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【番外編】多忙の国近と幸福に慣れていない美斗の話

 恋人は、ストレスが食欲に出る。  元より規則的に食事を摂るのは得意ではないようだった。食べる量もそれほど多くはなく、気を抜けば食事をすることも忘れてしまう。  だが、『食べない』のと、『食べられなくなる』のでは訳が違う。彼の場合は、『食べられなくなる』ときが顕著であった。  そういうとき、彼は食べたいという欲求をどこかに置いてきてしまうみたいだった。  それはこの部屋に来たばかりの頃もそうだったし、前のパートナーの元から連れ出した直後もそうだった。  いつかの事情聴取のときも、目に見えて食事量は減っていたと思う。  人は食べなければ生きていけない。  食事が摂れなくなり、段々と弱っていく父の姿を見たことがある。 肇は『食べられなくなる』ことがどういうことなのか、痛いほど知っていた。 *  上段扉に貼られたごみ収集カレンダーが、こちらを見つめている。  開け放した冷凍庫のぎっしりと詰まった中身に、国近肇は眉根を寄せた。  前回帰宅したのはいつだったか。確か一つ前の紙ごみの日だった。  食事が得意ではない恋人は、料理もあまりする性質ではない。  自分が不在の時は冷凍庫のものを温めて食べろと伝えていた。  だから国近家の冷凍庫には、いつも冷凍パスタやお惣菜、作り置きのおかずなんかが詰まっている。  さて、そのほとんどが以前帰宅した日と変化がない。いや、多少の変化はあるが、それは冷凍の小さなパンとかおにぎりとかが辛うじていくつか減っているだけで、肉やら魚やら栄養価の高そうなものはそのままになっていた。  紙ごみの回収は二週間に一度で、ちょうど明後日が次の回収日なので、おおよそ二週間近くもこの冷凍庫の中身は閉じ込められていたことになる。 「美斗」  リビングルームの恋人に向かって呼び掛ける。  腹の底が冷えていくのを感じた。 「“Come”」 *  502号室での新生活が始まってすぐ、二人は寝室のベッドをシングルからダブルベッドに変えた。  以前ここで暮らしていたときは、別々の寝床で寝ていたから気にならなかったけれど。肇の(シングル)ベッドは、並んで寝るには狭すぎた。  狭いところで寝ることに慣れている美斗は、別に構わないと言ったのだけれど、肇は落ちたら危ないからと聞かなかった。それなら自分は元通りソファーで寝てもいいと言ったのだけれど、それも却下された。  そしてせっかくならとアメリカのブランドの、相当いいものを買ったらしい。  新調したベッドは使うのがもったいないぐらいふかふかで、二人で眠ると、隙間風もほとんど通らないぐらい温かい。  ワーカホリックなあの男は、普段娯楽にはほとんど金を使わないくせに、使うときには豪傑だった。  そして、肇は帰って来なくなった。  新年度が始まって、本格的に業務量が増えているらしい。  当初は努力して帰る時間を作っていたようだったけれど、徐々に泊まり込みで仕事をすることも増え、直近ひと月はほぼ不在の状態だった。時たま帰ってきたと思っても、着替えやシャワーを済ませるとすぐに出ていってしまう。  結局新調したベッドは美斗が持てあます形になった。  生まれて初めて買った自分専用のスマートフォンを使えば連絡は取れるのだろうけれど、美斗はしなかった。  邪魔をしたくはなかったし、そもそも用事もないのに連絡をしていいのか分からなかった。  美斗は美斗で、やらなければならないことが沢山あった。  人生のほとんどを、制約された中で過ごした。  自由になれたはいいものの、それは何もないところに突き落とされるのと同じだ。  