に、好都合なのです……この意味がお分かりか」  高鳴るヨシュアの胸など全くそしらぬ顔で、マルシャルはさっとその側を通り抜けた。古びて重い金属製の扉を押し開け、会場へ足を踏み入れる姿に、臆した様子は全くない。彼は自らの力を、成すべきことを完全に把握している。    すり切れた赤い絨毯を敷いた会場は、人いきれでむせかえりそうな程だった。学園でのミサより幾らか多い程の席だが、そこを埋めるのが大人であることと、部屋の狭さから、圧迫感が増して感じられる。例え背後の喫茶店へと続く扉が開け放たれていても、なお。  居並ぶ面々はジーンズを履いた下流から、高級な背広姿の上流階級まで様々だが、席次に区別はつけられていない。壮年の者と若者がお互い、嫌悪を示すことなく入り交じっていた。  ヨシュアが案内された、比較的前の方の席の隣には、40絡みの主婦然とした女性が腰を下ろしている。優しく微笑みかける彼女に、ヨシュアはぎこちなく唇を歪め、席に着いた。  レムケは居並ぶ席の正面に机を引き寄せ、短いスタンドの付いたマイクを乗せたが、マルシャルは手に取ろうしなかった。正面に据えられた、皆が用いるのと同じ椅子に腰を下ろし、脚を組む。口が開かれることはない。ただ聴衆を楽しそうに見回し、気付かれるのを待っている。  長くは掛からない。人々はお互いを肘でつつき合ったり、はっと息を飲んだり、中には感激の呻きを放ったり。徐々に沈黙が広がっていく。  水を打ったような静寂が室内へ満ちると、マルシャルはおもむろに「さて」と呟いた。 「あまり元気ではないようですね」  笑うべきなのかとヨシュアは思ったが、大まじめな表情を崩す者は一人としていない。次の一言を、固唾を飲んで待ちかまえている。  満足げに頷くと、マルシャルは演奏を始める前、指揮棒を掲げる指揮者の軽やかさで、一本立てた指を耳の高さまで持ち上げた。 「では皆さん、どうぞ目を閉じて下さい」  祈る形に手を組む者もいたが、大抵はただ俯いて瞼を落とすだけだった。周囲が従うのを目にし、ヨシュアも慌てて倣った。 「これから3分間、あなたが子供であったとき、自らにとって一番身近だった人の被った哀しみや苦しみに想いを馳せて下さい」  自ら作り上げた暗闇の中で、低く張りのある声は極限まで柔らかく漉され、耳へと流れ込んでくる。 「家族、友人。彼らはいつも笑顔でしたか? まさか。痛みは常にあったはずです。さあ、記憶を辿ってみて」  言われた通り、ヨシュアは深く考えに耽った。特別に裕福ではなかったが、懸命に働いて子供達を飢えさせなかった両親。彼らの農具でたこの出来た、分厚く荒れた掌。  母はいつも眼を伏せ、父親は背中を丸めて唇を噛んでいた。そう、彼は古びた荷車を妻と子供達に押させ、はばかりながら荷を運ぶ。今日こそは、国境で止められないことを祈りながら。  あの頃はまだ、誰の傷をも癒えていなかった。かつて故国にされた仕打ちをやり返そうと言わんばかりに、検問所の兵達は敗者を恫喝する。 「俺の妹は、メレヘンからポーランドへ送られたきり帰ってこなかった。まだたった5歳だったのに」  竦み上がるヨシュア達に、一番年若い兵が吐き捨てる。憎悪で熱く燃えたぎっているにも関わらず、彼の瞳は少女のように美しかった。  ひっくり返された荷台から散らばる芋やキャベツは、拾うことも許されない。元来た方角へと追い返され泣き叫ぶ子供達に、母親は必死で言い聞かせた。一番潰れそうなのは、自らの胸であったにも関わらず。 「私達が悪いんだよ。あの人達に悪いことをしたんだ」  思い出すだけで悲しみに沈みそうな心は「思い出すのに、3分は随分と短いでしょう?」となめらかな声によって何とか浮上する。 「まだ眼を閉じていて。次はもう少し簡単にいきましょう」  溺れる者が浮き輪へ死に物狂いで手を伸ばすように、ヨシュアはマルシャルの声へ急速に意識を傾けた。「簡単に」という単語を口にする時の、気軽な言葉付きへ縋りつけば、あとは満ち潮へ乗って強く岸へと引き寄せられるのと同じだ。淀みない語り口が、導いてくれる。 「この一週間であった後悔、屈辱、腹立ちを出来る限り想像して下さい。失敗した仕事? 聞き分けのない子供? つれない恋人? まあ何でも構いません。