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4 ラブホと安西

 たった今安西に暴露した通り、俺は正真正銘の童貞だ。  でも、これまで交際歴がないかというとそんなことはない。高校生の時に一度、それと大学生の時にも一度、長くはないけど彼女がいたことはあった。  だけど、経験はゼロ。原因は――俺の中に今もどっしりと構える親父の教えのせいだった。  俺の親父は、所謂厳格な昭和な人だった。貞淑な妻が朝食を食卓に並べている間、眉間に皺を寄せて新聞紙を読んでいるイメージって言えば伝わるだろうか。家では基本無口で、だけど部下は慕ってくれていてよく家にお呼ばれとかされてた。母親と俺は呼ばれたことはなかったけど。  統括部長の地位まで上り詰めて、定年退職して。だけど古くて固い考えの持ち主だったせいかは知らないけど、再雇用制度で雇用されず、家の中で燻るようになってしまった。最初はあれこれと趣味を広げようとしていたけど、どれも長続きせず。  ある日、海釣りに行ってくると出掛けた後、戻ってこなかった。釣り竿は家に置いてあるままだった。海に浮かんでいた遺体は、その日の夜に見つかった。  そんな親父に、よく言われていたこと。「女性の方とお付き合いする時は、一生責任を負う心構えでいろ。その覚悟がないのなら付き合うな」とか、「他所様のお嬢様と結婚の約束もなしに男女の仲になるなどけしからん」とかだ。 「俺は母さんとは見合い結婚だったが、きちんと手順を踏んだ」と言われてしまえば、いくら時代に即してないと分かってはいても、逆らえなかった。結果、好きな人ができても躊躇してしまい、自分からの告白はゼロ。相手から告白してもらって付き合うことになっても、せいぜいがキス止まり。  その先も、と貪欲に望まれても、親父にバレた途端冷たい目で勘当されるんじゃないかと思ったら、できなかった。その代わりに「結婚を前提に」と伝えたら、ふたりともに逃げられた。そりゃまあそうだろう。学生の身分で結婚を言い出す男なんて、どう考えたって重すぎる。 「――て感じでさ。親父はもう故人だけど、童貞は捨てたいけど結婚前にそういうことをって考えただけで罪悪感が凄くて」  これまで誰にも話していなかった秘密を吐露すると、安西が涙目になって俺を抱き締めてきた。 「ほまちゃん可哀想……!」 「安西、ありがと」  眉毛を垂らしながら小さく笑うと、安西が「うーん」と唸り始める。 「でもだったらさ、手っ取り早く風俗で、とか考えなかったの?」 「だってさ、それって知らない相手じゃないか! 俺、知らない相手となんて絶対無理だって!」  絶対緊張して勃たない自信があった。いや、無理。絶対無理。  ぶるぶると首を横に振っていると、安西が人を憐れむような眼差しで見てきた。微妙に腹が立つ顔だな。 「……ほまちゃんって人間関係の調整が得意な割に、その辺繊細だよなあ」 「俺は人との衝突がストレスだからよく観察してバランス取ってるだけで、別に人付き合いが得意な訳じゃないよ」  なるほどなあ、と呟いていた安西が、「あ」と俺の耳に口を近付けてくる。 「な、なんだよ」 「ほまちゃん、俺って知らない人じゃないよ」 「は? 何を当たり前なことを――」  さっきから完全に絡み酒になってるので、安西との距離を置くべく俺の肩に回された安西の手を振り解こうとすると。  安西が言った。 「だからさ、逆に考えるんだよ。俺、他所様のお嬢様じゃないし、知らない人でもないよ? だったら罪悪感もないんじゃないか?」 「は……」  こいつまだ言ってるのか、と目を見開いて安西を見た。  安西が、やっぱりまだ潤んだ瞳で懇願してくる。 「なあ、頼むよほまちゃんー! 俺を助けると思って! 一生のお願い! ほまちゃんってがっつり男って感じでもないから、俺はほまちゃんなら大丈夫だから、なっ!」  なっ! じゃねえ。俺は大丈夫じゃないんだよ。しかもさり気なく「がっつり男って感じでもない」って、人が気にしていることを! 「いやだよ! 無理だって!」  だけど、安西は引かなかった。 「うんって言うまで離さないから!」 「ええ……嘘だろ……勘弁してくれよ」  がっちりと安西にしがみつかれて、俺は愕然とするしかなかった。 ◇  いくら時間が経過しても、仲のいい男の同僚のケツに突っ込む気にはどうしたってなれない。  そこで俺が取った作戦は、「がぶ飲みして酔っ払い、『飲みすぎて勃たない』と言って断る作戦」だった。  安西はそこそこ酔っ払っているので今はこんなアホなことを提案してきてるけど、酒が抜ければ確実に後悔するのは明白だ。