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第31話

一人悶々と頭を巡らせていた佐理だったが、はたと自分の役目を思い出す。  何はともあれ、今日佐理をここに連れて来てくれた月光の君には感謝している。ちゃんと自分のやるべきことはやらねば。色々と問いただすのはその後だ。 「蔵人頭様、私ごときの芸でよければ何なりと仰ってください。和歌でも笛でも舞でもご希望のものを」  返って来たのは蔵人頭の意外な言葉だった。 「勝者は俺じゃない」 「え、でも」  佐理はど真ん中に弓が突き刺さった的に目をやる。  誰か他にも的中させた人物がいるのか? 「君が来る前にすでに何人かの射手がいたんだよ」  月光の君はそう言うと、大声で小君を呼んだ。ひょっこりと奥から小君が顔を出す。 「小君、あれを持っておいで」 「はい!」  小君がどこかに消えると、月光の君はその場にいる者たちに声をかけた。 「さて、別の席に宴の準備をしている。これからそっちに移動して楽しもうじゃないか。俺の新妻ちゃんとその友人もいるぞ。あ、君はこのままここに残って、ちゃんと本日の勝者のリクエストに応えてね」  小君が手に何か持って戻ってきた。月光の君はそれを小君から受け取ると、そのまま佐理に差し出した。  それは一本の矢だった。  よく見ると矢の先端に桜の花びらが刺さっている。 「これが今日の勝者が放った矢だよ。すごいだろ、ひらひら散っている桜と的の中心を同時に命中させるなんて神業だよね」  それは、青鷹の羽根があしらわれた矢だった。  佐理が池の東側で見つけた羽根と同じ、青鷹のそれも一番高価な石打と呼ばれる部位の羽根だった。 「これは……、この矢は……」  佐理の矢を持つ手が微かに震える。 「その矢の持ち主は、この御簾の向こう側にいるよ」  月光の君はそう佐理に言い残し、皆を引き連れ、宴の場へと行ってしまった。  そして佐理だけがそこに取り残される。  桜の花びらが音もなく散っていた。  この御簾の向こう側に、佐理の中将がいる。  優しい瞳で、『十六夜の君』そう呼ぶ声は弦楽器のように低く艶のある声。  何か言わなければ。  そう気持ちは早やるが言葉が出てこない。  胸の中は伝えたい事で溢れんばかりなのに。  御簾を見つめたまま、ただ時間だけが過ぎていく。  微かに御簾の向こうで衣擦れの音がした。 「聞こえむや 我が心の 早鐘を」  中将の、声だった。  佐理は歌の続きを口にする。 「君と会ふ 契りせるほどより」  佐理が中将と御簾越しに初めて会った時に中将が詠んだ、二人だけが知る歌だった。 「十六夜の君……」  中将が静かに佐理を呼ぶ。  高子ではなく、本当の佐理の姿のままでそう呼ばれることを、佐理は何度夢見たことだろう。 「ちゅう……」  言いかけて、佐理はその名前を呑み込む。  近衛中将ではないのだ、この方は。  今、はっきりと佐理は分かっていた。この御簾の向こうにいるのが誰であるのかを。 「佐理」  名前を呼ばれて佐理の心臓が小さく破裂する。 「もし、まだ私にチャンスが残されているなら、その御簾を越えてこちらに来てほしい」  落ち着きを払ったように聞こえる声だったが、その裏側にはらんだ緊張が、佐理には伝わってくる。  いつだって、愛おしそうに佐理を呼び、いつだって、佐理のそばに来てくれ、いつだって、その腕で佐理を抱きしめてくれた。  それがあの炎の中で佐理に歩み寄ろうとする足を止めさせたのは佐理だった。  二人を隔てる御簾は、ただの御簾ではなかった。  性別、身分、社会的立場、二人を別(わか)つさまざまな障害の象徴だった。  それを越えて来てくれたのだ。  今度は佐理の番だった。  佐理は御簾に手をかけた。  ゆっくりと持ち上げるそれはひどく重く感じられた。  佐理は足を一歩中に踏み入れた。  部屋の中央、畳の上の一段高い御座にその方は鎮座されていた。  眩しく光る白直衣の裾は引きずるほど長く、その下には紅色の長袴がのぞいている。  この御引直衣(おひきのうし)をまとうことができる人物は、この国でただ一人しかいない。  帝、その人だ。  黒翡翠の瞳が佐理を見つめていた。  佐理は何度その瞳に魅せられただろうか。  愛しか語らぬような甘い唇が物言いたげに微かに震えている。  佐理は何度、その唇に身体の芯をとろけさせただろうか。  佐理の中将が、そこにいた。

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