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第14話 信濃金梅と三角おにぎり

 六畳一間の小さな折り畳みテーブルに箸や取り皿や料理の皿を置く。場所が足りずに畳の上にも皿を並べる。三弦が音丸の機嫌をとるように高級芋焼酎の一升瓶とグラスも持って来るが、 「仕事前ですから。これは終わってからいただきます」  と傍らにそっと置く。  三弦はゴーヤチャンプルーから食べ始めた。旺盛な食欲で皿の物を平らげて行く。そして、 「ずっと落語のことなんか忘れてたのにさ。音丸さんに会ったらいきなり〝はたち。いたちじゃないよ〟とか言っちゃって。自分でも驚いた」  軽く笑って三角おにぎりにかぶりつくのだった。 「落研に入ったそうですね」  三弦は黙って頷いた。口中に物が入っているうちは話さない。弟子たちも師匠夫妻にそう躾けられているのだが、きちんと守れるのはこの孫息子ぐらいだろう。飲み込んでから口を開く。 「パパ……本当の父親は落語が嫌いだったみたい。僕が〝寿限無〟とか覚えて話すと不機嫌になったし。だから僕もあんまり落語のこととか言わなくなったのに」 「その辺は、華さんから伺いました。ご主人は落語をご存知なかったから、結婚されてからお互いの家庭環境の違いに戸惑われたそうです。恋愛結婚で情熱ばかりが先立っていたと」 「でも僕だって……おじいちゃんちで暮らすようになったら〝寿限無〟は褒められるし〝金明竹〟の言い立てだってすぐ覚えちゃって……いいのか悪いのか、もう何だか訳わかんなくて」  もぐもぐとおにぎりを食べては話す三弦である。 「高校も大学も、落研なんかずっと知らんふりして来た。松田が竹田になって蓮見になって……名前だけじゃないんだよ。変わったのは」  音丸は改めて大きくなった師匠の孫を見つめるのだった。  当時は音丸も福岡から上京して入門したばかりだった。落語界に慣れるのに必死で、片親になった男の子の心細さなど想像する余裕もなかった。  習いたての〝金明竹〟を稽古しているうちに三弦の方が先に覚えてしまい、言い立てを諳んじたりするのを苦々しく思う有様だった。 「あの頃、私はもっと三弦さんのことを考えてあげるべきでしたね」  しみじみと言ってしまう。  おにぎりの最後の一口を飲み込んで三弦はまっすぐ音丸を見つめた。 「そんなことないよ。僕なんか寝小便たれのダメな子だったのに、たっぱちゃんはいつも面倒見てくれてさ……」 「おねしょは心の傷が身体症状になって出ただけです。ご両親が不仲な家庭で育って、離婚までされたら子供の心は傷つきます」  すらすら言えるのは既に当時、師匠もおかみさんもそう受け止めていたからである。だから三弦がおねしょをしても厳しく叱ることはなかった。ただ音丸に夜中に三弦を起こしてトイレに行かせるように命じたのだ。 「でも……僕はいつも何だか訳わかんないうちに、気がついたらみんなにいじめられてて」  山で再会した時、実はサークルの仲間が乗った車から取り残されて、あそこで谷に身を投げようかと思っていたと打ち明けるのだった。 「もういいと思って。もう生きてたってしょうがないって……」 と口元には薄い笑みを残しているのに、瞳は薄暗い洞窟のように無表情である。 「三弦さんが死ぬ必要はまるでない」 「そうだね……わかってるんだ。どうせ僕が死んだっていじめる奴らは平気なんだ」 「ええ。奴らは自分達と違う者をハブるだけです。死んだところで、せいぜい悲しむふりをして見せるだけです」  音丸は珍しく感情的になっている。三弦はちらりと目を上げた。 「ハブるって何?」 「省く……仲間外れにするって意味です。もう古い言葉ですかね」 「ふうん。音丸さんはハブられたことあるの?」  音丸は答えずに傍らの一升瓶を撫でている。仕事前にアルコールは禁止である。終わってからのお楽しみ。 「いじめる奴らは一人では生きて行けない。それを認めるのが怖いから徒党を組んで、一人で生きて行けそうな奴を叩き潰そうとする」 「一人で生きて行けそうって……僕は違うよ?」  音丸は少し首を傾げてにんまり笑った。 「三弦さんは強いですよ。一対一になれば奴等よりずっと強いはずです。喧嘩と言う意味じゃないですよ」  と拳を握って見せる。  途端に乾いていた三弦の瞳にじわりと涙が浮かんだ。そしてぽろぽろと頬にこぼれ落ちて来る。 「強くなんかない……もう嫌なんだ。この先もずっといじめられて生きてくなんて……意味ないじゃん。そんな人生」  まだ幼さの残る頬が涙に濡れるのを尊いもののように眺める。そして手近にあったティッシュの箱を渡した。 「逸馬のおいちゃんは……あそこで〝文七元結〟をやったんだってね」 「私も袖で勉強させていただきました」 「文七はいいよね。大川から身を投げようとしたって助ける人がいる。僕、僕なんかさ……」  とうとう音丸は傍らの一升瓶の封を切る。 「少しだけ」と誰にともなく呟いて、グラスに薄く注ぐと口に含んだ。 「どう?」と言わんばかりに三弦に見つめられて、嚥下した芋焼酎をしみじみ味わう。 そして静かに頷くと同時に、 「私は同性愛者ですけど」  と言っていた。まるで酒の感想であるかのようだ。  おまえは何を言ってるんだ⁉  正気か‼ すぐに撤回しろ。冗談だと言え‼  自分の中で誰かが真っ青になって叫んでいる。  三弦はティッシュボックスを抱えたまま身動きせずにこちらを見つめている。 「だから、結構いじめられましたよ。ハブられたわけです」 「うそ。音丸さんをいじめたらただじゃ済まない」  と反論しているものの三弦はまだ意味を完全に把握していない。音丸は苦笑した。 「逆です。いじめられたから喧嘩を覚えたんです」 「そうなの?」 「地元は福岡です。ヤクザの本場ですよ。案外にそういう奴らの方が庇ってくれた。それでいつの間にか不良仲間に入っていた」 「え? 待って……同性愛者って?」 ようやく腑に落ちたらしく改めて尋ねられる。  音丸は自分の頬の横に手の甲を添えて、 「いわゆる、これです。ホモですよ。今はゲイとかLGBTとか言うようですが」  そして自嘲気味に掌をひらひらさせる。 「この仕草は大嫌いですけどね。外部の連中がどう言おうと私にとっては同じことです」 「うそでしょう? だって音丸さんはめっちゃ強かったし。女みたいじゃなかったもん」 「別に女になりたいわけじゃないです。男が好きなだけです」  三弦はぼんやりした顔でティシュペーパーを取り出すと頬の涙を拭いた。 「いつから?」 「さあ。子供の頃から女には興味がありませんでした。はっきりそうだとわかったのは中学生の頃です」

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