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第28話

吹く風さえも春の到来を喜んでいるような穏やかなその日、御所の桜は満開だった。  帝が住まわれる清涼殿に、佐理は初めて足を踏み入れた。いつもは女房たちが渡殿を通っていく姿を、箒片手に眺めているだけだった。  月光の君の侍従の後について行くと、小さな部屋に通された。 「少しここで待っててください」  そう言うと、侍従は行ってしまった。  もし本当に蔵人頭が佐理の中将だったら、最初になんて言おう。  月光の君と今日の約束をしてからずっとそことばかり考え、昨夜はよく眠れなかった。  まずは観月の宴の夜のお礼を言って、それから山火事の時、佐理が言ったことについて謝って、それから……、    それからなんて言う?   自分も好きですとでも言うのか?   相手は蔵人頭、身分が違いすぎる、でも。  佐理は膝に置いた手を握りしめた。  でも、佐理の気持ちは伝えたい。  だってずっと、できなかったのだ。  高子の振りをしなければならなかった佐理は、本当の佐理を心の奥深くに閉じ込め、本心を語ることは許されたなかったのだ。  だからせめて伝えたい。  二人で過ごしたあの時間を、佐理がどれほど忘れられないでいるかを。 『教えてください、あなたの気持ちを』  観月の宴の次の日、清友に嫉妬した蔵人頭は佐理に聞いてきた。 『わた……しは……』  震える佐理の唇を蔵人頭は塞いだ。  まだ間に合うのなら、あの言葉の続きを言わせて欲しい。  小さな足音がして、簀子縁を一人の子どもが横切った。 「小君!?」  少年が佐理を振り返る。  あどけなかった顔が少しだけ大人になった、けれどそれはまさしく小君だった。 「佐理様」  小さなひまわりの笑顔が咲く。 「佐理様、またお会いできて嬉しいです」  小君は佐理の胸の中に飛び込んできた。小君からはお日さまの香りがした。  小君の頭に桜の花びらが一枚ついていて、佐理は指先でそれを取ってやる。  小君がここにいるということは、佐理の中将が今日ここにいるということだ。もうすぐ会えるのだと思うと、一際胸が高鳴った。 「どうして佐理様がここに? もしかして中将様に会いにですか?」  小さなひまわりが佐理を見上げる。 「私は今日は賭弓の手伝いに来たんだよ」 「賭弓の手伝い……。中将様に会いにじゃないんだ」  ひまわりがしゅんと頭を垂れて萎れる。 「ねぇ小君、小君の言うその中将様は、本当は蔵人頭様という名前じゃないのかい?」 「えっ?」  小君はそろりと佐理の胸の中から抜け出た。 「ち、違います。中将様は中将様です」  赤く膨らんだ顔をぶんぶん振る小君が可哀相になり、佐理はすぐに自分の言った言葉を引っ込めなくてはいけなくなった。 「悪かったね、そうだね、中将様は中将様だよね」  そう言うと、小君は今度は泣きそうな顔をした。 「佐理様、本当は……、本当はですね。佐理様をお好きな優しいお方はですね……」  ついに小君のつぶらな瞳から大粒の涙が溢れ出た。 「佐理様、中将様を嫌いにならないで。佐理様とお別れしてから中将様はずっと元気がないの。中将様は佐理様のことが大好きなの。だからお願い佐理様、中将様を嫌いにならないで」  高子様ではなく佐理様か……。  やはり蔵人頭は佐理が男だと気づいていたのだ。 「嫌いになんてならないよ。私も中将様が大好きだよ」 「本当に?」 「ああ」 「じゃあ、また中将様と会ってくれる?」 「中将様はまた私と会ってくれるかな」  小君は再び佐理の胸にぶつかってきた。 「もちろんですよ。じゃあまた僕、中将様と佐理様のお文を運ぶお手伝いをしますね」  佐理とゆびきりげんまんの約束を交わすと、小君は走って行ってしまった。  最後まで中将が誰であるかを言わなかった小君。なのに高子と言わなければいけないところをうっかり佐理と言ってしまっていることには気づかない。  そんな小君の子どもらしさが、佐理は愛おしかった。  しばらくすると、奥から月光の君が出てきた。 「やあ、美しい人」  普段着の狩衣よりもっと簡素な水干(すいかん)をまとい、すでに左腕には射籠手(いごて)をつけている。  月光の君に連れられて長い回廊を進む。  もうすぐ佐理の中将、蔵人頭に会える。  佐理の前を歩く月光の君の歩調がやけに遅く感じた。

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