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第60話 銀狐、思い知る 其の六

 この男の子供を生み、育てたいのだと。   「白霆(はくてい)……」    彼の存在に引き寄せられるかのように、白霆の眠る寝台の際に座る。そして上から覗き込むようにして白霆を見れば、巧緻でどこか凛とした顔が目の前にある。  この顔が優しく笑むのを知っている。  時に男の顔を覗かせることも知っている。  (こう)、と耳心地の良い声で呼ばれるだけで、心と本能は自然と喜びに満ちるのだ。   「白霆、お前が……」    白竜(ちび)なら良かったのに。  規則正しく静かな寝息を立てる彼に、晧は囁いた。  そうすればもう逃げることもなく、もう迷うこともなく、その腕に飛び込めたというのに。  晧は更に顔を近付けた。  ふわりと薫る、春の野原の草花のような瑞々しい香りに誘われるかのように、晧は白霆の薄い唇に口付ける。  まさにそれは自分の心の中で、区切りを付ける為の儀式だった。今のままでは白霆にも白竜(ちび)にも不誠実だ。  自分が代わりの式を置いて逃げたことなど、何も知らないまま婚儀の日を城で待つ白竜(ちび)がいる。しかもいまは遊学として同じ城にいるのだ。もしかしたら、身代わりの式の自分と、何かしら話をしたのかもしれない。この接吻も、この男の子供が欲しいと思ってしまった心も、白竜(ちび)にとって裏切り以外の何者でもないというのに。  そして心のどこかに白竜(ちび)がいるというのに、自分を口説く白霆を本能の流されるままに受け入れ始めていた自分が、何よりも無責任だ。   (……だから、これで……)    これで、もう終わりだ、白霆。  軽く音を立てて唇を離すと、晧は白霆の眠る寝台から降りて、隣の寝台へと潜り込む。  あの香りに包まれたいと、温もりに包まれたいと慟哭し始める心を、晧は腿の内側を思いきり抓ることでやり過ごしたのだ。               ***      きゅうきゅうと、幼竜の泣き声が聞こえる。  ああまた、あの夢かと意識のどこかでそんなことを思う。  全身を包み込む白い霧のようなものからは、春の野原の草花のような瑞々しくも甘い香りがした。優しい香りに包まれていると、やがて身体中にあった激痛が跡形もなく消え去る。動くこともままならなかった身体が、何の痛みもなく動くのだ。  それはまさに真竜が持つ、奇跡とも言われている神気の『力』だった。  ありがとうと晧は白竜(ちび)に言おうとした。  お前のおかげで動けるようになったと。  さあ、一緒にこの果実を食べようと。  だが起き上がろうとした刹那の内に、目の前が急に真っ暗になる。  次に気が付いた時には、寝台だった。  体中が熱くて意識が朦朧とする。  寝台の際で心配そうにこちらを見ている白竜(ちび)に、大丈夫だと言ってやりたいのに、出るのは熱い吐息ばかり。   『──……い。あら、ここにいたの? ──……い』    ああこの声は、母だ。  母が白竜(ちび)の名前の呼んでいる。   『晧は大丈夫よ。少しね、神気に反応しすぎて熱が出ちゃっただけだから、すぐによくなるわ。──ううん、違うわ。貴方の所為ではないのよ。貴方は晧の怪我を治してくれた。ありがとう、──……い』            

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