10 / 19

10.光から逃げた先に

 カビと埃と、朽ちた木の匂いがする。  灯りもない上、窓は薄汚いカーテンで塞がれていて、とても暗い。目を凝らし慎重に歩いていると、乱雑に放り込まれた不要品の山に紛れて、見覚えのあるものが落ちているのに気が付いた。  マティアスはその場に跪いて、それを拾う。  アメジストがはめ込まれた懐中時計。持ち主の瞳と同じ色の石が、心細そうにこちらを見ていた。 「セスさん」  あの強く立派なヴァンパイアハンターが、こんな場所で、光に怯えて縮こまっている。  神は、なぜ彼にそんな試練をお与えになったのか。ギュッと胸に提げた十字架を握り、神に祈りを捧げる。  床をよく見れば、積もった埃の上にうっすらと足跡が残っていた。毎日一緒なのだ、一眼で誰のものか分かる。  それを追いかけていけば、かすかにきぬ擦れのような音が聞こえた。 「ッ、はあっ……クソッ……」  苦しげな呻き声に、身を裂かれるような痛みを覚えた。後悔と哀れみで泣いてしまいそうだった。  だがマティアスは神父だった。神に仕え、人々を導くのが本来の役目だ。  だからこそ背筋を伸ばし、できるだけ凛とした姿で彼の前に立たねばと思った。  深呼吸をしてから、マティアスはまっすぐにセスの居る物置部屋へと足を踏み入れる。 「──こんなところにいたのですか。探しましたよ」  できるだけ、優しく穏やかに声をかけた。  灰色の髪を床に広げて、埃にまみれうずくまるセスがそこに居た。  ゆらりと頭を上げると、セスの長い髪が揺れる。その隙間から、アメジストがこちらを睨みつけていた。  そうして床に這いつくばる姿すら、セスは美しかった。 「テメェの居ない場所なら、どこでも良かった」  薄く形のいい唇からは、拒絶の言葉が吐き出される。ちらりと、鋭く伸びた犬歯が覗いた。  ずきりと胸が痛む。 (私のせいだ)  冷静ではない彼を、一人にすべきではなかった。  そもそも彼を動揺させるようなことをしでかしてしまったのも、自分だ。あの夜抱かなければ良かったのだろうか。そうだったなら、セスは。  彼の前に膝を折り、額を床に擦りつけて泣きながら謝りたい衝動に駆られる。しかし、今すべきなのはそんなことでは無い。  彼の手を取り立ち上がらせることこそ、今すべきことなのだ。  セスは、たとえヴァンパイアになってしまったとしても、惨めに床をのたうってはいけない。何になろうとも、彼らしく居てほしい。  そのために、マティアスはセスに手を差し伸べた。 「神よ、彼を救いたまえ。苦しみを取り除き」 「やめろ、黙れ。気色わりぃ。さっさと、消えろ、う、う」 「……再び光の下を歩かせたまえ。赦しを、どうか」  心から神に祈る。  彼はずっと、人々を、ヴァンパイアにされた可哀想な少女を、救い続けてきたのに。彼にだけは奇跡が起きたって良いではないか。  しかし、彼の身には何も起きなかった。天使が舞い降りてくることも、眩い光に包まれ人間に戻ることなかった。  神は、彼を特別扱いしない。  じっと観察していたからか。セスは苦しげに目を逸らし、自分の牙で唇を傷つけた。ジワリと、唇に血が滲む。  頬を撫でると、熱いはずの肌が氷のように冷たかった。人間の体温は、竜人より高い。あの夜も、まるで触れたところから溶けてしまいそうに熱かった。  その熱が、奪われてしまった。  今更ながらその事実を突きつけられて、マティアスは牙を噛み締める。  死んでいる。  人としてのセス・ヴィクトリノは、死んでしまったのだ。 「……わかってんだろ。さっさとやれ。教えたように、一息で殺せ。テメェと俺の仕事だろう。ヴァンパイア狩りは」  迷いなどないような語調だった。アメジストの瞳は、射抜くようにこちらを見ている。いつもの彼らしく、眉間には皺を寄せて険しい顔だ。  死の恐怖に怯えている気配はない。  これも、試験だとでもいうのだろうか?  セスがいてくれなければ、ヴァンパイアを殺せない、この未熟な自分が。  愛おしい男がヴァンパイアになったからと、心臓に剣を突き立てられると思うのか。  だが、このままにしておけば……苦しみ抜いたすえの餓死しかない。 (神よ。何故ですか。彼になんの罪がある……こんなこと、私にはできない)  ふと、胸の十字架が揺れた気がした。  セスの頬を撫でていた手を、そっと離す。その自分の手へ視線を落とした。 (ああ……そうか。奇跡はとうに起きていたのだ。私が竜人に生まれついた。それこそが)  喜びに、尻尾の先が震える。  拳を強く握りしめ、尖った爪で手のひらの肉を刺した。鋭い痛みが走るが、それすら歓喜に変わった。  セスの目が見開かれて、動揺をあらわにするのも嬉しかった。 