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張り裂ける気持ち

 気落ちすることはない。喰録はそう言ってくれたが、タイランが無関係を貫き通せるような口ぶりではなかったことは確かだ。  あれからドウメキは、頭を冷やしてくると言って出かけてしまった。突き放されるようなことを言われたわけではない。それでも、普段とは違うドウメキの様子は、タイランの動揺を煽るのには十分だった。 (何があったか、と聞くのはまずいだろうか)  喰録から渡された桃を口実に、タイランは自室へと戻った。  あの場から遠ざける気配りは、本当に妖魔かと思ってしまうくらいに手慣れていた。  窓際に置いた桃に、日差しが当たっている。薄く色づくそれが特別に甘いことなど、ここにきてから十二分にわかっている。そのはずなのに、タイランは食べたいとも思わなかった。  これをあげるから、あっちに行ってなさい。タイランの記憶から浮かび上がってきたのは、幼い頃に両親から言われた言葉だ。確か、あの時も桃を渡された。  守城として、九魄に選ばれたヤンレイに教育を受けさせるためだ。きっとタイランは邪魔だったのだろう。一人で食べた桃の味は、今でも覚えている。 「少し、似てるな」  寂寥感は、声に滲んでいた。無意識だとはいえ、タイランはドウメキを怒らせてしまった。  こんな時に限って、記憶が蘇ることはない。いつもそうだ、タイランは何もわからないだろうからと、望んでもいない気の使われ方をする。  疎外感というのは、打ち解けたと思えば尚更に強く感じるものだ。ドウメキを怒らせたのは、間違いなくタイランである。  何も知らないままでいるのは、きっとよくはないだろう。  琥珀の瞳が、シノワズリの施された木製の扉へと向けられる。  複雑で美しい格子模様を前に、牢屋のようだと思っていたこともすっかりと忘れているほど、タイランは珠幻城に馴染んでしまった。 「ここが俺の家というなら、気を使わなくてもいいのだな……」  タイランから声をかける勇気がないままに、行動を起こすのは不義理だろうか。それでも、今の己にできることといえば、記憶を取り戻すことくらいしか浮かばなかった。  書庫に行けば、何かわかるだろうか。枯山水の中庭が美しい、タイランの気に入りの場所。  初めて足を踏み入れた時から、あの場所は不思議と馴染んだ。  だからこそ、そこに行けば何か手掛かりが得られるのではないかと思ったのだ。  部屋を出る。雷紋模様にくり抜かれた見事な装飾が、天井を囲むように施されている。吉祥模様がいくつも飾られた城の中は、広くて静かだ。  与えられた自室から、中庭を挟むようにして反対側にある書庫へ向かうべく、タイランは黒く磨かれた床を踏み締める。  部屋と同じ格子模様が施された窓が、等間隔で連なる。窓枠を額縁のように見立て、様々な角度から目にする中庭の景色は実に美しかった。  二つの角を曲がり、たどり着いた書庫。古紙の匂いが心地よく、タイランは扉に触れたまま、ほうと息をついた。 (好きだな、この場所)  静かな音を立てて、扉が閉まる。引き寄せられるように歩みを進めたのは、窓際の本棚だ。  タイランの右側には、大理石で作られているのだろう小上がりに、大きな花瓶が置かれていた。  天井から垂れ下がった雲鶴模様が描かれた布が、飾られた大輪の花に色味を足している。  白く、大きな花弁を持つ花の名を知らない。しかし、その芳醇な香りは柔らかに書庫を包み込んでいた。  何かを祀るようにも見える一角には、香炉があった。小上がりの奥、布に守られるようにして置かれていた白い陶磁器には、地梅樹模様が青く描かれている。 「あれは……」  琥珀の瞳がそれを映した瞬間、じんわりとした熱がタイランの後頭部に浸食した。 「ぅ、……っ……」  また、記憶が戻るのか。  この瞬間が、苦手だ。タイランは、不快感を堪えるように眉を寄せると、壁を支えに小上がりへと腰を落ち着けた。  