多くの人間が十代や二十代のときに作る足場を、美斗は何も持っていなかった。    面倒な手続きのいくらかをようやく終わらせても、足りないものはいくらでも浮かんでくる。  目下、進学を志したはいいものの、そもそも最終学歴が義務教育で終わっている美斗は、そのスタートラインにすら立てていなかった。  肇のいない502号室で、ただひたすら参考書を開く日々。  シン、と静まり返った室内は、美斗の心を打ちのめすには十分だった。  今に始まったことではないが、さすがに三週間近くも一人にされると誰と暮らしているのか分からなくなる。  気分転換にと家事をしてみても、洗濯の途中でベランダを覗き見れば、制服姿の学生やスーツ姿の会社員がたくさんいた。  彼らはみんな普通に生きていて、美斗のことなどお構いなしに、各々の生活を営んでいる。  時々思う。  生きているのに、死んでいるみたいだ。  自分の人生はずっと。 * 「“Come”」  久方ぶりに帰宅したパートナーに、呼びかけられる。  声の方へと向かうと、開け放した冷凍庫を背にして肇が立っていた。 「ストック、ほとんど減っていないけれど、外食でもしてたのか?」  言われてはたと気が付く。  最後にまともな食事をしたのはいつだっけ。 「……」  何も言わない美斗に、肇はふうと小さくため息を吐いた。 「……やっぱり。食べてなかったんだな」  頭の中で、覚えている限りの食事を指折り数える。  それを正直に言えばきっと咎められるから、 「……食欲、なくて」  とだけ答えた。 「……そうか」 「……わっ」  ぐいっと腕が引かれる。  見上げたと同時に肇の顔が近づいて、コツりと優しく額が重なった。 「ぅ……?」  と首を傾げる、肇はじっくりと検分すると、 「……熱はなさそうだな」  と呟いた。 「……そんなに軟弱じゃない」 「……そうか」 「じゃあ、先に食事にしよう。何がいい?」 「え、ぁ……んと」  食べたいものなどこれと言って思い浮かばなかった。  でも口調は普段と変わらないのに、やけに冷えた眼差しが恐ろしくて、そのことを悟られないように、美斗は当たり障りのない答えを探した。 「……肉」  かなりの間を開けて、答えた。 「ああ。いいな。分かった」 *  手伝うと言ったが、肇は「向こうで」「“Stay”」と二言美斗に言いつけると、一人でキッチンの奥に入ってしまった。  仕方なしに美斗は肩を落として、リビングに戻る。  ポフリとソファーに腰をかけて、額に手をやった。  久々のパートナーの熱と、コマンド。  本来ならば嬉しいはずなのに、先ほどの目線がひっかかる。  怒って、いるだろうか。  留守の間、きちんと食事を摂ること。これは肇が美斗に与える数少ない言いつけの一つだった。  でも、美斗は食事をするのは得意じゃない。  食べられないのが当たり前だったから。執着もない。  好きなものを好きな時に好きなだけ、そういうことが出来るのはまともに生きてこられた人間だけだ。  肇は大抵怒るけれど、美斗にとってはそれが日常だった。  そっと、キッチンカウンターを覗き見る。  肇は冷蔵庫から食材を取り出して、それをちょうど切っているところらしかった。  なにか話しかけようとして、かける言葉もないことに気が付く。  帰ってきてから、まともな会話をしただろうか。  もうずっと長いこと話していないのに。 *  十数分後。  フライパンがじゅうじゅうと焼ける音と、充満する甘じょっぱい匂いに美斗は顔を上げた。  ぐうっと腹の虫が鳴る。 「(あ……)」  と、気が付く。  今頃、空腹を思い出した。  なんだかどんどん贅沢になるな。前はもっと、平気だったはずだ。 *  それからさらに数分後。  