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1章 第11話

「―っ!?」 「しーっ。静かにしろ」  口を塞がれて引き込まれた俺は混乱する頭で暴れようとしたが、すぐ背後から掛かる耳触りの言い低音に落ち着くように促される。一度や二度聞いたことのあるその声は、以前食堂で話しかけてきた風紀委員長のそれだった。  抵抗する気配のなくなった俺をまだ拘束している委員長に、解放するように促せば、彼はそっと手を放して扉の向こうに意識を向けた。 「誰も来る気配はなさそうだな」 「…風紀委員長が俺になにか用事ですか?」 「百合に追われているんだろう。少しの間匿ってやる」  何故風紀委員長が? という目でじっと見つめる。振り向いた委員長の、吸い込まれそうな黒い瞳に俺の顔が映っている。  このゲーム中、教師と風紀は見回りをしているはずだ。不正やなにか問題が起きないように。それこそ一生徒に手を貸しては不正ではないか。  ドアの前に立って俺を見つめる槙に本来の要件は何かと問えば、ふっと笑みを浮かべて腕を組んで見せる。 「去年の冬、お前に会った。今確信した。路地で声を掛けてくれただろう」 「またその話ですか、だから覚えが……」 ―まて、槙という男とは会った覚えがあるぞ。あれは、確か、性別検査の時……。  古い記憶を思い出して、あの時の自意識過剰男がこの風紀委員長かと顔をまじまじと見る。正直、あの日の男の顔をよく覚えていないので見たところで納得できるわけじゃないが、本人の口からあの時の話が出るんだ。間違いはないだろう。  あの時は座り込んでいたからよくはわからなかったが、こうしてみると意外にも身長が高く、百七十ある俺を超している。恐らく百八十後半はあるのではないだろうか。  じっと見つめていると槙は照れたように顔を逸らした。 「思い出してくれたか?須賀」 「あー、ああ。まあ、一応…あの時は年上と知らず失礼なことを」 「いい、いい。普通に話せ。あの時みたいに、せめて…その、二人っきりの時くらいは」  あの時、俺結構なことを言ったよなと思い返してとりあえず謝るかと頭を下げようとしたら、槙が焦ったように俺の肩に、首を左右に振った。それどころか、まるで普通の友達のような接し方を望むので俺は訳が分からず首を傾げる。  槙には友人がいない訳ではないだろう。そう思って聞こうとすると、それを遮るように槙が先手を打って口を開く。 「髪の毛、染めたか?目はカラコンだろうが…勿体ねえのな」 「あ、いやこれは……あー……まあ、こんなとこだから。あの髪じゃ目立つだろ…」 「……それもそうか」  ふっと笑った槙の表情は柔らかく、到底鬼の風紀委員長だの言われる人間とは思えないなと思う。  どこからかドタバタと足音が聞こえてくるが、この部屋に来る様子はないようで、俺は槙と扉近くにしゃがみこんで少しばかりくだらない世間話に興じた。  十分ほどそうしていた頃だろうか、スマホが振動したので取り出して画面を確認する。  着信画面に映っていたのは希代頼人という文字。すぐに電話に出ると向こうから荒い息遣いで名前を呼ばれる。 「どうしたんだ」 『真澄くん、今どこ?』 「今は、国語準備室にいるが」 『国語準備室ね、今すぐそこ離れて。部室棟が今人少ないからそっちに移動すること。会計がそっちに向かってる』 「分かった。ありがとう」  喧騒の中、息を上げながら電話をしてきたということは彼は今鬼に追われていて、撒いたばかりというところだろうか。その逃げる過程で何らかの方法で得た情報を伝えてくれたことに感謝しつつ、これが終わったら礼ははずもう。と思い立ち上がる。  百合がこっちに来ることを伝えてもう行くというと槙は分かったと頷いた。 「また、暇な時に連絡してくれ」  別れ際、いつの間に書いたのか名前とラインのIDと電話番号が書かれた紙を渡されて俺は勢いで受け取る。