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19 もうひとりのアルファ

 年明け、最初の出社日。  まだ殆ど誰も来ていないオフィスは、年末年始の間は空調が止まっていたのか、シンと底冷えするほどに寒い。  第三営業部があるフロアにエレベーターが到着すると、ガラス張りのエレベーターホールに朝日が横から差し込んでいた。あまりの眩しさに、腕を翳して目を庇う。 「うーさむ」  ビル全体が温まるには、まだ少しかかりそうだ。  長い廊下を見渡しても、人影は殆ど見えない。執務エリアは手動でエアコンのスイッチを入れる仕様になっているので、もし俺が最初の出社者だったら中は相当寒いかもしれない。  エレベーターの向かい側に並ぶ自販機でホットコーヒーを買うと、「あちち」と両手で挟みながら廊下を進んでいった。  と、第一営業部の扉がいきなり開く。 「わっ」  慌てて立ち止まると、ひとりの背の高い男が俺を見て「あ、すみません!」と言ってこちらを向いた。  そのあまりにも整った顔を見て、第一営業部に入った新卒のもう一人のアルファ、(たき)だと瞬時に分かる。  朝陽と同様に身長は高いけど、こちらはもう少し薄っぺらい身体つきをしている。髪型も朝陽とは違って少し砕けた雰囲気で、ほんのり茶色のウェーブがかった前髪を後ろに流していた。  朝陽が真面目そうな大型わんこ系だとしたら、こっちのアルファはタレ目気味の甘い系――なんというかホスト系って言ったら近いかもしれない。  瀧が、俺を見て「明けましておめでとうござ――」と言いかけたと思うと、突然両手で口と鼻をパッと押さえた。 「うわっ、凄え匂い」 「え? 匂い?」  俺は日頃、香水も使ってなければ、洗濯に使う柔軟剤も無香料を使用している。朝陽の家でも洗濯はしたけど、朝陽も無香料のものを使っていた。なんでも「誉さんのことは事細かにチェックしてますから」なんだそうだ。俺は一体あいつに何をどこまで知られているんだろうか。  とにかくつまり、俺から匂いがしたとしたら、そういった化学臭ではなく、体臭――? 「嘘だろ……」  俺はまだ二十六歳の若者だぞ!? 加齢臭を出すにはまだ早すぎる! あっ、それか朝陽が遠慮して言わなかっただけで、まさかワキガだったのか俺!? いやでもあいつ、「誉さんって体毛薄いですよね」とか言いながら俺の脇の下も舐めてたのに!? 「えっ!? えっ!?」と言いながら両脇の下の匂いを交互に嗅いでいると、相変わらず口と鼻を押さえていた瀧が、一歩下がりながらも教えてくれた。 「あ、すみません! そういう匂いじゃないっす!」 「えっ、俺ワキガじゃない!? 大丈夫!?」 「大丈夫っす! てゆーか凄い濃いっすね! 年末年始ずっとイチャイチャしてた感じっすか?」 「は?」  突然何を言い出したんだ、こいつは。 お互い何となく顔は知っているとはいえ、俺たちは初会話だぞ?  同じアルファでも、朝陽とここまで違うのか。意外性に、俺は戸惑いを隠せないでいた。第一営業部のルーキーがこんなチャラくていいんだろうか。大手顧客相手だぞ? OJTは何やってんだよ。  瀧は、端整で甘めの顔に、若干呆れたような笑みを浮かべる。 「は? じゃないっすよ! えーと、第三営業部の安田さんっすよね? すっごい真面目な人な印象だったんすけど、人は見た目によらないって本当なんすねー! 新年早々、ちょー羨ましいもの見ちゃった感じっす!」 「え、いや、ごめん。本当に意味が」  さっきから瀧は何を言っているんだろうか。さっぱり分からず困り果てていると、突然瀧の表情が「ひっ」という怯えたものに変わった。 「瀧くん?」  瀧が見ているのは、俺の方だけど俺よりももっと上――俺の後ろを見ているようだ。  なんだ、と振り返ろうとした瞬間、ぽん、と俺の肩に大きな手が乗り、俺の頭の上から朝陽が顔を覗かせてにっこり笑った。 「誉さん、おはようございます。朝早いですね」 「おお、あさ――ええと、た、高井、おはよう」  真上を見上げながら、瀧に見えないように軽く睨む。「誉さん」は会社では止めろって言っておいたのに。まあ俺も一瞬「朝陽」って言いそうになったけどな。 「誉さん、どうしたんですか? 