ミニテーブルに置かれた献立を見て、美斗は目をしばたたせた。  メニューは生姜焼きのようだ。飴色の玉ねぎと豚肉がお皿に乗っていた。それはいい。  でも肉は一枚ロースにしては、やけに小さく切ってあるし、隣のご飯は俵型に握られている。  二人分のはずなのに、皿も食器も一つしかないし、その一皿の量が異様に多かった。   「……おれ、こんな食べない」  思わず、呟く。 「知ってる」  と平坦な声が返ってきた。    肇はテーブルに最後の一皿――これまた一人分にしては大量のスティック野菜を置くと、一通りの準備は済んだようだ。  並んだおかずの前に腰をかけた。 「ん」  ポンポンと、膝を叩く。 「は……?」  彼の考えていることが分かって、美斗はかぁっと頬を赤く染めた。 「美斗」  そのまま動けずにいると、再び、名前が呼ばれた。 「“Come”」 *  膝上に座らされた美斗に、豚肉がフォークに刺さって差し出される。 「お、れ……自分で食べる」  と指先をフォークに伸ばすけれど、 「こら、“Stay”」  と言われると、美斗はその手を下ろすしかなかった。  頭の中ははてなマークがいっぱいだった。  おずおずと見上げると、そこには柔和な顔がある。でも、瞳だけは笑っていない。腹の底の感情を押し殺しているような、そんな薄っぺらさがあった。  少しの間逡巡して、先ほどの冷たい瞳を思い出すと機嫌を損ねたくなくて、パクりと噛みつく。  もぐもぐと咀嚼した。  甘辛い醤油に絡んで、ほどよく柔らかいロースが身体に染み渡る。  ゴクリと嚥下したと同時に、美斗は小さくため息を吐いた。 「ん」  肇はフォークを新しい切れ端に伸ばすと、それを今度は自分の口に運んだ。  じっくりと味わうと小首を傾げて、 「……少し味が薄かったか?」  と問いかけた。  ふるふると美斗は首を振った。 「……ちょうどいい」 「そうか」  薄く表情を緩めた彼の目元を覗き見る。  薄味に感じるのは疲れているからではないか。  自分になんか構わないで、さっさと休んだ方がいいのではないか。  肇は一度フォークを置くと、今度はスティック状の野菜をつまんで美斗の口元に運んだ。  その昔、学校で飼っていたうさぎが同じように人参を与えられていたのを見たことがある。  依然躊躇いながらも離れられる気はしなくて、差し出されたきゅうりを大人しく食む。 「美味しい?」 「……ん」  こくりと頷く。  その頃にはもうお腹は空いていたので、美斗は皿のぴったり半分の量を食べ切った。 * 「な、なぁ……これ……」    ソファー下のカーペットで、美斗は膝をすり合わせた。  美斗の頭上――ゆっくりとソファーに腰をかけた肇は、優雅な所作で足を組む。  濡羽色の瞳が、美斗を見下ろしていた。  食事の次は風呂だった。  肇はそこでも、やたらと美斗の世話を焼きたがった。  抱き上げられてバスルームまで連れていかれて、シャンプーもボディソープも自分ではさせてくれなかった。 「お、おい……自分で」  と抵抗をすれば、 「”Stay”」  と一蹴される。 「(ま、またそれかよ!?)」  やっぱり怒っているのだろうか。  でもその割には手つきはやけに優しくて、甲斐甲斐しいものだから、反応に困ってしまう。  隅々まで懇切丁寧身体を洗われたあと、バスルームで妙なものを挿れられた。  それから下を履くのは許されず、それでもなお甲斐甲斐しい手で身体を拭われ髪を乾かされ、ソファー下のカーペットへと降ろされた。  きゅっとナカを刺激するそれは、楕円形の玩具のようだ。大した大きさではないけれど、絶妙に前立腺の一部を潰している。  ここ最近『ご無沙汰』だった身体には響く。  