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35 人魚の庭で出会った男 5

「こんなもの――!」  尚樹にだけ読ませた論文。彼が撮った珊瑚の写真。  波間に身を投げるように、広海は尚樹との思い出ごと、メモリーを投げ捨てようとした。 「広海さん!」  広海の拳を、一回り大きな尚樹の掌が包む。  重なった二つの手の中で、飛び立てなかったメモリーが、とくん、と小さく拍動した。 「研究者のあんたが、海に人工物を捨てるのか」 「はな……して」 「離さない。あの島の珊瑚を、あんたの手で殺すことになるんだぞ」  右手を捕らえたまま、尚樹の両腕が背中から広海を抱き締める。  尚樹の匂い。腕の力。息遣い。鮮やかなそれらが、広海の視界をぼやけさせる。 「離せ、尚樹。嘘つき――嘘つき」 「何度でも謝る。だから、俺の話を聞いて」 「聞きたくない――」 「服部理事長に、竹富島に人魚がいると言われたのは本当だ。ジュゴンを研究してる俺をからかった、ただの冗談だと思ってた」  広海の頬を、溢れ出した涙が濡らした。  もう枯れ果ててしまったと思っていたのに、透明な雫が止めどなく伝う。 「……罠を仕掛けたつもりでも、あの人は予測もしていなかったはずだ。俺だって――考えもしなかった。その人魚を本気で好きになるなんて」  潮風に曝された広海の冷たい耳を、尚樹は唇で塞ぐようにして言った。 「一目で広海さんに魅かれた。俺の手で、人魚を生き返らせてやりたいと思った。広海さんのことを知るたび、どんどん好きになった。今日だって――会いたくてたまらなかったから、理事長の呼び出しに応じたんだ」 「……君とあの人が、共謀しなかったとどうして言える……っ」  尚樹の腕の力が強くなる。  広海の右手の中で、メモリーが悲鳴を上げたように軋んだ。 「俺があんたに秘密にしていたのは、一つだけだ」 「一つ――だけ」  広海、と、尚樹は静かな声で呼んだ。  短い静寂の間じゅう、広海は彼の眼差しに射抜かれたまま、呼吸さえも忘れていた。 「俺は服部理事長のことを知っていた。彼と面識があった。広海さんに秘密にしていたのは、それだけだ」 「……なお…き」  声にならない声が、広海の唇を震わせる。  嗚咽で喉を痛ませながら、広海は泣いた。涙が止まらなかった。

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