私もやってみましょう、入った食堂で、女給に膝一面へバターミルクをひっくり返されたことでも思い出して……さあ笑わず、真面目にお願いしますよ」  引き攣った笑い声が蒸発した頃には、ヨシュアも再び思考へたゆたっていた。  真っ先に思い出すことが出来たのは、美しい少年の姿だ。芝生へ寝転がり、友人達とラジオを囲みながら、セバスチアンは大声で笑っていた。彼の少しわざとらしく、相手を威圧する馬鹿笑いは、ロック歌手の歌声をも掻き消して辺りに響き渡る。子供じみた粗暴な動きで脚はばたつき、肉付きの薄く引き締まった胴体がしなやかに震えくねった。  君臨の最中、彼は母屋での大工仕事を終え、道具を抱え通りかかったヨシュアに視線を向けた。肩へ顎を乗せて振り返り、涙の滲んだ眼に捉えた。  それはほんの一瞬の、無関心な視線だった。そう、全く無関心だったのだ! ヨシュアがまるで敷地内に植わった木の一本でもあるかのように、さっと素早く意識は通り過ぎる。あんな熱い眼をして征服を宣言した相手に対し。他の男へあれほど簡単に脚を開く下劣な性根の分際で。  自らの吐く息が早く、熱くなっていくのを、ヨシュアは抑えることが出来なかった。それは自涜の際の肺の痙攣に似ていた。違うのは、覚えるのが惨めさではなく、やりきれなさだという点だった。  到底人前で晒してよいものではない。だが、同じ響きは、そこかしこから聞こえてくる。ある者は鼻を詰まらせ、ある者は壊れた機械のように呼吸を乱れさせる。 「自らの感情を否定する必要はありません」  まるで図っていたかのように、マルシャルが正面から呼びかけた。 「今ここに、あなたが信じ、あなたを罰する存在はいないのだから。ここでは多様な考えを持つ人々が集い、一つとなっている。どの神も、この中へ入り込むことなど出来はしない……苦しみを吐き出しなさい。何もはばかる必要なく。今この時においてのみ、あなたは自由です」 「奴が憎い」  いの一番に口を開いたのは、恐らくあの立派な格好をしたレムケだ。絞り出された苦鳴は、張りつめた空気をぐらりと揺さぶる。 「あの男が……最後まで私を憎むと、呪いの言葉を吐き続け死んだあの男が。私はただ、当然の事をしたまでだ。あいつが出来ないことを。あいつに任せていたら、会社はとうの昔に潰れていた!」  誰かが先陣を切れば、後は容易い。怒濤の如く放たれる訴求に縒り合わせるよう、声が聞こえてきた。痛罵もあれば、金切り声も、連綿と口の中で続けられる呟きも。  目を見開いたヨシュアの腕に、そっと手が掛けられる。隣の婦人が、何度も頷きながら囁いた。 「大丈夫よ、怖くないわ……身を投げ出しても大丈夫なの」  彼女は目尻に一杯涙を溜めている。それを眼にして、ヨシュアは自らの頬に触れた。そこには温かいしずくが一条、流れ落ちた跡があった。 「……私は、とても辛いんです」  鼻がひくついて、言葉へする前に一度つっかえてしまう。だがちゃんと、声を出すことが出来た。 「とても辛いんだ。私はどうすればいい。この浅ましさをどうにかして欲しい。だが道のりは遥か遠い……一体どうすれば? 私が望んでなったものではないのに! 何故私が苦しまねばならない? 蔑まれる必要が? 何故ですか!」  吐き出せば吐き出すほど、その調子は嘆きから激昂へと急速に移り変わる。ヨシュアは動物のように吼え立てた。恨み、憎しみ、怒りを露わにし、溢れる涙も隠さない。膝をどんどんと叩いた次の瞬間には髪を掻きむしる。一言口にするごとに、腹の底へずっしりと蓄えられていた重りが、溶けてなくなっていく。  狂騒をつんざいたのは、機械音の一撃だった。きいんと、凄まじいハウリングに、誰もが吐き出していた息を止める。  訪れた一瞬の死を作った本人は、皆の知らぬ間に立ち上がっていた。傍らの机に叩きつけたマイクを戻し、呆然と向けられる視線をぐるりと見つめ返す。 「もう結構です。気が済んだでしょう」  その声は決然としていて、非難の色すら含んでいる。  途端、狼狽と羞恥が満ち潮ほども辺りを埋め尽くした。  誰も彼もが、操られるかのように姿勢を正す。乱れた衣服を整える。抱き合っていた身を離し、床へ転がっている者に手を貸して、席へと座らせる。  ヨシュアはなかなか、皆と同じ閾へ降りる事が出来なかった。