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第11-2話

 着地して、すぐさま駆け出そうとした足は、思いがけず水の中に沈んでいった。  洞窟は水浸しであった。慌てて水面に上がる青は息を荒げて顔に張り付く髪を掻きあげる。  煤けた洞には焦げた匂いが微かに漂い、頭上から滴るしずくが青の首筋を冷たく伝って行く。押し寄せる波に身体を任せ、波を掻いて進みながら、時折太ももを舐めていく不愉快な感覚に怯えた。  糸のようなものが足に絡まると、青は心臓が止まるほど驚く。胸に這うむずがゆさを覚えて振り払うように手をなでつけ、背筋を滑るような感覚に指先を伝う。  そして、はたと、陰部に潜り込むようなその感覚に気付いたとき、その正体を咄嗟に頭に思い浮かべて飛び上がるほどの絶叫を上げた。 「ミズグモ! いるんだろう!」  小さな蜘蛛たちが水面に漂い、水中を浮揚しながら青の身体にまとわりついていたのだ。あの、繭玉から零れていた小さな蜘蛛の群れたちである。その蜘蛛の中に青の身体は沈んでいる。嫌悪感を抱いた貝殻の中に自ずと飛び込んでしまったようなもの。  どこかに上がろうと壁を伝うが、足が引っかかるようなところなどない。木の根さえ焼けてしがみつけるものもないのだ。  涙が滲むほどの気色悪さに瞼を伏せて、単衣を足の間に挟みながら青は袖を縛った。 「頼みがある。凪を助けたい。俺のものから一つ凪の命と取り替えてくれ」  襟をかき合わせ、浮かぶ青の身体の下を、泡が湧き立つ。 「耳の中だって、蜘蛛が糸を張れば住み着くには十分だ」  竦む青の身体に長い手足が縛りつくように絡まった。摘まみ上げられた小さな蜘蛛を目の前に突きつけられて青は震える。 「おれを、蜘蛛の巣にするつもりなのか」 「赤ん坊のゆりかごがなくなってしまったからな。お前のせいだぞ。花径の奥でも構わない。蜘蛛を入れて卵を産み付けてやれば、暖かいそこでは少しと経たずに何万匹もの蜘蛛が孵化する」  ぞわぞわと怖気立ち、青は頭を振る。 「本当に、いやなんだ。やめてくれ。恋心を奪うというのであれば、それはくれてやる。だから蜘蛛を遠ざけて」  何度だって清瀬に恋をするのだと思えば、恋心も喜んでくれてやる。そのつもりだった。それだというのに、まさか身体を脅されるとは思いもよらない。 「覚悟がないのに何をしに来た」 「覚悟ならしている!」 「それなら、身体を蜘蛛たちの寝床にされたところでどうってことはないだろう」  身体の中で、しかも意思を持った小さな蜘蛛が蠢いていると想像するだけで鳥肌が立つ。見ることさえいやなのに、そのうえ卵を産み付けられたら、この身体の、しかも大事な花径の中でおぞましい蜘蛛が育って一斉に孵化してちりぢりとなり、奥深く、臓器や肌の下を這うなどとは考えたくもない。  それでも我慢すれば凪の命は助かるというのか。  青は溢れる涙に瞬きをしながら嗚咽を混じらせた。 「約束しろ。必ず凪の命を助けると。凪の命が助かったとわかれば、蜘蛛を入れてやってもいい」 「あの醜い男は清瀬に夢中のお前の心を奪おうと企んだ。それでも助けるというのか」  青は思わず目の色を変えて身じろぐ。 「俺の心を?」  夥しい数の小さな目が青の姿を捕らえているのがわかる。 「傲慢にお前の心を求め、挙げ句に醜い心を悔いることもない。あの男を助ける必要があるのか」  青は爪先から這い上がってくる蜘蛛に気付いて股をとじ、蹴り落とそうと身もだえた。

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