美斗は俯いて、ここからは見えない、でも絶対にそれがある場所に視線をやった。 「んぅ……」  甘い吐息が漏れたと同時、耳元に肇の指が触れる。 「それで」  その手はそのまま頬をなぞって、首筋を通って美斗を再び見上げさせた。 「俺の言いつけ守れなかったお仕置き。しばらくそのままだよ」  やっぱり怒っていたのか。  だったらはじめから、もっと態度に出せばいいじゃないか。  なんであんな……。  あんな……。なまじ甘やかすような真似をしたのだ。  肇のもう一方の手が、何かをつまむ。  まるでスローモーションのように見えた。  小さな器械のようだ。指先が、そのスイッチに触れる。  ポチっと押されて――。 「ひぃっ」  瞬間。びくっと腰が跳ねた。 「ぁ、や、これ……ぁッ」  後ろが揉み込まれるように震え出す。  刺激はまだ弱いけれど、不規則な振動は美斗の身体を高めさせるには十分だった。 「ぁ……ぅ、ぁっ」  ゆっくりと勃ち上がっていくシャツを見て、クスっと肇が口角を上げた。 「俺がいいって言うまで我慢するのと、ずっとイかされ続けるの、どっちがいい?」 「ぁ、へ……?」  と美斗は瞳を揺らす。  我慢するのは嫌いじゃない。  耐えれば耐えただけ、肇は自分を甘やかしてくれる。  甘い支配は、蕩けるような褒賞を予感させる。  でも……。  快感のまにまに、パートナーの顔を伺う。  目元はやっぱり冷えたままだ。  今の肇がいつもと同じようにしてくれるとは思えなかった。  『いいって言うまで』がいったいいつまでで、どれだけ続くのかも分からない。  終わりを探して、止められる度に敏感になって。それは、想像しただけでぞっとする。  でもイかされ続けるのも、きっと同じだけ辛いだろう。 「ゃ……」  ふるふると首を振る。 「ハルト」 「ひ……!」  凍えた瞳に、今度はGlareが宿って、美斗は身を縮ませた。 「お仕置きって言ったの、聞こえてなかったのか?」 「ぁ……ぅ」  身体中の毛が、ぞわぞわと粟立つ。  彼の指先は、まだ器械のリモコンにあった。  満足できる答えを言えなければきっと、もう一段階スイッチを上げられる。  まるで人質をとられているみたいだ。  美斗はぐっと奥歯を噛んで答えた。 「が、まんはやだ」 「そうか」  満足げに肇の表情が淡くなる。 「じゃあ……」  肇の手はそのまま頭に流れて。くしゃりと美斗の頭を梳いた。 「どれだけ出してもいいけれど……」  どれだけ不平を言おうと思っても、この手に触れられるとどうでも良くなってしまう。 「ちゃんと、反省しような」 *  ヴ、ヴ、ヴ、ヴ。  微かなバイブ音が、部屋の中に響く。  王座に腰をかけたパートナーは、美斗のことを放置したまま、優雅に文庫本を読みだしてしまった。  柔い刺激はずっと続いている。  振動はじわじわと広がって、自身もナカもどんどん熱くなっていく。 「な、なぁ」  そう、呼びかけたと同時。  ポチリと、彼の指先が動いた。  揉みしだくような振動に、叩くような動きが交わる。 「ひぃ!?」  途端にひと際強い快楽の波が襲ってきて、美斗は微かに腰を伸ばした。 「ぁ、は、はじめ……っつ」  救いを求めて肇を見上げる。  でも、彼は目元の文庫本から視線を上げてはくれなかった。 「な、なぁ!」  ともう一度呼び掛ける。 「ハルト」  返ってきたのは乾いた声だった。 「少しうるさいよ。“Shush”」 「ぅん」  強制的に口が閉じる。    なんでこんなことになっているんだ。  今日は話したいことだって沢山あった。英語の問題が一問だけ分からなくて、帰ってきたら聞こうと思っていた。  留守の間、何をしていたのかとか。ちゃんと食べていたのかとか、眠っていたのかとか、心配だったのはこちらだって同じだ。  