それをポケットに放り込み、時間もないので軽く頭を下げて俺は部室棟に向かって走り出した。  部室棟に行くにはいくつかの方法がある。  その中で俺は少々目立つが二階の連絡通路から行く方法を取ることにした。グラウンド側から行く方法もあるにはあるが、外で出会うにはリスクがある。  それに、連絡通路は目立つとはいえそれは二階や三階から見た場合だ。一階からは見えにくくなっているので下からの視線は大丈夫だろう。  二階からの視線対策に少しかがんで歩く。そっと進んで連絡通路の端まで着き、部室棟の廊下に人の気配がないか確認する。大丈夫そうだとほっと胸を撫でおろし部室棟に足を踏み入れようとした時だった。  背後の連絡通路。校舎側の入り口から声がした。 「みーつけた」  その声に俺はばっと後ろを振り返る。ゆらりと浮かぶその姿は、見間違いようのない百合成瀬だ。  弾かれたように走り出す。最後に視界に映った百合の顏は実に楽しそうな笑顔だった。追いかけてくる百合は手を抜いているのか、狩りを楽しむような雰囲気でゆっくりと一定速度を保って追いかけてくる。その余裕さに不気味なものを感じて背筋に嫌な汗が伝った。 ―なんとかして撒かねえと  制服のポケットでスマホが振動している。誰かは分からないが電話でなにかを知らせようとしてくれているようで、振動が長い。  俺はそれを取ることが出来ないのでしばらく振動したそれはやがて静かになった。 後ろに百合がいる状態で室内に入るのは危険だ。そもそも校内にいることが危険かもしれない。そう思って一階に向かおうと階段に足を運んだ。 「須賀真澄くんだね!ここは通さないよ!」  階段まで行くと下り階段の方を小柄な生徒が複数人で塞いでいた。  一階には逃がさないという強い意志が感じられて俺はとりあえず上の階に逃げた。そんなの、ありかよ。  三階まで上がると俺は後ろを振り返る。ゆっくりと追いかけてくる百合はまだ下の階にいるようで姿が見えない。俺はその隙に文芸部の部室を目指した。文芸部の部室か、無理ならその手前の茶道部の部室であれば、部室とは別に室内から直で行き来できる活動用の部屋が隣にあるので、実質出口が二つある。そこならうまく行き来して逃げることも可能ではないだろうか。  百合が部屋に入ってきた隙に隣から出て、先ほど上がってきた階段とは逆の階段から逃げれば外に出られるかもしれない。  カツカツと足音が聞こえてきたのでそっとドアを開けて文芸部の部室に入る。なんとか入れたので少し安心した。茶道部であれば茶室が土足厳禁なので逃げづらかっただろう。 「そういえばスマホ、鳴ってたな……」  スマホをポケットから取り出して確認すると、フォックスと頼人からの通知が並んでいる。上から順に開こうと思って、まず頼人のメッセージを開くと『まだ捕まってない?』と書かれたメッセージが五分前におくられてきていた。  追われているとだけ返信してフォックスとのトークを開く。着信はどうやら彼からだったようでコールマークが残されている。  内容は、部室棟は危険。百合の罠だということが書いてあった。もう来てしまったのでどうにもならない。 「くそっ」 「フォックスと仲良しなんだー。すごぉい」  つい悪態をついた時、同時に背後から百合の声がして驚いて振り返りながら後ろに少し後退る。  いつの間に入ってきたのか、音もなく現れた百合からスマホの画面を隠すと、百合は、鬼ごっこはおしまい? と笑った。まだ捕まっていないのとカードを渡していないことを思い出す。逃げればまだ間に合うのか。  そこまで考えて先ほどのフォックスのメッセージの内容を思い出す。  "百合の罠"ということは、部室棟に逃げることが初めからわかっていて罠を張られているということだろう。それなら、こいつから逃げるのは難しくないだろうか。ごちゃごちゃと考えていると目の前の男がくすくすと笑った。 「部室棟が安全っていう情報を流してよかったなあ。