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第6-1話

 まるで鳥に抱かれているような暖かさに微睡み、その瞼の裏で甘い夢を見た。花の下紐を解く美しい夢。その狭間に聞こえてくる扉の音は、一時も経たずしてギューが戻ってきたように思われた。なだらかに昇っていく朝日の温もりを感じつつ、彼が階段を上ってくれば寝台を譲ってくれた礼を伝えようと思っていた。しかしいつまで待っても来る気配はない。  青は気がかりになって身体を起こす。  秋の野芥子を垂れかけた細い窓は閉ざした扇の形。そこから差し込む陽ざしは薄暗い部屋の中に淡い光りを注ぐ。  雲霧の透かし彫りの銀テーブルに、脚は雨粒が巻き付くような装飾を施し、蕾んだ菫のランプは花びらの先をほんのりと薄く染めて朧気に灯っていた。壁飾りの棚はまるで小鳥のための食器棚のよう。巻き貝を象った銀額縁の鏡の中は逆さの世界である。  青の知っている花園屋敷とは趣が違う。  枕元に置かれた単衣をはおり、そっと寝台を抜け出す。  夏蔦の這う壁に触れて、手すりを撫でつけて階段を下りていった。敷き詰めた露草の絨毯の上に五脚の椅子で囲んだ食卓が目に入る。書物を無造作に積み重ね、針の止まった時計を端に追いやり、ティーキャディ、そしてナイフケースは螺鈿をちりばめた目をひく細緻な模様を纏う。  その中に薄汚れた皮作りのものを見つけた。近づく鼻の先で徐に動く。深い溝の靴裏に、足首を包む靴紐は蜻蛉の羽を解して縒った綺麗な糸。どうやらギューの足を覆うブーツであった。すらりと長い足を辿ると、小さな椅子に深く腰掛けて眠る彼の姿がある。  背もたれに寄りかかり、腕を組んで眠る彼は少しも起きる気配がない。 「ギュー、眠っているのか」  囁く声さえ聞こえていないよう。寝顔はまるで無垢な子ども。閉ざされた瞼を見ればその気持ちよさそうな顔つきには思わず眠気を誘われる。  青はそっと彼から離れて庭に向かった。  ヤン・ギューの家は草や苔、花やもみじが錦のように包む虚ろな木の家で、少し小高い丘の上にある。周囲を背の高い葦に囲まれた、草深い湿地の窪地に位置する。  人の足も遠のく鬱蒼とした湿地に、怪士が根付いて住み着いたのは、この国が起こるよりも前、太古の昔からである。水豊かな国の象徴を残すその場所は人の手も届かない野生の地。緑に煙る山が豊かな稜線を描いて周囲を囲むその場所を、帝は遷都の場所に決めた。  芽が繁吹(しぶ)く水辺は青臭い匂いが立ちこめて、群れる蒲の影には雀が草宿を結んでいる。  若い荻が垂れるその向こうに川が流れていた。水は冴え返った冬の寒さに再び凍てつき、その水面を固く閉ざしている。  玻璃が覆うように凍り付き、清らかな氷は魚の吐息で白くくもるよう。束の間に勢いよく溢れ出した激しさをしめすように、砕かれた波飛沫が茨のように連なって凍り付いていた。  冷たい春の陽ざしをはじく銀鱗(ぎんりん)の輝きを、真珠の散る様子に重ねる。見も知らぬ世界に胸が躍る。  魚が青を誘っている。  彼らも春最中の冬の情景に胸をときめかせているのだ。  青は心を弾ませ、裾を絡げて恐る恐ると氷面に触れた。肌に突き刺さるような冷たさには心臓も止まるほど。  そっと両足を乗せて動いてみると驚くほど丈夫だった。  すらりと伸びた指先が魚の影を追い、渦を描くようになぞっていく。玉が触れあうような涼しげな音色を辿って氷雪(ひょうせつ)が舞い上がり、それは透明な朝日に照らされて目の前を七宝の輝きが放たれる。星が鮮やかに瞬くよりも美しい景色に息も忘れて見入っていると、ふと、微かな音が耳に触れた。水草を踏み折って近づいてくる足音。  泡幻(ほうげん)(ひび)を入れるような不穏な音に、ハッとして振り返った視線の先を、ぎらりと光りを放つ槍の先が見えた。  まさか、追っ手の怪士ではないかと立ち上がり、草をなぎ払う荒っぽい仕草を耳にして思わず身を翻す。  葦を掻き分ける手は船を漕ぐように勢いよく路を切り開き、薄い氷の上を足早に駆けていく。  近づいてくる怪士たちの気配を背後に感じ、息せき切って振り返ったそのとき、踏み込んだ足が(ゆる)んだ氷を踏み抜いた。思わず蹌踉めき手をつく青を、草陰から引き掴む手が伸びる。

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