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第7話 山の仕事

 落語会が終わると宴会だった。 仲居たちがどっと座敷に現れて、座布団を並べ直して配膳係が次々に膳を運んで来る。そこを仕切っているのは若旦那だった。  初代席亭であるご隠居は落語家達に地元客の紹介をして、ちょっとした歓談タイムである。 「あんた、柏家たっぱさんだら。仁平師匠から聞いとるに。タッパがあるで、たっぱと名付けたずら。身長は何㎝あるだかね?」 「180㎝ですが、今はたっぱではなく……」 「今は身長2m超える落語家さんもおるら」 「そうですね。仁平一門では私が一番高いんですが……」 「あら。こちらはさっき〝錦の袈裟〟をやられた方?」 「柏家たっぱさん。仁平師匠のお弟子さんだに。身長2mだっけ?」 「いえ、あの……」  はっきり言って音丸は高座以外では口下手である。宴会で酔客の間を酌して回っているうちに、完全に身長2m越えの柏家たっぱと化しているのだった。  蓮見三弦(はすみみつる)はどうしたのだろう?  あたりを見回しても姿はない。  あの寒空で谷底を見おろしていた時から何も食べていないのだろう。  食事をさせるべきだとにわかに思い立つのは、かつての世話係ならではの習性である。  立ち上がろうにも両脇を老齢の地元客に固められ落語論などを語り込まれている。ちょうど咲也が新しい酒を運んで来たので声をかけた。 「すまん、咲也。〝銀竜草の間〟にいるお客様を呼んで来てくれ。せめて食事をするように伝えてくれ」  銚子を受け取りながら囁いた。  そして傍らの客に酌をしようとしたが、 「いや、たっぱさん。お酌はこのお嬢さんの方がいいに決まっつら」  と音丸の手を遮って、老人は咲也に向かって盃を差し出すのだった。  反対側の手は女前座の背中から下に向かって撫で下ろしている。何のことはない尻に触っているのだ。 「おい、咲也! ぐずぐずするな。〝銀竜草の間〟に行って来い!」  邪険に咲也を押しやって、 「気の利かない前座で申し訳ありません。私の手ではお酒も美味しくございませんでしょうが、ここはひとつ」 「いやまあ……すまんね」 と悪びれず盃を出す老人に酒を注いだ。 「しかし落語界もえらい変わっただね。女の前座だでな。たっぱさんだって、女なんかに高座を穢されたくないだら?」 そう議論をしかける爺様は、たった今その女前座の尻を触って穢していたのだが。 音丸は大人しく「どうでしょうねえ」と微笑むばかりである。  三弦が宴会場に姿を現したのは、客の大半が引き揚げた後だった。一人ぽつんと空いている席を探して座った。目敏く近づいたのは若旦那だった。まめまめしく酒を注いだり膳の料理を説明している。師匠の孫息子は食欲はあるらしく珍しい地元の料理も臆することなく口に運んでいる。そう言えば好き嫌いのない子供だった。  安心して爺様方の話に耳を傾ければ、またしても女前座はけしからんと言いつつ、当の咲也も大師匠の逸馬と共に退席しているから「ああいう女は締まりがいい」などと下品極まりない。 ようやく三弦と二人きりになったのは会場から引き揚げる時だった。 アルコールが入ったせいか三弦はすっかり饒舌になり、音丸にべたべたまとわりついている。小学生の頃に戻ったかのようだった。 「たっぱちゃん、連絡先交換しようよ」  とスマートフォン片手に、音丸の懐に手を入れんばかりである。着物の上からも明らかな四角い膨らみを狙っているのだ。  音丸はすかさずその手を払った。このスマホにはたった今録音した逸馬師匠の〝文七元結(ぶんしちもっとい)〟が入っているのだ。 にわかに傷ついたような顔をする三弦に「電源が入っていないから」と言い訳がましく言って、電源を入れてから連絡先の交換をした。  そもそも音丸は無暗に他人に触れて欲しくない。