それなのに、自分ばかり責められるのは理不尽ではないか。  鼻の奥がツンと痛くなる。  気丈な瞳に、涙がじわりと浮かんだ。  肇の目線がチラリと美斗を捕らえる。  それはすぐにまた文庫本へと戻って、ページを一つ繰った。 「腰、浮いてるよ。Kneelはそんなんじゃないだろう」 「あ、あの、で、でも……!」  ほんの少しでも反応が返ってきたのが嬉しくて、美斗は顔を上げる。  けれど……。 「……でも?」  美斗の返答に、肇は眉根を寄せた。 「でもじゃない。“Kneel”」  コマンドを頭が認識するより先に、美斗の身体は動いた。  ペタンと腰が落ちたと同時に玩具の角度は変わり、熟れた前立腺を思い切り押しつぶす。 「ぁ、ああっ!」  カーペットに白濁が飛ぶ。 「あ、ああっ! ま、まっ、止めてッ、イった! イったから、あっ!」  喚いたところで機械的な振動は止まるはずもなくて、前立腺から外れてもくれなくて、達したばかりで敏感になっているそこを何度も震わせる。  そのまま、二回イった。  快感を受け止めきれなくなった身体は徐々に前方向へと下がる。  それを目ざとく見つけられて、腕を引かれて起こされた。 「それから、手はここ」  太ももに、両手のひらが乗せられる。 「”Stay”だよ」 「ぅ…ぁ…やぁ」  また波がやってきて、ぶるっと震えた。  微かに飛び出た白濁が、今度は肇の脚元を濡らしていく。  暴力的な快感が埋め尽くしていく思考の端で、美斗は考えた。  いったいどうしたら許してくれるのだろう。  脚元のこれを綺麗に舐めとれば、許してくれるだろうか?  いや、ダメだ。こいつは自分がそういう奴隷みたいなことをすると、ひどく困った顔をするのだ。  分からない。    機嫌の取り方ならいくらでも知っているはずなのに、そのどれを選んでも肇はきっと喜ばない。 *  パタンと文庫本を閉じる。  リビングルームの時計を伺いみると、もうかれこれ一時間近くが経過していた。  脚元のパートナーを伺い見る。 「あ……ぅ、あぁ」  肇の太ももに頭を乗せて、美斗は淡い呼吸を繰り返していた。  とろんと快感を貪った顔が、こちらを縋るようにと見つめた。  カーペットはもう随分濡れていて、その場所に水たまりを作っている。  スキンをつけてやっても良かったのだけれど、淫らな姿と『お仕置き』を意識させてやりたかったからしなかった。  達するときの小刻みな震えを、太ももに置かれた腕から肇は感じ取っていた。 「“Come”」  焦点の合わない瞳に、微かに意識が宿る。  太ももから手を外し、赤子のように肇の方へと腕を伸ばした彼を抱きかかる。  肇はそのまま寝室へと向かった。 *  新調したばかりのダブルベッドは、寝室の三分の一を埋め尽くしている。  重厚なスプリングの上にそっと彼の肉体を下ろすと、敏感になっている身体はその刺激だけで限界だったようだ。 「ぁッ」  ぶるっと震えて、軽く達した。 「自分で脱げる?」  ベッドサイドに腰をかけて、肇は問いかけた。  彼はもう抵抗をしようという気はないようだった。  指先が従順にシャツのボタンにかかる。  ナカに入れてやった玩具と同じぐらい震えっぱなしの指はボタンを取ろうとしても滑ってしまう。何度か失敗するとその顔が泣きそうに歪んで、縋るような瞳が肇を見る。 「ん、むりぃ」  仕方なくボタンに手を掛けて、シャツの前を開けてやる。  肌が露わになると、胸の突起がピンと主張していることに気が付いた。 「ここも真っ赤」 「ひ、ぁあ」  気まぐれに弾いてやると、蕩けた悲鳴がまた上がった。 「はじ、はひめ」  甘い吐息が肇を呼ぶ。 「ん?」 「したッ、まえもっ」 「前? ああ。