彼は恥辱へ苛まれることへ、余りに慣れすぎていたのだ。  熱い涙でぼやける瞳で、ヨシュアは真正面の男を凝視した。彼が与えるものから一瞬でも意識を逸らさず、全て堪能したい。肉体が、心が、これほどまで飢えを感じたことは、初めてのことだった。  静まりかえった会場内に、ふんと柔らかく鼻を鳴らす音が響く。手を後ろで組み、マルシャルはゆっくりと歩き出した。 「あなた達が罪を口にしたのですから、私も告白せねばなりませんね」  ヨシュアの隣で、婦人が化粧品でどろどろに汚れたハンカチを引き絞る。「ああ、そんなことは、神父様」 「あなた達が子供だった頃、私の信じる教義は、あなたや、愛する人達を救わなかったはずです」  聴衆の中から感嘆が漏れる。それを手で制し、語りは続けられる。 「何せあの時は、屈しましたから。膝を突いたのです、悪の前で。尊敬すべき中央党の人々は戦いも空しく排除され、見せしめでしかない馬鹿げた裁判に掛けられ、処罰されました。ルター派? 改革派? どうでもいい。虐げられる彼らを出し抜くため結束し、自ら悪に染まることで、力なき羊は牙を持つ獅子となった」  告白は、心底の苦渋が伴われる。正面を行き来する足取りが速まるにつれ、マルシャルの面立ちは厳しさを帯びる。紡ぎ出される話は、まるで懺悔室で口にされるかのようなものだった。普段彼が腰かける聴罪の場所ではなく、反対の席で。 「そう、悪は結束させるのです。対抗するよりも、そこへ取り入ろうとするときに、より強く。敬虔(ピウス)と名乗るお方が、迫害を受け手を伸ばした人々に、どのような態度を取ったかご存じないでしょう。確かに彼は先見の明がありました。彼の見解を大雑把に訳すると、こんな感じです。『神を認めぬ共産主義者より、あの男の方が理解がある』」  誰もがうなだれていた。覚めることの出来ない余韻と、滔々と流れ込む告発へ板挟みにされて身動きが取れず、大の男が啜り泣く。側の婦人はまだぽつりぽつりと、殆ど吐息に近い声を震わせ続けていた。「お願いです。そんなことを仰らないで……」  どうやら周りで顔を上げているのは、ヨシュアのみのようだった。  彼はマルシャルの声を貪り、聞き入っていた。彼の舌先でこねられ、唇に乗せられた言葉が耳から体内へ入り、血に混ざり込んで全身の隅々まで行き渡る。そして細胞が作り替えられるのだ。マルシャルを父として、新しい自らが生まれる。無垢で美しい、誰にも石を投げられる事のない立派な自らが。 「だからと言って、ねえ、港湾にいる人々を憎んではいけませんよ。私はこれまで、あそこで働く大勢の亡命者達と話をしました。聖母マリア様を崇める者だけでなく、『アカ』なぞと呼ばれる人々とも」  一カ所に留まることのなかったマルシャルの足が、遂に動きを止める。ヨシュアの席の前で。並み居る前列の人々を飛び越え、彼はヨシュアの眼をひたと見つめた。 「皆気のいい人達で……救われたいだけです。誰だって同じだ。そんなことは無理だと私は言わせない。言わせるものか、例え何を信じていようと、疑おうと」  ごわつくおむつの中で、傷が突き刺すような痛みを増す。今日はちゃんと錠剤を飲み、そして塗り薬を……塗らなかった。狭い車内で、あの悪臭が神父の元まで漂い届くことを恐れたからだ。だが、そんな事を思う必要は全くなかった。マルシャルは認めてくれるだろう。そして正しい道へと連れて行ってくれる、間違いなく。  疑いを完全に放棄した途端、ヨシュアの心を満たしたのは悦びだった。体内でとぐろを巻いていた暗い感情が抹殺され、出来上がった空白に恵みが刻み込まれる。  ここまで彼の言葉を理解できたのは、この場において自らだけだ。誇らしさに胸ははちきれんばかりだった。 「誓いなさい。今ここで」  マルシャルは真っ直ぐ、ヨシュアに命じた。 「自らに誓うんだ。もう二度と、過去を振り返らないと。あなたの役割は、未来を変えることなのだから」  誓います、とヨシュアは答えた。もしかしたら、叫んでいたかもしれない。  極限まで高められた多幸感は、その瞬間、遂に彼の意識を真っ白く塗り潰した。

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