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これほどまでに憤りを感じたことはあっただろうか。
ふざけんな畜生と殴りかかりたいが、ここで反応して南波から唇を離したらそこで終わりだ。というかまず離してくれそうにもないが。
「花鶏さん奈都まだー?」
「さあ、ここからではよく見えませんね。確か見送るまでと仰っていましたし、もうそろそろ戻ってくるのではないでしょうか」
「そういや藤也もいないじゃん」
「奈都君のところに行ってるのではないでしょうか」
「あーなるほど。あいつら仲良いもんなあ」
舌突っ込まれて抉じ開けられた口の端からだらだら唾液が溢れ、ぽたぽたと顎先から落ちる。
別に注目しろ野次を飛ばせもっと煽れというわけではないが、言われたから渋々キスしているこちらに全く意識を向けようとしないのもそれはそれで腹立たしい。
もう五分くらいは経ったのではないだろうか唇が触れ合ってから意識がそっちばかりに向いてしまい、不意に時間制限のことを思い出す。
そういえば、いつまでこれやらなきゃならないんだ。
考える傍から唇から溢れ出す唾液がどろりと流れ落ちていく。流石に唾液が多すぎるのではないかと息も絶え絶えに瞼を持ち上げた俺は、目の前の南波の惨憺たる姿にぎょっとした。
「俺もあいつらのところ行こうかなあ」
「すぐ戻ってきますよ。それまで我々は大人しくしておきましょうか」
顔面に滴る赤い血、白目剥いた眼。
あまりの出血で青くなった肌はぬらぬらと血液で濡れ、口から垂れ流していたそれが南波の血と気付くのに然程時間はかからなかった。
明らかに大変なことになっている南波はどうやら気絶しているようだ。
そう理解した瞬間、咥内に血液の匂いがいっぱいに広がり思わず噎せ返りそうになる。
まさか人にキスしたままの状態で失神するなんて誰が予想したか。いや、できた。最初からこの光景は見えていたが、いざ目の当たりにすると相変わらずショッキングな絵面ではある。
引き離すよりも先に白目剥いた南波がそのままずるりと力尽きる方が早かった。
「っな、南波さん……?! 南波さん……」
「おや、もう終わりましたか」
「あららら、南波さん血だるまじゃーん」
膝の上、そのまま俯せに倒れたままビクッビクッと小刻みに痙攣する南波を抱きかかえる。そんな俺に気付いたようだ、薄情者二人は気絶した南波を取り囲む。
「んー、で、何分経ったっけ花鶏さん」
「さあ、幸喜が数えていたんじゃないんですか?」
待った、なんだこのいい予感をまるで感じさせない不穏な会話は。
もしかして。
いやまさか。
「えー俺花鶏さん数えると思ってなんもしてなかったんだけど!」
「……ということは、今回は無効ですね」
高らかに笑う幸喜、微笑む花鶏。そしてただ一人何もわからないまま肉塊と化した南波。
ひ、酷すぎる……。こいつらはあれか、鬼的なあれか。
これじゃあんまりだと南波に同情する反面、この二人のことだ、どうせそんなことだろうと納得する自分がいた。
Tシャツの襟を伸ばし、口許を汚す南波の血を拭ってやった。南波の身体は未だ回復していない。
「南波、もう一度やりますか? ……って、聞こえてませんね」
相変わらず白目剥いたまま活動停止した南波に、そうそっと声をかける花鶏だったがその姿を見てやれやれと肩を竦める。
気絶、というより放心といった方が適切なのかもしれない。
普段ならばすぐに回復する南波が、いつもに増して惨い状態のままだったので大丈夫なのだろうかと心配になったが、花鶏曰く「そんなに気にしなくてもその内元に戻りますよ」だそうだ。
花鶏曰く、あまりの精神的負担に防衛本能が反応してブラックアウトを起こしたようだ。
とはいっても端から見れば気絶してるだけで、別に意識がどこかにいっているというわけではないという。
俺達亡霊は眠らない。常にどんなときでも意識が覚醒していると思っていたが、肉体が存在する生前同様強いショックを与えれば精神は傷付くらしい。そしてその傷が深ければ深いほど思考は停止し、今の南波のように傍から見れば気絶したような姿になる……らしい。
南波の男性恐怖症のことは知ってたし、俺自身同性からキスされて喜ぶような性癖をしているわけではないが、それでも無理矢理記憶消したくなる程ショックなのかと凹まずにはいられない。
「いやー今回は残念だったけど南波さんの勇気、俺確かに胸に刻んどいたからな」
そして、ぶくぶく泡吹いている南波に敬礼する幸喜。恐らくこれも南波には聞こえてないのだろうが、聞こえてなくてよかったと思わずにはいられなかった。
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