触ってほしいのか?」 「ん、ん、ほし」  コクコクと顎が下がる。  んー、と肇は思考した。  片手は彼の胸元に。もう片方の指はナカを揺らすリモコンに触れていた。  しばらくして、審判を下す。 「……だめだよ。手が塞がってる」 * 「ひ、うぅ、ぐずっ、ぁ」  しゃくり声が、口から零れる。  後ろだけで、白濁を五回、出さずに六回イった。  ずっと後ろばかりを刺激されて、手は太ももに乗せろと言われたから一番熱が籠っている場所には触れられなかった。  我慢しなくていいと言っていたのに、そこは出しても出さなくても、ぐるぐると快感が巡っている。 「……触っていいから。自分で」  グズりだした美斗を見かねてか、肇は少しだけ柔らかな口調に戻っていた。 「や、やだ、はじめがいい」  思わず、甘えた声が漏れる。 「ハルト」  続けて落ちてきたのは、諭すような声で。  見上げれば、依然変わらない鋭いGlareがそこにあって、ひゅっと呼吸が止まる。 「今おねだり出来る立場じゃないの、忘れちゃったのか?」  口調は穏やかなのに、微笑もそこにあるのに。  残酷な瞳だけが、目線から離れない。  威圧感が身体に浸透して、はくはくと意味もなく唇が痙攣する。 「あ……あぅ……ぁ」  もう、限界だ。  セーフワードが頭をよぎった。  それを言ったらきっと、肇はすぐにやめて、自分を甘やかしてくれる。  けれど……。  指先を、自身に伸ばす。 「ん、うぅ、あ、あぁ」  上下に擦ると、甘い吐息が零れた。  待ち望んでいた刺激を、もっともっとと追いかける。 「ん。上手だね」  骨ばった指先が髪を撫でる。  それが心地よくて、それだけでもう一回イった。  セーフワードを言えば、肇はきっと自分を甘やかしてくれる。  けれど、  コマンドを聞いてから甘やかしてもらったほうが、何倍も気持ちがいいことを、美斗はもう知ってしまっていた。  肇は一度、美斗の頭から手を離した。  あ、と目線で追いかけた指が、頭の横に置かれていたリモコンに伸びる。  ポチ、ポチと、スイッチを何度か押した。 「ひぃ!?」  振動が深くなって、そこにひっかかった前立腺が大きく震える。 「ぁ、ああぁっ、あ!」  思わず、自身から手を離す。  それから逃れようと腰を跳ねさせて暴れるけれど、ピタリと締め付けたそれは外れるわけもなかった。 「やぁ、やらっ、止めッ、あっ、やぁっ」 「……手、止まってるよ」 「ひ、あ、やっ、むりっ、むり、ごめッ」 「触ってって言ったから触らせてあげてるんだけど……」  ツゥ、と指先が根本をなぞる。 「ひ!? ぁッ、ああッ」  手が塞がっているなんて嘘だ。肇はこんなにも、自分を煽る方法を知っているのに。 「ごめ、ごめんなさっ、止め、あぁ、て、ああぁっ!!」  意識を飛ばす直前。耳元で聞こえたのはこんな声だった。 「美斗がちゃんと反省できたらね」 *  その責め苦は長くは続かなかった。  ダブルベッドに合わせて購入した、まだ真新しいベッドシーツを数回連続で汚した後、肇はようやく玩具のスイッチを止めた。  沈み込んだ身体が強烈な快楽の残り香に震える。  それでもどうにか、はっ、はっと乱れた息を整えた。 「ぅ、あっ…ひ…ぐずッ」  呼吸が徐々に戻って来ると今度は情けなさやら恥ずかしさやらが浮かんできて、美斗は大粒の涙を流してぐずぐずと泣き出してしまった。 「ごめ、ごめなさ……だっ、て」  濡れた瞳で、パートナーを見上げる。  視界は涙で歪んでいて、表情はよく見えなかった。  まだ怒っているのだろうか。  このまま許してくれなかったらどうしよう。  もう、笑いかけてくれることもなくなるのだろうか。 