第一営業部の前なんかで立ち止まっちゃって」  朝陽は俺が睨んでもどこ吹く風で、にこにこしたまま尋ねてきた。なんだけど、どことなく圧を感じるような。 「ん? いや、丁度ドアが開いた時にぶつかりそうになってさ」 「えっ? それは危なかったですね」  すると、朝陽が冷え冷えとする笑顔を瀧に向ける。瀧は何故か更にもう一歩後ろに下がっていて、表情を引きつらせていた。こいつはさっきからどうしたんだ、本当に。 「瀧、明けましておめでとう」 「う、うっす。あけおめ……」  微笑を浮かべ続けながら、朝陽が不自然すぎる笑顔の瀧に話しかける。そうか、こいつらは同期だ。社員研修の時に一緒だったから、普通に知り合いなんだっけか。 「瀧、開ける時は気を付けてほしいな。僕の大事な先輩がもし怪我でもしたら――、」 「わっ、悪かったって!」  瀧は両手を顔の前で拝むように合わせると、俺と朝陽を交互に見比べた。恐る恐るといった体で、朝陽を見る。 「ていうか……高井、マジ?」 「なにが?」  朝陽の態度が何となく冷たいような。元々仲が対してよくないのか、それとももしかしてアルファはアルファとつるまない、とか? あんまりそういった話は聞いたことがないけど、優秀な者同士が反発し合うのはあり得るかもしれない。  瀧が、ひく、と頬を引きつらせた。 「いや、だってこれってどう考えてもお前の……」 「近付かなきゃいい話でしょ?」 「あ、はい。そうします。そうさせていただきます」 「うん、よかったよ」  朝陽のタメ口可愛いな。俺にはずっと敬語だから、ちょっと瀧が羨ましい。にしても、二人の会話の内容がよく分からない。アルファにはアルファにしか通じない会話でもあるんだろうか。 「あのさ、二人とも。さっきから何の話を、」  朝陽が、乗せたままの肩の上の手に力をぐっと込めた。 「じゃあ誉さん、行きましょうか」  そのまま背中をグイグイ押される。おい朝陽、お前はお前でどうした。 「え? 会話、もう終わりでいいのか?」 「ええ、構いませんよ。ただの同期ですし」  にっこり笑顔で返されて、何と答えていいものやらで黙っていると、第一営業部の執務室に引っ込んでしまった瀧が手を振りながら言った。 「俺も一向に構いませーん! じゃ!」 「お、おう……?」 「ほら、誉さん」  朝陽に背中を抱かれながら、第一営業部の前を通り過ぎていく。第二営業部の前に差し掛かると、隣で俺をじーっと見下ろしている朝陽に尋ねた。 「……あのさ」 「はい、なんでしょう?」 「俺って、そんなに匂いするのか? さっき凄い匂いだって言われてさ」  正直、結構ぐさっときた。だって、俺には一切自覚がなかった。だけど、もしかしてこれまでも周囲に匂いを撒き散らしていた? うわ、ショック過ぎる。  だけどそれと同時に、その割には安西も気安く肩を組んでくるし、朝陽に至っては全身舐めまくってるし? と不思議に思ってもいた。年末年始休暇の間で、朝陽に舐められていない部分はもう殆どないんじゃないかと思えるくらいあちこちしゃぶられまくった。アルファってみんなこうなんだろうか? 気になるけど、勿論誰にも聞けない。聞いたら羞恥心で死ねる自信がある。 「匂いですか? 誉さんからは凄くいい匂いがしてますよ」  何故か嬉しそうに笑っている朝陽。こいつがこういう「いたずらして隠したけど楽しくて隠しきれてない大型わんこ」みたいな顔をしている時は、怪しいんだよな。 「……朝陽?」  片眉を上げてみせると、朝陽がぺろっと舌を出した。  顔を俺の耳に近付けると、囁く。 「週末、誉さんを抱く時に教えてあげます」 「――ブッ! おまっ、ここ会社っ」 「あははっ、誉さん顔真っ赤ですよ!」  俺が拳を振り上げても、朝陽はケラケラと笑うだけだ。 「こら! からかうんじゃない!」 「誉さん、可愛いなあーもう」 「こらってば!」 「あははっ」  ――全くこいつはさ。 「……ぷはっ」 「朝一で誉さんの笑顔が見られて幸せですよ」 「またそういうことをなあ……」 「本心ですから」  すっかりこの年下の可愛い後輩アルファに振り回されてるなあ、と思いながらも、つい笑ってしまった俺だった。

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