「な、はっ、う、う」 「ここには、私達だけです。遠慮はいりません」  この血を飲んでもらえば、セスの飢えは癒される。人間の血を求める化け物になる必要はない。彼に必要なものは、全て与えてあげられる。  竜人は傷の治りが人間より格段に早い。若く健康なら、多少の出血はなんの問題にもならない。  さらに、ヴァンパイアは竜血を飲めば強い力を得るのだ。  ヴァンパイアの『食事』として、これ以上のものはない。 「テメェの、汚ねぇ血なんざ、う、あ」  欲しくてたまらないのは、見てわかる。血走った目をして、肩を震わせる姿を見れば。  有無を言わさず、無理矢理セスの唇に傷口を押し付けた。早くしないと傷が塞がってしまい、もう一度痛い思いをしなければならないのだから仕方ない。  躊躇いがちに、冷たい舌が傷口をなぞる。痛さよりも、ゾクゾクした快感に似たものを覚えた。  悔しげに眉を寄せ、しかし目は正直にとろりと蕩けてゆく。美味しいのだろう。 「『少しだけ』、嬉しいと言ったら……。セスさん、貴方は軽蔑しますか」  本当は、彼の救いになれた歓喜が全身に満ちていたが、控えめに言った。  セスは目を伏せ、何も言わない。ただ、ぴちゃぴちゃと血を舐めとった。  傷口が塞がってしまうと、マティアスはもう一度傷をつけるためセスの顔から手を離す。しかし、セスに手首を掴まれ阻まれた。 「……もういい、止めろ」 「大丈夫です。傷口はすぐに塞がりますから」 「違うッ、離せ」  スプーン一杯ほども出血しただろうか。こんな少量で満腹になるとは思えなくて首を傾げていると、舌打ちをされる。そして、少し乱暴に手を振り払われた。 「クソッ……飲んじまった。ああ、気色悪ぃ……」  憎々しげ吐き捨て、セスは口元を手の甲で拭う。そして、乱れた髪を掬い上げて肩に垂らした。白い首筋には、くっきりと歯型がついている。  頸動脈に沿った二つの、穴。 「これで俺も化け物だ……畜生。人の血なんざ食らうくらいなら、犬の(クソ)の方がまだマシだった。最低の気分だ、クソッタレ」  セスの側に膝をつくと、首筋に指を這わす。  もう消えることが無い、痕だ。  堪えきらず、マティアスはセスの体を抱きしめた。硬く逞しい体からは、体温を感じない。 「……すみません」 「……あ?」 「貴方がこうなったのは、私のせいです。私が、貴方を一人にしなければ。なのに、私には血を捧げることしかできません。でも、それすら貴方を傷つけてしまう」  大人しく抱きしめられたまま、セスはしばらく黙っていた。だが、やがてそっと肩を押されてて体を離される。  至近距離で瞳を見つめれば、アメジストの奥にまるで焚き木の奥で燻る火種のような赤がちらついていた。 「自意識過剰なんだよ……テメェが居たからって、ヴァンパイアが一人増えただけだったろう。俺が自分でヘマをしたんだ。全部、自業自得だ」  自分の胸を押さえてそう言うと、セスはするりとマティアスのうなじの方へと指を這わしてきた。くすぐったさに、思わず肩が震えてしまう。プチっと言う音に続いて、カチャリと硬いものが床に落ちる音がした。  見れば、首から提げていた十字架が外れて床に転がっている。  それを見てハッとした。十字架を身につけたまま抱きしめられる人ではなくなったのだ。 「……すみません、セスさん」 「謝ってばっかだな、テメェは。情けねぇ。そんなことで俺の後釜なんか務まるのか」 「そんな、私にはまだ……ああ、そうですね……ヴァンパイアになってしまったのだから、ハンターなど続けられませんよね。だから退職届を」  納得しかけたが、セスはなぜかゆるゆると首を振った。そして、軍服のポケットから煙草を取り出して一本唇に咥える。  煙草は嫌いだが、この人が煙草を吸う所作は好きだ。太くて長い指先で、細い紙巻き煙草を弄ぶのが、とても良い。 「……『命令』だ」 「命令?」 「ああ。そうだ。俺を食い殺しやがったヴァンパイアが、俺に命じたんだ。ハンターを辞めて、テメェに俺の代わりをやらせろとな」 「では、街を出るというのも」 「いや……。それは、辞職して姿を消すための方便だ。やつはこの街に留まれとも命じていった。俺がヴァンパイアになって、惨めに這い回るのを見てぇんだろう」  悋気(りんき)とも怒りともつかない感情が、胸の内で暴れまわる。  ヴァンパイアは、自分が噛んでヴァンパイアにしたものやグールを使役する。  セスも、そうして使役される側になってしまったのだ。命を奪った上に、セスの自由まで奪おうとしているヴァンパイアが、憎くて憎くてたまらない。 「どうして、私に」 「テメェがこの街から出ないようにするためじゃねぇか?いつか、食ってやろうと思ってるんだろう」 「……セスさん。貴方を噛んだヴァンパイアの姿を、見ましたか?」  