振られたばかりで錯乱してるだけだから、明日になれば同僚のブツをケツに収めたら女心が分かるなんていう馬鹿げた考えはすぐに消える筈。  つまり、今夜さえ乗り切ればお互いダメージは少なくて済む筈だ。 「ほまちゃん、飲み過ぎじゃない? お会計済ませておいたよ」 「うえ……? 安西がやってくれたの……? ありがとお」  泥酔一歩手前まで酔っ払った俺は、すでにまっすぐ立てないでいた。うん、とってもいい感じだ。  安西が俺の脇を抱えながら、続ける。 「二次会の場所は高井に伝えておいたから、向かうふりして抜けようぜ。お会計と忘れ物チェックしてから向かうから遅くなるって言ってあるし」 「ふえ……?」  何を言ってるのかよく分からなくて隣の安西を見上げると、安西が照れくさそうに笑った。 「……ほまちゃんが何だか可愛く見えてきたかも」 「かわい……? 目、だいじょぶ……?」 「舌っ足らずになっちゃってるし! さ、行こうか!」 「どこに……俺、二次か、」  エレベーターの前まで来ると、安西が耳元に息を吹きかけながら小声で言う。 「決まってんじゃん。ラブホだろ」  こいつ、やっぱりまだ諦めてなかったのか! 視界がぐらんぐらんと揺れる中、俺は必死で言葉を紡いだ。 「うえ……安西、俺無理、勃たないよお……っ!」  このベロベロな姿を見てくれたら分かるだろうというつもりで見上げると、何故か安西は俺の顔を見て舌舐めずりをしたじゃないか。  ……え? それってどういう意味? 「……俺はお前なら勃つと思う」 「へ? ごめ、意味わかんな、」 「うん、大丈夫大丈夫」  安西が何を言ってるのか、本当に分からない。頭の上にクエスチョンマークを一杯浮かべていると、ずるずると二次会の会場とは違う方向へと引っ張られていってしまった。  怪しげなネオンサインに囲まれながら、夜の町を行く。安西はミントタブレットをひとつ口に放り込むと、うっすら微笑みながら訊いてきた。 「ほまちゃんはどんな所がいい?」 「え、あの、俺二次会……」 「あ、ほまちゃんはラブホ未経験だったか。じゃあ俺が雰囲気あるところ選ぶから、安心しろって」  どうしよう、どんどん周りの景色がいかがわしい雰囲気に変わってきてる。  一体、何のスイッチが入ってしまったんだろうか。安西はわくわくしている感じを隠しもせずに、俺を半ば抱え上げながら、どんどん道の奥へと進んで行く。  揺れまくる視界の中、「休憩」とか「宿泊」とかいう字が書かれた看板がやけに眩く光っていた。 「あ、あそこなんてどうかな?」  にっこりと笑いながら俺に顔だけ向けた安西の目が、今まで一度も見たことがないほどギラついている。俺は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。  なんか絶対、このままだとヤバい気がする。ぐにゃぐにゃしながらも、俺は抵抗を試みた。その場で踏ん張ってみせたのだ。  抵抗を感じた安西が、「ん?」と俺を見る。 「ほまちゃん? どうしたんだよ」 「や、俺、入らない……っ」  ただ短く伝えただけなのに、何故か勝手に涙が滲んでくる。 「ほまちゃん、怖いの? 可愛い……」  安西の目は、完全にイッちゃってる目だった。どうしよう、このままじゃ俺――!  するとその時。 「……ぱーい!」 「ん?」 「え?」  聞き慣れた、元気な男の声が背後から響いてくる。俺と安西が同時に振り向くと、眩いネオンの中ににっこにこな笑顔でこちらに駆け寄ってくる男の姿があるじゃないか。  安堵のあまり、足元から崩れ落ちそうになった。 「安田せんぱーい!」 「え、高井、どーして、」  安西が、焦った表情に変わる。  追いついた高井が、「手伝います!」と言って安西の反対側から俺を支えてきた。高井の方が安西よりも大分上背があるからか、高井が俺を安西から取り上げた形になる。 「二次会会場で待っていても全然来ないから、迷子なのかなって思ってあちこち探したんですよ! 安田先輩に電話しても出ないし! にしてもこんなところで何をしてたんですか? 方向、正反対じゃないですか」 「え、いや、あのお……」  目線をあちこちに彷徨わせる安西を見た高井が、「あっ、安田先輩が酔っ払っちゃって休ませようとしたんですね!?」と圧強めな笑顔で安西に尋ねる。 「あ、う、うん、まあ……」  安西が明らかに挙動不審になっていると、安西のスーツのポケットに入っていたスマホが突然光って鳴り始めた。 「おわっ! びっくりしたあ……っ、て、え、チカ!? も、もしもし!?」  焦りながら電話に出る安西の背中を見て、「あ、もしかして俺、助かった……?」と気が抜けていった。

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