こうやって本命が引っかかってくれたんだもんね。真澄くん」  楽しそうに笑う百合のあの余裕は、俺が部室棟に逃げたからだったのか。なんて、理解した所でもう遅い。ぎゅっと拳を握ってため息を吐く。観念するしかないだろう。  部室の適当な椅子に腰かけて、わしわしと頭をかき混ぜる。 「罠って、それとあの階段の生徒…ですか?」 「そうだよ。彼らは俺の親衛隊の子たちだからね、真澄くんのカード受け取る心配もない。ただ、二年生だけだから数少ないしこういう方法取る方が手っ取り早いかと思って」  上手く言ったでしょ? と笑う百合にこれは俺がしてやられたと思った。情報を手に撒くつもりが、情報に踊らされたって訳か。  仕方なくカードをポケットから取り出す。それを百合の手が受け取るギリギリのところで、ひらりと躱し、驚いた様子の百合の隙をついて、その身体を軽く突き飛ばす。すとんと椅子に座った百合を見て、俺はにやりと笑って、隣の活動部屋を通って廊下の方へと逃げる。  後ろを追ってくる百合の気配を感じながら、俺は先ほどのメッセージを頭に浮かべて階段の方へと走る。 「まだ逃げるの? 真澄くん」 「捕まるわけにはいかないので」  階段の踊り場には複数の小柄な生徒たちが行く手を封じていた。俺はごくりと息をのんでまっすぐ走っていく。前方から、すっと伸びてきた手が俺の手首を捕まえて、二人分のスペースが開く。  驚いた様子の親衛隊隊員たちと、ちらりと振り返って見た視界に入った百合の驚いたような顔が視界にこべりつく。  俺の手を引いて階段をかけ下りていく二人の生徒と三人で部室棟から出る。適当な建物の陰に隠れて、後ろを確認したところ誰もおってくる気配がなかったので、俺たちは一度休もうと足を止めた。 「……はあ、はあ、ありがとうございます。鈴木先輩。志波先輩」 「どういたしまして」 「なんとか大丈夫だったね、須賀くん」  肩で息をしながら礼を言うと二人がにこりと笑う。  黒い髪の鬘を取りながら、鈴木が部室棟の入り口に視線をやって、ふう、とため息を吐いた。フォックスからのメッセージに、"近くに親衛隊に紛れて鈴木紘と志波勇矢がいる"と書かれていたので一か八かと走った先で、二人がいたことは幸運だった。  どちらの階段かはわからなかったのでほぼ賭けだと思って走ったが、何とかなったことに安心し俺はその場にしゃがみこむ。恐らく、だが、あの位置に二人を配置したのはフォックスだろう。とすれば、反対方向に逃げても、なんらかの脱出方法は用意されていた筈だ。 まあ、俺が志波たちの方に逃げると確信していたというのはあるだろうけど。 「一時は、どうなることかと思いました。助かりました」  二人に再度感謝を述べて俺はまた単独行動に移る。複数人で動くと目立つのだ。何より、鈴木の容姿は特に。 ―ゲーム終了まであと一時間を切った頃。田島が捕まったらしく、ラインで、先に講堂に戻る。と送られてきた。頼人はまだ頑張っているようで、走り疲れたよ~、と泣き言がグループの方に送られてきていた。あいつは恐らくどこかに隠れながら逃げていることだろう。 俺はというと、一般生徒に見つかり百合に通報され親衛隊の奴らに追われ、百合本人の姿は見えないが疲弊しきっていた。  肩で息をして校舎の壁に背中をくっつけて休む。もう逃げている生徒も少なくなってきているのか、見つかることも増えた。捕まえた生徒を講堂に送って、戻ってきた鬼がその辺にうろうろしている。下手に室内に入って休もうものなら、すぐに見つかって百合に通報される。 屋外で発見されては、走って逃げるを繰り返すので、体力もそろそろ限界だ。今百合に見つかると非常に不味い。  しかし、神様という生き物はどうにも意地悪が好きなようで。 「真澄くん、そろそろ終わりにしちゃおっか」 罠を突破して以来の百合が、にっこりと笑顔を携えて、疲れてもう一歩も動きたくない俺の前に姿を現した。  もう走れない。そう思うくらいに走った。