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7 気にかけ始めた君のこと2

「新しいテキストを渡して三日でやらせるか……」  昔自分が使っていたテキストがあったはずだ。杉山から貰って悠人はそれを三日で解いた。勉強するのが面白くて、その間は他のことを考えなくていいからと、当時は夢中になって解き続けてきた。医師たちが面白がって代わる代わる勉強を教えてくれたおかげで、基礎は充分なくらいある。しかもそれを小学生の間に嫌というほど身に着けさせられた。医師たちが皆、口を揃えて言ったのだ、基礎は大事だと。特にこんな大病院の医師になるために努力した一代医師たちは青春をなげうって勉強をし続けてきたせいか、病院に住んでいるような悠人を相手に面白おかしく勉強を教えてくれた。分からないところがあればすぐに解答を言うのには辟易するが、それでも悠人には楽しい時間だった。他の子供たちは勉強を嫌いすぐに投げ出していたが、むしろ悠人はのめり込んだ。分かれば面白いし、解ければ達成感が募る。それを続けたらいつの間にか高校までの勉強は終わり、次はと入試問題をやらされたが、その頃になって悠人はどこか虚しさを感じ始めた。  小学校も中学校もまともに通えなかったことが、自分の中で少しのわだかまりになっていた。これ以上家族にお金を掛けさせたくないと思っていたが、兄に背中を押されて高校へと入った。  病院にはない若いエネルギーに満たされた空間は、悠人を落ち着かなくさせた。  同じ年代が集まっているのに、自分が知っているのとはまるで違う世界がそこに広がっていて、休み時間になれば甲高い笑いが起こり、授業中でも静かな時間などない。雑踏の中に一日中いるような、圧倒する人々の生命力に、自分はその輪の中に入ることができなかった。初めの頃は何人か声をかけてくれたが、それにどう答えていいのか分からなくて黙っていたら次第に自分の周囲から人はいなくなり、やはり自分は異質なのだと実感させられた。  けれど生きているのが当たり前な彼らの熱気を傍で感じるのは嫌ではなかった。  頑張って一年何とか通い続けたが、無理がたたったのか高熱を出したまま、救急搬送されてしまった。発熱だけでも遥人には命取りだ。血圧は上がるし心拍数も上がってしまう。それが心臓の負担になり、悠人から体力だけでなく生命力までも奪うのだ。発熱すればすぐにこの病院に運び込まれるのがルールになっていて、熱が一定以上になって一日経過した段階で救急車を呼ばれそのまま入院となってしまった。当たり前のように点滴針を刺されてベッドに磔にされている。  できるならもう一度学校に通ってみたい。ずっと一人でいて傍観しかできなかったが、それでも自分が健康な人間の一人になれたような気がした。 「中西はいいな」  学校にいることに疑問も抱かず、ひたすらまっすぐに突き進めるだけの時間を有しているのが羨ましい。  嫌な部分もあったが、悠人にとって学校は不思議と居心地の良い空間だった。本を読んでばかりの自分でも『いて当たり前』と思われているのが、どうしようもなく心地よい。友達などいなかったが、それでも普通の子供になれたような気がした。  勉強がしたくて、いい大学に入りたくて頑張っている学生からしたら、憤慨ものの考えだろう。  だが子供らしい生活を送ったことがない悠人は渇仰してしまう。 『お前なんか生まれてこなければよかったのにな』  自分に向けられた言葉が思考を遮った。 「多くを望むなってことか」  自分の気持ちなど、この身体がままならないうちは何も求めるなと自分を戒める。  それよりも、怪我が治り学校生活を送らなければならない中西のことを優先させよう。少なくとも三ヶ月でできるだけ中学の勉強をマスターさせなければ。 「……あの調子なら大丈夫か?」  妙に食いついて離れようとしない。ずっとスポーツに打ち込んだだけあって集中力は並々ならぬものがある。分かるまでに時間はかかるが、一度理解したら飲み込んで同じ失敗をしなくなる。家庭教師などを付けたらすぐに学力は上がるだろう。本人が自分の能力に無自覚ではあるが。 「はぁ……」  悠人は読んでいた本を閉じ、中西との夜の勉強時間のために今日教える予定の部分を確認するためにテキストを取り出し、一通りさらって行く。 「変な名前を付けるから難しく思うんだろうな」  独り言が最近増えたような気がする。自分では当たり前のことでも、中西を通して見ると別のものになるのだから不思議だ。どうしたらこんな問題ができないのかと初めは理解できなかったが、「なぜ」を必死に伝えてくるため次第と分かってきた。名称が複雑すぎるのだ。それだけで中西は委縮してしまうらしい。