「だって、俺……おれ、ぐずっ、お前、ぁ、いなくて……ずっと、ひとりで、それでっ……」  ああ。だめだ。  これを声に出してしまえば、きっと耐えられなくなる。 「ぅ、ぁ、ぐず、あっ」  最後の最後。  喉奥からせり上がってくる感情を必死に堪えて、美斗は小さく嗚咽した。  でも。 「……ああ。それで?」  しっとりとした柔い声に促される。  タカが、外れた。 「……ひとりで、ぐず、食べても、ぁ味がしない。お前が、いないと美味しくない」  ふ、と小さく息を吐く音がした。 「……そうか。分かった」 「『』」  ピクりと身体が震える。  それは慣れ親しんだコマンドのトーンだった。  恐る恐る顔を上げて、縋るようにと腕を伸ばす。  そのまま引っ張り上げられ、胸元で受け止められた。  親指で目元を拭われると、冷淡だった瞳は柔和な瞳に変わっていた。 「ごめ、なさっ」  ほっとしたと同時に零れた謝罪に、彼は普段に戻って薄く笑った。 「……もう怒ってないよ」  ずっと、見たかった顔だ。  ちゃんと笑った顔。 「ぅ……ぁ」  安心するとまた目元の力が抜けて、美斗の瞳からはポロポロと涙が零れた。 「ひ、ぐ、ぁうぅ、あ」 「いい子。よく頑張ったな」  そのまま、頭を撫でられた。 *  どれくらい時間が経っただろうか。  美斗は胸元に押し付けていた顔を離し、頭上を見上げた。 「はじ、はじめ」  濡れた瞳で、彼の名を呼ぶ。 「ん?」 「ぁ……あ、の……」 「……ああ」 「お、くが……」  もじもしと脚をすり寄せる。 「おく?」  器械は止まったはずなのに、押しつぶされたそこはずっと痺れていた。 「も、やだ」   「おく、ほし……」  肇は楽しそうにクスクスと微笑した。 「ああ。いい子。『おいで』」 *  広いダブルベッドの真ん中。  四つん這いになった美斗は、肇を受け入れていた。 「ハルト」  組み敷くその男は、ひどく優しげな声で美斗の名を呼んだ。 「痛くないか?」  受け入れたそれは、奥の痺れていた部分を刺激する。  圧迫感こそあれ痛みはない。 「ん、ぅ、ぁへ、き」  そう、細い吐息のまにまに答えた。 「……そうか。よかった」  骨ばった指が、また美斗の頭を撫でた。  片方が空っぽになったこのベッドの中で、美斗はずっとこの手を求めていた。  思考が解けて消えていく。  とろんと惚けて、ただその手のひらを受け入れる。  ふふっと肇が嬉しそうに笑った。 「スペース……だいぶ上手に入れるようになったな」 「ん……ほ、んと?」 「……ああ。でも――」 「――ずっと泣いてるんだな」  ポロポロと零れる涙は、留まることを知らない。  それはいつの間にか枕をしっとりと濡らしていた。 「はぁ、は……わ、かんない、とまんな」  分からない。どうして自分は泣いているのだろう。  辛くもないのに涙が出る。  この涙の止め方も。  こんなふうに、致死量を超えた幸福も。  美斗は知らなかった。 「美斗は泣き虫だな」 「ぁ、はじめだけ、はじめの前だけ」 「……そうか」 「ん、ぁ」 「……美斗はいい子だな」  甘い、声がする。  背中をなぞる、その仕草さえ心地いい。 「んぅ、もっと」  美斗は身体を捩り、懸命に彼へと縋った。  もっと。  もっとして。 *  翌朝。 「死ね!」  ダブルベッドで目覚めた美斗は、目覚めてすぐ身を守るようにシーツに丸まり、肇を威嚇した。 「あんな……あんな……」  まざまざと蘇る昨夜の記憶に、わなわなと唇を震わせる。 「……死んだら泣くんだろう」  美斗よりも少し早く目覚めていたらしいその男は、シャツのカフスボタンを留めながら、涼しい顔でそう言った。  ぐぬっと美斗は奥歯を噛む。 「社会的に、経済的に、精神的に死ね!」  肇はそれには取り合わず、ははっと表情を緩める。  