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市場に近づくにつれて、さらに人が増えていった。ライニールのすぐ後ろを歩いていたミハルは、彼の大きな体が人並みをかき分けるおかげで、苦労なく歩みを進める。しかし、やはり真っ黒なローブに身を包んだ大男を誰もがチラチラと振り返っていた。  セントラルで記憶を失い目覚めてから一月と少し、ミハルはこんなにも多くの人を間近に見るのは初めてだった。とはいえライニールが前を歩くおかげか不安はなく、いつもと違う少し刺激的な情景にミハルは目を輝かせながら、さっき買ってもらった本の入った袋をローブの下で胸元に抱き、行き交う人の様子をキョロキョロと観察した。 「おや」  ふと視界に入ったそれに、ミハルは足を止めた。少し暗い路地から出てきた紺のローブを着た男だ。旅人なのか、ソールのしっかりしたブーツと大きな荷物を背中に背負っている。その男が手元に持っているのはあのオレンジの玉だ。ライニールがヒリスからもらっていたものと同じものだろう。  男はそれを手元で転がした後、口元に少し穏やかな笑みを作ると大切そうに懐にしまう。いったいあれはなんなのだろうと、ミハルは男の出てきた暗い路地の奥を見ながら目を細めた。 「ライニール様、ちょっとあちらに」  そう言って、前を向き直った時にはライニールはかなり先を歩いていた。人並みに埋もれてはいるが、頭一つ分大きいせいで何処にいるかは一目瞭然だ。であれば、一度逸れてもすぐに見つけられるだろうと、ミハルはその場を離れ路地裏へと歩みを進めた。  表通りとは違い、裏路地は少しニッチな雰囲気だ。店を構えず、路面に呉座を敷きそこに座り込んで商品を並べている者が多い。その表情も土気色だったり、目の下にクマを作っていたり、はたまた前歯が無かったりと、なかなかアンダーグラウンドな雰囲気をはらんでいる。  ミハルがそのふわふわの毛並みと白い肌を晒していれば、この場所では目を引いてしまっていただろう。しかし、幸いなことに今は真っ黒いローブに身を包んでいる。表通りでは少々目立つ姿だったが、この裏通りでは逆に紛れて目立たないようで、誰もミハルを気に止めるものはいなかった。  少し視線を奥にやるだけで、ミハルはすぐにそれを見つけた。  薄汚れたシートの上にあぐらをかいて座った男は、白髪混じりの乾いた髪を後ろで結び、日焼けで乾燥した浅黒い肌をしているが、服装はそれなりに綺麗なものを纏っている。膝の上に手をもたげて背中を丸めた彼の前には、いくつかの籠が並べられていて、その中に入っているのがあの玉だ。オレンジ色のものと、ピンクと、そしてミハルが吐き出すのと同じ青い物がある。  ミハルが歩み寄ると店先の男がゆっくりと力のない視線を上げた。ミハルはしゃがみ込み、そのオレンジ色の玉に指を伸ばす。 「買わねんなら触んないでくれよ」  白髪混じりの男の声にミハルは動きを止めた。ポケットを漁り、先ほどライニールからもらった書籍代の釣り銭を取り出す。数えてみたが、表記されている値段には到底足りない。と言うか、この玉の値段が思いの外高いことにミハルは驚いた。 「これ、買取もしてもらえるんです?」 「あん? にいちゃん、吐けんのかい」 「ああ、はい。青いのだけですけど」  そうミハルが答えると、白髪混じり男はふっと小馬鹿にするような笑いを浮かべ、その黄色い歯を見せた。 「買取もしてるが、青は二足三文だね。高いのは、これとこれ」  そう言って指差したのはピンクとそしてオレンジ色の玉だ。 「あとは、ここにはないが、真っ黒いのが一番希少だ」 「真っ黒いの……」  ミハルは玉を見下ろした。ミハルが吐き出す青い玉、それは「恐怖」や「苦痛」の記憶だ。