数学や科学で用いる公式なども名前が妙に仰々しいせいでハードルの高いことをやらされている気持になる。  一から説明すれば初めは恐る恐るといった風に取り組むが、難問も続けざまにやればすぐに飲み込むのは感嘆に値する。 「ついでにbe動詞の過去形も付け加えておくか。せめて『不思議の国のアリス』が訳せるくらいにはさせないと」  それすらも中西が聞けば「むりだぁぁぁぁ」と叫ぶだろうことは容易に予測できるが、たいして難しい内容ではないと思い込んでいる悠人の定めるハードルは無駄に高い。高すぎて他の人間が飛び越えられないことが分からないでいるが、それに中西が必死に食らいついてくるので自覚できないでいる。  中西が出て行って随分経ってからノックの音がした。 「はい」 「悠人くん、調子はどう?」  入ってきたのは杉山だ。いつものように看護師の市川がパソコンを乗せた台を持って後に続く。 「検温しようか」  午後のこの時間に巡回はめったにない。なぜなら午後は見舞客が訪ねてくるため、医師はその家族への説明に追われたりしているからだ。久しぶりに暇になったのだろうかと深く考えもせず、いつものように体温計を腋に当てながら服の前を寛げていく。大小の傷跡が残る胸を晒し、聴診器が当たるのを待つ。  心音を聞きながら相変わらず杉山はいつも無表情だ。体調が悪いのかそれとも良いのかを、患者に知られないようにしているとしか思えないほど表情を変えない。その間に鳴った体温計を市川が回収し、いつものように血圧計を腕に巻いてくる。同時に血中酸素量も図り始める。  変わらないそつのない動きにもう慣れ切った悠人は気にもせず、いつものルーティンとばかりにじっとしている。 「うん、最近調子がいいね」  よっぽど体調が悪くない限りはいつも口にする言葉を軽くスルーする。 「……退院できるんですか?」 「それは血圧を見ないとね」  淡々とこなす作業に、退院はしばらく無理だろうと確信する。本当に調子が良ければ、杉山はともかく市川はもっと表情が明るいだろう。 (今度こそ、無理かも)  入院して医師や看護師の反応が微妙になるたびに覚悟する。  今回で退院できずこのまま死ぬのだろうか。入院するたびにいつも覚悟をしているが、今回は少しだけ欲が出る。  もう一度学校に通ってみたい。普通の学生に戻りたい。 「入院当初よりは落ち着いてるけど、まだ熱が下がらないね。もう少し様子を見ようか」  パソコンに入力されたデータを見るために背中を向けた杉山は、振り返るといつもの笑顔でそう答えた。 「わかりました」  まともに通えなかった小中学校時代を思い出して気持ちが落ち込む。そんな悠人の手元にある中学生向け英語のテキストを見た杉山は、ニヤリと面白いものを見つけた子供のような表情になった。 「なんだ、中西君はまだ一年生の英語か」 「はい……なんか難しいらしいです。動詞とか言われると混乱するみたいで」 「なるほどね、悠人くんはそういうところがなくてつまらなかったなぁ」  率先して難しい問題を教えていた杉山は、懐かしい記憶を蘇らせているようでニヤニヤしている。 「つまらなくてすみません」 「本当につまらなかった。泣きそうになって助けを求めてくれるかと思ったら、次の日には完璧な回答がサイドテーブルに置いてあるからつまらなくてしょうがなかったよ。本当に可愛げがなかった」  そんな杉山に釣られるかのように次から次へと他科の医師も問題を出すからだとは口にせず、「つまらなくてすみません」と一応心にもない謝罪を口にしてみる。 「なら中西の面倒を医師が……」 「あ、ダメダメ。中西君じゃつまらない。それに、僕の問題に答えられると思えないし」 「あいつなら絶対に先生に泣きついてきますよ」 「見た目が可愛くないから嫌なんだよなぁ」  なんだその返答は。 「僕ももう高校生ですよ、中西と変わりませんが」 「悠人くんは昔は可愛かったからなぁ。女の子みたいな顔してめちゃくちゃ気が強くて負けず嫌いなところがいいんだよ」  そういう子を苛めるのが楽しいんだと、いらない言葉を残して部屋を出ていく。後を追う市川が必死で笑いを堪えているのがまた皮肉だ。背は平均よりも低いしひょろひょろの体型ではあるが、子供のころに比べればずっと男の顔になっているはずだ。入院気でうろついても女子と見間違えられることはないと自負している。 「はぁ、好き勝手言って……」  確かに小学生まではよく女の子と間違えられたことを思い出してふつふつと怒りが湧く。  この怒りを鎮めるためにも、中西に難しい問題を解かせようと難問をひねり出してはノートに記載していった。  それが僅かに芽生え始めた活力だとも気付かずに。

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