少しだけ、気持ちが悪い。タイランの薄い手のひらは、大理石の表面を確かめるようにして這わされる。楽な姿勢をとりたかった。冷たいそこに頬を合わせるようにして横たわると、タイランは聞こえてきた雨音のような耳鳴りに身を任せる。  怖い、一人でいたくない。俺がそばにいると言った、ドウメキが隣にいないのだ。  タイランの手が、天井から垂れる布端に触れた。目を瞑り、思い出すのは猩々緋の羽織だ。指先が記憶している、ドウメキの衣服の感触を思い出そうと必死だった。 ーーこの香炉は、お前をしまい込むものだ。 「は、……」  ドウメキの声が、タイランの鼓膜を震わせる。整った(かんばせ)に、白い手のひらがそっと触れた。 ーー妖魔の考えることは怖いな。  タイランによく似た声が、ドウメキの言い様に笑う。  夕暮れの赤い光が、格子窓の影を床に焼き付ける。色味を濃くした書庫の床を撫でるように、白い深衣の裾が擦れた。  力強く、大きな手のひらが腰に回される。帯の上からでもわかる力の強さで、体の距離を縮めるように引き寄せられる。  ドウメキの香りを近くに感じた。安心を覚える距離は、それだけドウメキに心を許していると言うことだろう。 ーーこれは、お前の骨壷だ。 「っぁ、……!」  どくり、と心臓が跳ねる。胸の苦しい感覚が、守城のものなのか、己のものなのかがわからなかった。  記憶と現実の境目が曖昧だ。夢を見ているような微睡みに身を任せる体は、耳朶をくすぐるドウメキの声を素直に体に染み込ませる。 (こつ、つぼ……) ーーこんな狭い中に俺を閉じ込めておくつもりか ーーどこにも行くな守城。お前はこの城で、心穏やかに生きればいい。  ドウメキの手のひらが、そっと守城の手を握り締める。あの桃の木の下で感じた手のひらの温度と同じだった。薄い手のひらの薬指を、細い火炎がぐるりと一周した。ドウメキの執着を感じるその妖力は、熱を伴わない炎を金環に変える。 ーー粋なことをする。  白い指先の根本に飾られた金色がぴたりと嵌り、守城の薄い手のひらは震えを抑えるかのように握り込まれた。  黒髪に隠れて、表情は見えなかった。それでも、縋るようにドウメキの厚い胸板へと額を寄せる姿は、口にできぬ思いに胸を焼かれているようにも見えた。  視界が、猩々緋の赤で染まる。ドウメキによって抱きすくめられたのだ。  行き場のない守城の手は、ドウメキの輪郭を確かめるかのように背に回された。ゆるゆると握り締めたドウメキの生地の感触が、守城の胸中を代弁しているかのようだった。 (苦しい、なんだこれ、感情が流れ込んでくる……) ーーなんでお前なんだ ーー俺だからだ、ドウメキ  ドウメキの腕の拘束は、わずかに緩められた。高い位置にある顔を見上げれば、紅色の瞳は守城へ向けられていた。  視界が霞む、もしかしたら、泣いているのかもしれない。ドウメキの瞳の奥に映る守城を確かめたくて、真っ直ぐに見つめた。  鼻先が触れ合う距離だ。唇を、互いの呼気が撫でる。大きな手のひらが、長い髪に指を通すようにして後頭部に回った。  頭を傾けるように重なった唇の感触は、少しだけ濡れていた。 (もっと、……)  胸が痛い。まるで、水面を求めて泳ぐ魚のような心地だ。苦しくて、息ができない。  喘ぐような呼吸音がタイランのものだと認識すると、意識は深く落ちるようにして景色を変えた。 ーー山主。  その声は、反響音を伴って聞こえてきた。守城の声だ。深い山の奥、大岩で閉ざされた岩屋戸を前にして、守城は一人で立っていた。  僅かな隙間から滲む、重だるい空気。穴を塞ぐ大岩を押し退けようとして、内側から圧力をかけているのだろう。  太いしめ縄が巻かれた大岩は、時折揺れる地面に合わせるように、紙垂(しで)を震わせていた。 ーー苦しいな、山主。  白い手のひらが、大岩に触れる。  ざらつく表面を労るように撫でると、そっと額を寄せる。何かを祈るようにも、悔いるようにも見える守城の姿は、タイランの記憶に焼き付いて離れそうにない。 (なんだこれ、この、感覚は……)  手のひらから伝わるのは、山主の感情だろうか。これは、深い悲しみだ。苦しい、寂しい、ここは嫌だ、もう独りはいやだ。  幼子が啜り泣くような、そんな哀感が伝わってくる。 ーー俺の巫力では、お前の痛みを軽減してやることしかできない。 (なんだ、なにをいっているんだ……) ーー必ず助けてやる。俺が、お前をそこから出してやるからな。 (まて、どういう……)  タイランの意識は、吸い寄せられるように引き込まれた。暗く、狭いここは、岩屋戸の中だろうか。  不明瞭な視界の中でも感じる。眼の前にいるのは、山主と呼ばれた紅い瞳をした祟り神だ。  呪いが、螺旋を描くようにして纏わりついている。思わずタイランが手をついた壁には、夥しい程の文字が刻まれていた。 ーー今は、十三。俺が、十四つめの禊だ。  守城の声が聞こえた。その瞬間、タイランの背後の岩は大きな音を立てて破壊された。  慌てて振り向く。岩屋戸の出口に光が差していた。タイランの眼の前には、毛を逆立てて威嚇する喰録が、守城を守ろうと羽根を広げていた。  顔が見えない。一歩踏み出し確かめようとした瞬間、タイランの体を飲み込むようにして背後から獣の口が現れた。  黒く染まる視界、振り向けば、かすかに見えた獣の喉奥に、杭が刺さっていた。 ーー喰録、散。 ーーいやだ、守城……‼︎  喰録は、悲鳴と共に黒く大きな体を消していた。巻き添えにしないように、守城が守ったのは歴然であった。  黒い砂嵐のようなものが巻き起こる。丸く切り取られた光の出口に一人佇む守城の姿を、遮るかのように吹き荒れた。  意思を持ったような黒い影が千切れるように蠢く。わずかな隙間から見えた守城の姿は、タイランによく似ていた。 (え……) ーーその杭を抜け。あとは任せた。 (まって、まってくれ!) ーーお前が、最後の俺だ  守城は、柔らかく微笑んだ。向けられた言葉は、タイランがここにいるのを知っているような口ぶりだった。  岩屋戸の壁中に描かれていた文字が、壁を覆う虫のように蠢く。それらは唐突に動きを止めたかと思うと、空気を貫く鎖のように守城へ向かって素早く伸びる。  守城は、受け入れるかのように両手を広げた。白い手のひら、薬指に光る金環がチカリと光ったことに気がつくと、タイランは目を見開いた。  (ダメだ、待ってくれ。任せるって、どういう)  タイランの内側から膨らんだ感情。それは、張り裂けそうな思いだった。  これは、守城が押し殺した感情だ。苦しい思いは涙となってタイランの瞳からボロボロと溢れていく。  指輪を贈られ、心が震えたこと。気持ちを通わせてなお、遠ざけなければいけなかった想い。  繰り返す後悔、残して逝くドウメキへの、強い無念。  苦しい、苦しくて、痛い。泣き叫びたいだろう心を押し殺して、守城は微笑んでいるのか。  生きながらえる努力は許されない、強い呪いに殺されることを理解してもなお、凪いだ瞳で受け入れる。  守城は、微笑む。到底間に合わないのを自覚しているくせに、タイランは必死で手を伸ばした。  守城の体を縛る文字の一文、それは祝詞のようだった。本来なら、神へと捧げられるべきそれが、守城の体から自由を奪う。  タイランの体が、思考が深い闇に飲み込まれていく。背後から迫る大顎が、やめろと叫ぶタイランの声を遮るように守城の体へと牙を向ける。  山主の悲鳴のようなものが響いた気がした。暗闇の中、稲妻のような光が走ると、タイランの意識は夢から覚めるように引き上げられた。 「……ふ、……っ」  気がつけば、睫毛は濡れていた。どうやら涙を流していたらしい。冷たい大理石に額を押し付けるようにして蹲る。  手のひらが震えていた。喰録なら、何か知っているのだろうか。彷徨う手が、記憶を辿るように小さな骨壷へと伸ばされたその時。  タイランの手のひらは掬われるように、大きな手によって握り締められた。

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