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4、さよなら

 晴兄は俺にキスをすると、安心し切った顔で眠りについた。  涙や鼻水でぐちゃぐちゃだった晴兄の顔を綺麗にすると、教室で再会した時より顔色が良くなっていた。あの時は気付かなかったけど、やっぱり相当身体は辛かったんだろう。なのに気丈に振る舞って、すごい精神力だ。  起きたら晴兄はきっと俺を軽蔑するのだろう。強引にCommand(コマンド)を使って無理やり聞き出して、代わりにSub Space(サブスペース)に自分が入ったことなんて覚えてないんだろうな。 「本能では俺と同じだったんでしょ、晴兄。なのに俺が壊しちゃったね。もうこれで本能からも俺を嫌いになれるよ…俺に流されることもない」 ――さよなら、晴兄…  俺は晴兄を綺麗にして、机の上に寝かせた。そして1人教室を後にした。  これから俺は普通に学校に通ってもいいのだろうか。  晴兄は俺のクラスの副担だ。会う回数はきっと他の先生より多い。一体どんな顔して会えばいいのかわからない。  それに、軽蔑の目を晴兄から向けられたら、きっと心臓が張り裂けるくらい辛い。  いっそのこと別の学校に転校もありなのだろうか。だけどこんな中途半端な時期に転校したいなんて、母さんは心配するだろうな。  それでも俺は近くにいない方が、晴兄にとっても俺にとってもいいだろう。  きっと俺は欲望のまま晴兄を求めてしまう。それくらい好きなんだ。引きつけられるんだ。  8年も拗らせた恋だ。そう簡単に忘れらるほど俺はできた人間じゃない。 「ほんと、なんでこんなことしちゃったんだろ…」  俺は天を仰ぎながら、重たい脚を引きずって教室に戻った。  今日は始業式のみで、教室には誰も残っていなかった。今年受験の3年の教室なんてこんなものだ。  俺の気を紛らわせてくれる友も残っていなければ、ぽっかりと空いた心を擬似的にでも埋めてくれるSub(サブ)もいない。いるはずがない。  校庭から聞こえてくる運動部の声だけが鳴り響く教室で、俺は自分の席に座って虚空を見つめた。  ただぼーっとこれからどうしたものかと考えていると、扉の開く音が聞こえた。  その音にハッとして扉の方を見ると、夕方の光に照らされた晴兄がこちらを見つめて立っていた。  その姿は、光の中から現れたように夕陽と同化していて、とても幻想的だった。照らされた白い頬が少し赤らんでいて、伏せ目がちに何処かを見つめる顔はとても優艶(ゆうえん)だった。  吸い込まれそうなその姿にうっかり俺は見惚れてしまい、何を言うでもなく佇んだ。 「帰らないのか」 唐突になり響く心地良い晴兄の声。その声で俺は我に返った。  まさか話しかけてくるなんて、思いもよらなかったからだ。たった一言、教師として残っている生徒に声をかけただけの、それだけの一言に、俺の心は張り裂けそうなほど締め付けられた。 「今、帰るところです…」 「…そうか」 「先生、さよなら」 「あぁ」 ――これで、本当に「さよなら」だ。 俺は晴兄が立つ扉とは反対の扉から飛び出し、無我夢中で走った。  いつ下駄箱について、どうやって靴を履き替えたのか、どこに走って行こうとしたのか、何も思い出せないくらいには必死だった。  そうして走っているうちに日が暮れて、辺りが暗くなった頃、俺は近くの山の中にいた。ここは俺がよく1人になりたい時に来ていた山だ。  晴兄が教えてくれた秘密の場所。あの頃はまだ晴兄と2人で来ていた。晴兄がいなくなってからは俺1人の場所だった。  この思い出の山は、夜は星が綺麗で、天体観測にはもってこいの場所だ。だから夏休みの晴れた夜に晴兄がたまに連れてきてくれた。俺の、大切な場所。  今日も晴れた日の夜、星は綺麗に瞬いていたはずだ。だけど俺にはその星が見えなかった。  夜空に星が滲んで、まるで輝きを失ったかのように暗く溶け込んで見えた。

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