いつもセスがヴァンパイアに聞くことを、代わりに問うた。顔を(しか)めたセスは、ため息混じりの煙を吐き出す。 「いいや。後ろからいきなり、だ。黒い頭巾をかぶってやがったから、髪の色すら見えなかった。ただ、若い女の手をしていて……多分、始祖のヴァンパイアだ」 「始祖、ですか」 「俺は童貞じゃねぇし、もちろん処女でもねぇ。テメェが散々掘ったばかりなんだからな。それがヴァンパイアにされちまうなら、始祖かロードだろ。この二つの違いは、分かるな」  もちろん、知っていた。  ヴァンパイア達の中でも、長というべき存在。それが、始祖やヴァンパイア・ロードだ。 「はい。始祖は自ら悪魔と契約し、ヴァンパイアの力を得たものです」 「そうだ。好きこのんで化け物に成り下がったクソ野郎。それが始祖のヴァンパイアだ」 「ヴァンパイア・ロードは、その始祖と同等の力を得たヴァンパイアだと、習いました」 「半分は正確だ。正しくは『自分を噛んだ始祖のヴァンパイアの血を吸い、その始祖の力継いで同等の力を得たヴァンパイア』」 「始祖の血を、吸う?ヴァンパイアがヴァンパイアの血を吸うのですか」  それができるなら、ヴァンパイア同士でお互い血を吸いあって生きてくれたら良いのに。そんな風に思えて、尻尾が縦に揺れた。  セスは吸い終わった煙草の吸殻の火を消し、物置の片隅に放置されていたゴミの山に捨てる。煙草を吸いきり落ち着いたのか、苦しげな表情は消え失せていた。  いつものセスらしい、不機嫌そうだが凛とした顔だ。  こうしていると、いつもの食堂で彼から教えを受けていた日常を思い出す。 「食事のためじゃねぇぞ。ヴァンパイアは、自分を噛んだヴァンパイアに使役され、そいつが死んだら一緒に死ぬ。その上下関係から解放される唯一の手段が、自分を噛んだヴァンパイアか、そいつより上のヴァンパイアを食い殺すことなんだ」 「つまり、ロードは始祖の血を吸い、その支配から解放されたものということですか」 「ああ、そうだ。だいたいは、長生きした始祖が、お気に入りに力と手下を継がせる為、同意の上で噛ませる。下克上ってのもなくは無いが、少ないそうだ。いずれにせよ、そうして始祖の力を得て、数多のヴァンパイアを手下として従えるのがヴァンパイア・ロード。ヴァンパイアの王だ」  始祖もロードも、いずれにせよ恐ろしい存在だ。それが、この街にいる。  そして、セスだけでなくマティアスを食おうと狙っているのだ。  ハンターとしての知識も腕も、セスには遠く及ばない。そんな自分が戦っていけるのかと、マティアスは不安に苛まれた。 「ンな面すんじゃねぇ。テメェがしっかりしてくれねぇと、俺も困る」  冷たい手が、うつむきかけたマティアスの顎を掬い上げ、上向かせた。  アメジストの瞳と、目が合う。  普段のこの人は、人の目をあまりまっすぐに見ようとしない。  だけど、そのどこを見ているのかわからない物憂げな目元がとても格好良いと、いつも思っていた。  その目が熱に潤み、こちらをまっすぐに見上げてくれた夜は、幸せすぎて天に昇ってしまいそうだった。  今は、冷たくて鋭い視線だけれども、それでも見つめ合えるだけで、胸が締め付けられた。 「この街を一人で守るなど、私では力不足です。貴方の力が必要です」 「馬鹿が。俺は、もう死んだ。死人に何ができる」 「お願いします。私はハンターとして、まだ未熟です。貴方がいなければ戦えない。それに……それでなくとも、私は貴方がいなければ生きてはいけません。だから、側にいてください。私の血を捧げます、だから」 「ハッ。テメェの血を餌にして、俺を飼うってのか」 「そんな言い方は……」  するすると、セスの手が下へ降りていく。わずかに、呼吸も荒い。  訝しむ前に、その食指はマティアスの下腹部へ伸びていた。 「セッ、セスさん?」 「いいぜ。飼われてやる」 「待っ、ですから、飼うとかでは」 「これはギブアンドテイクだ。テメェは俺に血と隠れ家を用意する。俺はテメェに飼われて……助言と、あとは、コッチの世話をしてやるよ」  そこを鷲掴みにされて、マティアスはドギマギしてしまった。こんな場所で、セックスをするつもりなのだろうか。  だが、断る理由もない。愛しい恋人に触れられて、拒む理由などマティアスにはない。  あの夜の快楽を思い出し、尻尾の先がビリビリ震える。初めてのセスを気遣う余裕すらなくすほど、彼の体は気持ちよかった。一晩中熱い体を貪り、両手の指で足りないくらい彼の中で果てたのだ。 「期待した面しやがって」  そう言って、薄い唇を吊り上げるセスの方こそ。  前に褥を共にした時とは、少し違う、ぐらぐらと滾る熱情をその瞳に宿していた。

ともだちにシェアしよう!