であれば、この他の色の玉もなんらかの感情を伴う誰かの記憶なのだろう。 「追蹤玉(ついしょうだま)を見るのは初めてかい?」  唐突に思ってもない方向から声をかけられ、ミハルはぴくりと肩を揺らした。  その声の主はミハルのやや後方に立っていたのだが、ミハルが見上げた顔を確認するとにこりと笑顔を浮かべてミハルの隣に腰をかがめた。中肉中背の若い男だ。少しクセのある黄褐色の髪を後ろへ流し、掻き分けられた前髪の間からは綺麗な額がのぞいている。切れ長の目元はヘーゼルの瞳をはらんでいて、通った鼻筋がこの男に少し狡猾な印象を与えているようだ。 「追蹤玉というんですか」  ミハルが言うと、ヘーゼルの瞳の男は穏やかに頷いた。 「そのにいちゃんは青いやつを吐けるらしいぜ」  何故か得意げに白髪混じりの男が言うと、ヘーゼルの瞳の男は「へえ」と言って興味深げにミハルの顔を覗き込んだ。 「うさぎちゃんだね?」 「はい?」  ミハルが聞き返したのは彼の問いの意味がわからなかったわけではなく、なぜローブで覆い隠した自分の姿からそれがわかったのかと言う意味だった。  ヘーゼルの瞳の男はミハルの疑問を汲み取ったのか、ふっと小さく漏らすように笑うと右手の指を自らの口元に当てた。 「俺、狐だがら。なんとなくわかるんだよね」  くっと持ち上げた彼の口元の犬歯に、ミハルは本能的にごくりと唾を飲み込んだ。 「うさぎちゃんで、青いのを吐けるってことは魔女の慈悲を貰った罪人かな?」  狐の男の言葉に、ミハルは一瞬躊躇ったものの「はい」と正直に頷いた。狐の男はニヤリと笑うと無意識なのかミハルの脇腹のあたりに目を落とす。烙印のことも知っているのかもしれないとミハルは思った。 「あの、狐様。この追蹤玉は、何に使うのです?」  ミハルが問うと、狐の男はポケットから価値の高い硬貨を取り出し白髪混じりの店主に渡すと、ピンク色の玉を一つ手に取った。 「そのままの意味だよ。記憶の追体験ができる」 「記憶の……」 「うん、オレンジ色のは持ち主にとって良い記憶。だから、買うのは心の病を治療したい人や、まあ、気疲れしていたりして、良い気分でリラックスしたいみたいな人が多いね」 「手放した人がいるってことですよね? 良い記憶なのに」  ミハルが吐くのは恐怖や痛みだ。良い記憶を何故手放してしまうのかという純粋な疑問だった。 「まあ、お金になるから」  狐の男の答えは単純明快だった。魔力を持たないものでも、魔法使いに頼んで吐き出させてもらうことができるらしい。もちろん報酬を支払う必要はあるが、それを差し引いてもオレンジ色やピンク色の玉を売り払えば大きな利益になると狐の男は話した。 「ところでうさぎちゃん、罪人なのに一人なの? もしかして、主人のとこから逃げ出してきた?」 「いえ。今ははぐれ……別行動をしているだけです」  ミハルの答えに、狐の男は「ふうん」と口を尖らせた。 「こんなところで、烙印持ちのうさぎちゃん一人じゃ危ないよ?」 「はあ」 「西にずっと行った先の城に住んでる勲章持ちのでっかい狼獣人の男の話知らない?」  ミハルは中空に視線を泳がせた。狐の男が言うのは、おそらくライニールのことだろう。 「その男、昔一緒に暮らしていた兎の獣人を……」  ミハルは狐の男の次の言葉を待ちながら、その瞳で彼を見上げた。自分の話を聞くミハルの様子に気分をよくしたのか、狐の男はその両手をミハルの肩に置く。そして、そっとその体を引き寄せ耳元に口を近づけると、わざと囁くような声音で言った。 「食べちゃったんだって」  ミハルは息を止め、ほとんど無意識に頸を抑えた。しかし、それは狐の男の話の内容に怯えたからではなく、単純によく知らない「狐」が「兎」である自分に触れたからだ。 「なぁんてね。