ベッドサイドへと腰をかけ、美斗を優しく見つめた。 「そしたら養ってくれるか?」 「……。……お前みたいなドS野郎お断りだ」 「それは残念だな」 「お前が……」  ベッドを変えようなんて言うからいけないんだ。  このだだっ広いベッドで一人で眠っていると、世界に一人だけの気分になる。  でもそれは、待たせている側のこいつには分からないのだろう。  なんだかどんどん贅沢になるな。前はもっと、平気だったはずなのに。  あのマンションにいた頃だって毎日ダブルベッドで眠っていたけれど、こんなに寂しくはなかった。  このままいくと、こいつなしでは何もできなくなりそうだ。 「う、ぅぅ……」  美斗はシーツの中に顔を埋めて、自問自答した。 「じゃあ、俺は出るけれど、今日はちゃんと……」 「ぇ……?」  ふいに落ちてきたその言葉に、落胆が口をついて出た。 「あ……そ、かよ」  そうか。今日も一緒にいられるわけではないのか。  でもそれは当たり前で、普段通りで。  寂しさのメーターが誤作動を起こしている今日の自分がおかしいのだ。 「……だいぶ落ち着いたから、今日からはちゃんと帰れる」  そんな様子を見かねたのか、肇は頭上でそう言った。  むぅと美斗は頬を膨らませる。 「……。……ダッツ。抹茶の」  子どもみたいな甘えが唇から零れた。 「ああ。バニラといちごもいるか?」 「……いる。ナッツが入っているやつも」 「……たくさん買って来る」 「撫でろ」  それを言うのは心底癪だったが、何もないのはもっと癪だった。  大きな手が何も言わずに下りてきて、美斗のうなじを滑る。  美斗はシーツから這い出て、肇の膝に頭を乗せるとぎゅっとその腰を抱きしめた。 「夜は一緒に食べよう」 「……」 「何が食べたい?」 「ぇ、あー……」  ふいに、美斗は初めてこの家に来たときのことを思い出した。  雨音と、バスタオル。モスグリーンの浴槽。  スパイスと珈琲。  あの時のあれは、正直味がよく分からなかった。  でもきっと、温かくて優しい味がしたのだろう。 「……カレー、ライス」 「ああ。いいな」 「あの……」  膝元から見上げる。 「ん……?」 「ああ、いや……。野菜……切って、待ってる」 「……ありがとう」 「……なあ……また、さ……」  言いかけた言葉を噤む。 「……んでもない」  と取り繕うけれど、肇にはお見通しだったようだ。 「ああ。また俺の手で食わせてあげる。あれ好きなんだよな」 「……ちがう」 「はいはい」  見透かされていたのだろうか。  だからあんなに、甲斐甲斐しく世話を焼いたのか。  俺が寂しくないように?  あんまりこれに慣れると辛くなる。  幸福はいつも一瞬で、安心したと同時に過ぎ去ってしまう。  終わりが来るときにきっと耐えられなくなる。  ああ、でも……。  この幸福に終わりなんてないと思ってもいいのだろうか。  肇の手は、まだ美斗を撫でていた。 「もう、出るんじゃないのか」 「あと五分は大丈夫だ」 「ふーん……」  抱きしめる手に力が入る。  肇は去り際に、朝食を作ってあるから食べろと言った。  テーブルの上にサンドイッチが並んでいた。  たまごと、ハムと、ツナマヨネーズ。  皿ごと手に取って、ベランダへと出る。  覗き見れば、相も変わらず人の営みがそこにある。  スーツ姿のサラリーマン。  制服姿の中学生。  作業服の工事員。  各々の識別符号を身にまとい、今日もみんな、普通に生きていた。  眺めながら、サンドイッチの一切れを食む。  思わず顔がほころんだ。 「うまっ」

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