皆と大浴場に入るのが苦手だと見抜かれているとは思わなかったが、親しさを表すために肩を組んだり抱き合ったりするのも苦手である。肌が触れ合うのはセックスだけで充分である。   確かに三弦が幼い時には手をつないだり肩を抱き寄せたりはしたが、庇護者としての意識的なふるまいだった。成人になった三弦と特に身を寄せ合いたいとは思わない。  少しばかり気まずい雰囲気のところに、浴衣姿の夫婦客が通りかかって、 「あ、さっきの落語家さん。あなた、ほらサインしてもらわなきゃ」  と妻が筆ペンとノートを差し出した。どう見てもご朱印帳である。 「よろしいんですか? こちらにサインをしても」  心配しながら〝柏家音丸〟とサインをする。  真っ赤な顔で千鳥足の夫が、 「あんた、さっきタッバとかクッパとか言ってなかったか?」 「ええ。たっぱは前座名なんです。二つ目に昇進した今は柏家音丸と申します」  などと説明を始めたのは三弦だった。  マネージャー気取りで、音丸が何年に柏家仁平に入門したか、何年に二つ目昇進したかなど、当人でさえ忘れかけているものをきちんと述べる。だが考えてもみれば、それは三弦が両親の離婚で片親になった年と、小学校を卒業した年なのだ。忘れようもないだろう。 「どうぞ、今後とも柏家音丸をご贔屓に願います」 などと夫婦連れを見送ると、改めて音丸に向き直る師匠の孫である。  音丸はと言えば、あの寝小便小僧がよくもここまで見事に育ったものだと感心しきりである。気がつけばまた身を寄せられてスマホの写真を見せつけられている。 「見てこれ。夏休みに入ってすぐに、八ヶ岳に行って撮って来たんだ」  スワイプして見せるのは山野草の写真である。大学の山野草研究会に入っているという。 「ほら、これ。銀竜草。たっぱちゃんのイメージ」  見せられたのは、陰気そうな風情の白く半透明な植物だった。 「ギンリョウソウですか」  音丸としては自分に似ていると言われても頷きかねる。微妙な顔をしているのに、三弦は構わず次々に写真をスワイプして見せる。 「この部屋は〝駒草の間〟だね。高山植物の女王って言われてるんだよ。駒草の写真もここに」  と言う三弦の目の前で、駒草の間の扉が唐突に開いた。  ゴンと派手な衝撃音が聞こえた途端に、三弦の身体が胸に飛び込んで来た。スマホがすっ飛んで床を滑って行く。 「大丈夫ですか⁉」  音丸は三弦を抱えてその顔を覗き込んだが、当人はあんぐりと口を開いてドアの向こうを見ている。  つられてそちらに目をやると、あられもない姿が廊下の壁に貼り付いていた。 〝駒草の間〟から飛び出して来た咲也が救いを求めるように壁にすがり付いているのだ。  浴衣の前がすっかりはだけて乳房も下着も丸見えである。スリッパも履かない裸足の足は小刻みに震えている。乱れた浴衣を必死で掴んで、何とか腰に留まっている帯を手で押さえている。  その状況が何なのかとっさに判断は出来なかったが、瞬時に臨戦態勢になるのが音丸の習性である。  三弦を守るべく背後に回して、ドアの中を伺っていると室内から、 「咲也ぁ! こっちに来ないかぁ! 孫弟子のくせに大師匠のいう事がきけないのかぁ⁉」  ボリュームの壊れた大音声が飛んで来た。  それは見知らぬ暴漢ではなく、よく知る酔漢であった。  楽屋でも悪酒番付上位に入る爺様である。  改めて扉に激突した三弦の額や身体に触れて、 「大丈夫ですか?」  と怪我のないことを確かめてから、咲也に向かっても同じ言葉をかけたが答えはなかった。 「こら、咲也ぁ‼ どこに行ったぁ⁉」  と部屋から出て来たのはシャツにステテコ姿の逸馬師匠だった。泥酔で顔も全身も真っ赤である。後頭部に少しばかり残った白髪が風にぱやぱや揺れているのが場違いに長閑だった。  

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