ただの噂話だけど、怖かった?」 「いえ」  飄々と笑んだ狐の男にミハルは首を振った。 「まあ、とにかく。こんなとこにいてその狼に捕まりでもしたら危ないよってこと」 「お気遣いありがとうございます」  ミハルは会釈をして立ち上がる。すると狐の男は自らも立ち上がるとミハルの手首を掴んだ。そして、徐にピンクの玉をミハルの眼前にちらつかせた。 「ねえ、うさぎちゃん、追蹤玉に興味があるんでしょ? これ一緒に使ってみない?」 「ん? 一緒に? 追蹤玉は誰かと一緒に使うものなのです?」 「うん、ピンクのやつはね。一緒に使った方が、そのぉ、楽しい」 「はあ」 「これあげるから、やってみる?」 「うーん」  ミハルは顎に手を置き首を傾げ考えた。その後で、足元の籠に入れられているオレンジの玉に目を落とす。ライニールが持っていたのはこの色だった。 「オレンジの方がいいですねえ」  そう言って、ミハルはキツネの男の顔を見上げぱちぱちと瞬きをして見せる。 「うーん、オレンジか。わかった。じゃあ、そっちも買ってあげるから、ピンクのやつ一緒に使お」  おねだり戦法はどうやらライニール以外にも、兎を捕食対象とする獣人には効果があるらしい。狐の男はさらに硬貨を店主に渡し、オレンジ色の玉を受け取るとそれをミハルに手渡した。ミハルはそれを親指と人差し指で摘んで覗き込む。やはり、ライニールの持っているものと同じだ。中で何かが蠢いている。 「さ、行こう、うさぎちゃん、こっち」  そう言って狐の男はミハルの腰に手を回し、路地の奥へと誘おうとその背を押した。 「おい」  地を這うような声が背後で響き、ミハルと狐の男は振り返った。  声の主は表通りの明るさを背負っているせいで、逆光でただの大きな黒い影のようになっている。目元だけがギラリと鋭く光り、それがミハルたちを見下ろしていた。ミハルは先ほど|呪い《まじない》をかけたばかりだったため平常心を保てたが、そうでなければ驚いて吐き気を催していただろう。実際隣の狐は「ひっ」と小さく呻いて息を飲んだ。 「おや、ライニール様。見つかって良かったです。迷子になられて心配してたんですよ?」 「どの口が言ってんだ、クソ兎。勝手にうろつくんじゃねえ」  ライニールがぬらりと体を動かすと、逆光からその苛立ちで歪んだ顔が露わになった。その細められた視線はミハルを見下ろし、その後隣の狐の男へと向いた。ミハルはそれに気がつき姿勢を正すと、右手を上向け狐の男を指し示した。 「こちらの方に、追蹤玉について教えて頂いたんです」 「あ?」  ライニールは右側の上唇を持ち上げた。犬歯がのぞいて、ミハルは背筋がぞくぞくと粟立つが、また頸を撫でて息を吐くと言葉を続けた。 「狐の獣人だそうで。ピンク色の追蹤玉の使い方を教えてもらうところでした」 「ひっ」  何故か隣の狐がまた悲鳴に近い呻き声を上げた。ミハルは「はて?」と首を傾げて振り返ると、その狐の男は顔を恐怖で引き攣らせ、冷や汗を浮かべている。 「いや、えーっと、違うんですよ。俺はただ、玉を買ってあげただけで、一緒に使おうとかそう言うのではなくて」  狐の男はしどろもどろに言葉を濁す。ライニールの覇気にすっかり怯えているようだ。 「は、はい、うさぎちゃんこれ。ご主人と仲良くね?じゃ、じゃあ、サヨナラー!」  手に持っていた玉をミハルに握らせ、狐の男はライニールに背を向けぬように、壁を背後に伝いながら、転がるように裏路地から飛び出していった。 「あらら、ライニール様がそんな怖い顔してるから、教えてもらえなかったじゃないですか」 「チッ、クソが」  ライニールは狐の背中に吐き捨てるようにそう言った。

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