今度は百合も割と本気で追ってきているのか、額に汗を掻いている。  余裕のある追い方とは一転して本気で追いかけてくるので俺も全力で走った。そのせいか、もう手足が動くことを拒絶しているような気がする。  無我夢中で走っていたからか、逃げるルートを誤ったらしく、俺は空き教室の中で行き詰ってしまった。 「やっと、追い詰めた」  息を切らせた百合が壁に右手を付く。俺のすぐ傍に百合の端整な顔があるのがなんだかいたたまれなくて顔を逸らした。何故俺は、所謂壁ドンというものを男相手にされなければならないんだ。  お互いの荒い息遣いだけが耳に響く。  もう逃げることが出来ないので、観念してカードを渡そうと心に決め、制服のポケットに手を入れた時だった。 「ーっ!?」  身体が急に熱くなる。体温が一気に上昇しているのがわかる。ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打ち、走りすぎたのとは別の意味で息が荒くなる。  じわじわと手に汗が滲む。ぽたり、と肌を伝って落ちた汗が床を濡らす。喉が渇く。立っていられなくなって、足から力が抜ける。  混乱する頭のどこかで、冷静にヒートという言葉が浮かぶ。 ―マズい。マズい、マズいマズい……!  ガタガタと震える指先で、ブレザーの内ポケットに入っている抑制剤を取り出そうと焦る。目の前で立っている男の顔が見れない。見たくない。  俺はもう自分がちゃんと息をしているのか分からないまま、目の前の男と番になりたいと叫ぶ本能と抑制剤を飲め、逃げろという理性の声を聴いた。  目を一度ぎゅっと閉じて、息を飲み、理性の声に耳を傾ける。ゆっくりと、薬の封を切る。ぱきりと小気味いい音がした。 「あっ……」  震える指が薬を落としてしまう。慌てて拾おうとする俺はもうほぼまともな思考をしていなかった。薬を掴んだ瞬間甘い匂いが鼻腔に広がる。  それが百合の使っている香水の匂いなのか、はたまたそうでないのか、俺は理解できないまま、顔を上げて、本能に支配された男の瞳を見た。  このまま百合に項を噛んでほしい。そんな風に考えてしまう自分がいた。  理性が溶けそうな感覚に陥る。ダメだ。このままじゃだめだ。おれは唇をぎゅっと噛んで抑制剤を一錠握りしめる。地面に落ちた、とか気にしていられる場合じゃない。 近付いてくる百合の顔を避けて、俺は抑制剤を自分の口に放り込む。ヒートが治まるまで少しの時間が必要だがその前に百合から離れなければ。  俺はポケットに入ったカードを百合の胸に押し付けて、力の抜けた足を叱咤して立とうとした。が、ぺたりと力が入らずその場に座り込む。腰から下に力が入らない。  目の前の百合の手が俺へと伸びる。ぐいっと腕の中に引き込まれて抱きしめられていると俺の頭が理解するまで、少しの時間を要した。 「は、はな、せ…クソ」  口から出た悪態は百合の耳に届いているのか、百合の腕の中で見下ろされるように、もう理性なんてないのではないかというその瞳と視線がかち合って、俺はゾクリと全身を震わせる。 俺のヒートに充てられたのか、百合自身もラットを起こしているようで、息が荒い。体温も上がっているようだ。欲に濡れた灰色の瞳が、じっと俺を捉える。  小声で、真澄くん。と呟く声を聞いて、俺の心臓が高鳴る。  もしかしたらこのまま噛まれるかもしれない。そう覚悟した時だった。  聞きなれた心地のいい低い声がすぐ近くから聞こえた。ドアを開けて、腕を組む男の姿を見て、俺はほっと胸を撫でおろす。 「おいおい。ちゃんと薬は飲んどけって言ったよな、真澄」 「せ、ら…」  にやりと笑うその顔は、大人の余裕たっぷりで、俺はひどく安心した。  世良の登場に百合が舌打ちをするのを薄れゆく意識の中で聞く。  ずるりと崩れ落ちた体は、そのまま冷たい床に倒れこんだ。

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