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13 九月にも来る君1

 だが意外なことに、九月半ばになっても、中西は毎日のように悠人の病室へとやってきた。学校の帰りには必ず病室に寄って、今日あった出来事と一緒に問題集を開き、休日には面会開始時間すぐに飛び込んできた。中西専用の椅子が置かれるようになり、彼も当たり前に座った。勉強など走り高跳びを始めてから全然していないと言っていたが、飲み込みが早くなった分、効率が上がり覚えも早くなった。 「ここにある公式を全部丸暗記すれば良いんだな」  前日に悠人が作った公式一覧を受け取っても、以前のように嫌そうな顔をしなくなった。むしろ予定よりも早く勉強が進んでいることを毎回のように確認される。どうやら家でも勉強をしているのか、悠人が教えるよりも先に問題が解かれていることもあるし、分からないところがマークされ、そこを教えて欲しいと言ってくるようになった。 「そうだ。それと一年の時に選択していた科目もこれから始めるぞ。何を選択した?」 「えっと日本史とよく分からないけど名前が格好いいから倫理を……」 「なんで日本史を選んだんだ?」 「あー……カタカナの名前が苦手だし、覚えること多そうだったから……だめだった?」 「……問題ない。その二つの教科書を徹底的に暗記しろ」  どうやら暗記は得意なようで、ニヤニヤした顔で頷いている。それを見れている悠人までなぜか元気になるのが不思議だ。病院という環境から抜け出したのに、変わらずやってきては病室を賑やかす煩い存在のはずなのに、中西といるのは心地良い。隣で悠人がどんな本を読んでいても必死に勉強するし、質問内容も徐々にレベルアップしている。このままいけば本当に学期末テストでそれなりの点数を叩き出しそうな雰囲気だ。  元々部活動で取られていた体力と時間を自由に使えるようになったからかもしれない。それに、ずっと部活で養われた集中力もある分、要領さえ分かれば苦にならないのだろう。  徐々にペースアップし、この調子でいけば本当に悠人が描いたスケジュールよりも早く高校一年の勉強が終わりそうだ。 「これを覚えて、あとは……」 「そういえばお前、国語は大丈夫なのか?」 「ああ、うん。漢字の書き間違いが減ったら80点取れるくらいにはなったから」  意外だった。  国語が一番苦手そうな印象だったのに……。そういえば以前は源氏物語について自分なりの解釈を述べていたことを思い出す。女性が好みそうな古典文学なのに、中西は実際に目を通したような雰囲気だ。それだけではない、かつて悠人が読んでいた本の感想なども言うことがあった。 (見た目と違って本を読んでいるのか)  活字離れが問題視されている中で、中西も漫画などを好んで読んでいると勝手に型にはめていたのは悠人だ。彼がどんな本を読んだかなど訊ねようともしなかった。どうせ知らないだろうと高を括って。 「……お前、本は読んでいるのか?」 「井ノ上ほどじゃないかけど、ちょっと、な。最近やっと枕草子が読めるようになった」  ニカッと屈託のない笑顔をこちらに向ける。それが窓から覗く太陽と相まって眩しく感じる。 「読むのは好きなのか?」 「物語系だけだけどね。夏目漱石は全部読んだけど、同じ時代の作家でも苦手なのが多いかな」 「夏目漱石は読みやすいからな……そうか、好きなのか。どの話が一番好きなんだ?」 「やっぱり『坊っちゃん』かな」  破天荒な主人公が地方の学校に赴任して大暴れする話がよみがえる。 「らしいな」  主人公の真っ直ぐさが中西に重なる。なるほどと思いながら、同じ時代でも自分はやはり陰のある文学の方に心が落ち着く。きっとその違いだろう。生命力の溢れる中西と消極的な生を続けている自分とでは真逆だ。なのに、なぜこんなに一緒にいて心地良いのだろうか。  無駄口は多いし、クラスメイトの話を急にし出したりととにかく喧しいのに、嫌に感じないのは。  本当に不思議な男だと感心しながら、ほんの少し意地悪な気持ちが働く。 「本を読むんだったら、『大鏡』と『平家物語』と『吾妻鏡』も原文で読んでおけ。それで平安末期から鎌倉時代までが覚えられる」 「え、なに? おーかがみ? へいけものがたりと、あずまかがみ……を読めば良いの?」  必死にひらがなでメモをしていく。一つも漢字で書かれないのが本当に中西らしい。  その三作を読めば古文と歴史の勉強が一気に済むだろう。多少の誇張はあるが、歴史の教科書を丸暗記するよりも人間関係や事柄がわかりやすい。 (この手がいければ、難関な近代史も物語で読ませれば良い)  なにせ近代史を取り扱った小説には事欠かない。幕末から戦後までの小説は、感情移入できるようにドラマティックに描かれていることが多い。古文のように事実だけが淡々と書かれているものよりも中西の性には合っているかも知れない。近代史は兄の秀人が得意としているので、役立つものを教えて貰おうと頭の中でメモをしていく。 「これ、図書館で借りられる?」 「多分あるはずだ。原文の横に現代語訳が付いているのがあればわかりやすいだろう」 「ありがとう、井ノ上! 俺頑張って読むな!!」  ああ、これだ。普通なら無理だとか現代語で良いだろうというところを、思い切りの笑顔で礼を言ってくる。それがこちらの邪気を削がしては、いたたまれない気持ちにさせるのだ。ほんの少しの意地悪を交えている分だけ、どうしようもない罪悪感を植え付けられる。なんせ中西は悠人に邪気があるなんてちっとも考えたこともないだろう。 (なんだよ、この全幅の信頼……どうしてそこまで信用するんだ)  中西が真っ直ぐな気持ちを向けてくればそれだけ、罪悪感にさいなまれては、歪んでしまってる自分が少しずつ道を正されていくような気がする。 「そういえば、あいつらはどうなった?」 「……あいつらって?」 「陸上部の奴らだ」  結局、杉山と兄が学校にクレームを入れたそうだ。大人として彼らの行動が許せなかったらしい。だが、その後の話は聞いていない。 「ああ、あいつらね。そういや最近見かけないな……グラウンドにもいなかったかも」 「そうか……」  学校が早々と退学させることはないから、謹慎処分か、引きこもっているのか。 「そうか」  その一言で悠人は一気に彼らへの興味をなくした。  同時に、元チームメイトへの関心が全くない中西への興味が増えていく。  大切だった走り高跳びを失ったというのに、気持ちの切り替えが早いのか、未練がなさそうだ。思ったよりもタフな精神なのだろうか。  意地悪な心が芽生える。 「未練はないのか、走り高跳びに」  それを静かに問いかける。 「うん……ないっていったら嘘だけど、頑張っても飛べないからな。空を見るだけで満足しようと思ってる」  そう言いながら真剣に問題集に向き合っている。珍しくシャープペンシルがすらすらと動いている。話しているのに集中力は途切れないようだ。 (意地悪をしてしまったな……少し静かにしておくか)

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