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第20話 青天の霹靂

 音丸が〝サプライズ〟を思いついたのは、稽古に倦んだからである。  キャンセルによるにわか休日は〝文七元結〟の稽古に費やしたが、それにも限度がある。巡業で土産にもらった地酒や漬物などもあるからつい一人酒を始めて、そうなれば頭に浮かぶのはミヤマクロユリに似ているらしいあの天然パーマである。  あの頭に指を突っ込んでわしゃわしゃするのは音丸にとって至福の時である。奴のヘアトニックの香りは実に劣情を刺激する。などと妄想しているうちに思いついたのだ。  サプライズ!  もう軽井沢の研修からは帰っている頃だろう。土産でも持って突然訪ねてやろうではないか。考えただけでうきうきする。  自由業の落語家に曜日感覚はない。実は音丸が思いついて出かけたのは土曜日だった。夕刻、サラリーマンの退勤時間に合わせて中園龍平のアパートに向かった。平日にしては電車が空いているなどと気づくはずもなかった。  暮れてもなお猛暑は残っている。けれど足取りは軽かった。奴の驚いた顔を思い浮かべただけで一人でにやにやしてしまう。  ワンルームマンションの前には猫の額ほどの児童公園がある。砂場とパンダやゾウの遊具があるだけだが、何本か植えられた欅はたいそう立派な大木である。そこに寄り添うようにしてアパートの外階段と二階の部屋のドアを見上げる。  龍平の部屋からは賑やかな声が漏れ聞こえる。人が集っているようである。と、にわかにドアが開いて声が先に飛び出して来た。 「わかった! すぐ買って来る。うん、アイスも」  室内に向かって叫ぶと廊下に出て来たのは当の龍平であった。酔った足取りで外廊下を歩いている。 「待って、中園くん。私も行くよ!」  こちらも酔った大声で女性が飛び出して来る。  龍平と女性は腕を組んで楽し気に外階段を降りて来る。どちらも酔っているから段を踏み外しそうになって支え合ったりしている。  音丸はといえば、忌々しくその様子を見上げながら大木の陰に身を隠して襲い来る蚊を叩き潰している。普段なら職業意識の陰に隠れている人見知りが全開している。  手に下げた地酒の四合瓶を「差し入れ」と渡せばいいのだ。そう思いながらも一歩が踏み出せない。  音丸に気づかばこそ、龍平は女性と抱き合わんばかりにして千鳥足で立ち去るのだった。はしゃいだ声が遠ざかっても、しばらくは公園に佇んでいた。  そしていつの間にか〝文七元結〟をぶつぶつと口ずさんでいる。すごすごと歩き出すうちに稽古に夢中になって上下(かみしも)まで切ってしまう。  くどいようだが〝上下を切る〟とは右を向いたり左を向いたりして台詞を言うことである。傍から見れば、闇に乗じて左右の家を覗き込んでいる不審者だろう。  たちまち巡回の警察官に見つかって職務質問を受ける。落語家あるあるなのだ。衣装の着物でも携えていれば広げて見せて放免される。けれど今持っているのは見る者が見れば高価とわかる地酒だけである。二人の警官に前後をはさまれ、 「これはどうしたんだ?」 などといよいよ怪しげな目つきで睨まれる。  柏家音丸などと名乗っても落語マニアでなければ知るはずもない。結果「隣の空き地に塀が出来たってね」「へえ」などと駄洒落まで披露する羽目になる。思いつく限り続けて「早く笑点に出られるといいね」と憐むように言われて解放される。  ようやく帰り着いた部屋は湿気と共に多国籍料理の匂いが籠っている。冷房も大して効いていない。  大の字に寝転がって蚊に刺された跡をぼりぼり掻きながら、吾妻橋のたもとから大川に飛び込んで死のうとする登場人物、文七の気持ちなどを考えるのだった。  好ましくない事態に陥っている。 音丸がはっきり意識したのはサプライズの失敗がきっかけだった。それより早く気づいてしかるべきだったかも知れない。  どこの楽屋で誰に尋ねても、キャンセルが重なっているのは音丸だけのようなのだ。上野の寄席では久しぶりに兄弟子の柏家德丸と顔を合わせた。 「キャンセル? いや僕は別にないけどさ」  四角い顔の兄弟子はそう答えてから「それよりさ」とせっかちに話しかけて来た。口から先に生まれたようなおしゃべりで、地声も大きい。 「みっちゃんてさ、覚えてる? 師匠の孫息子」 「三弦さんなら、こないだ長野の仕事で会ったばかりですよ。何かありましたか?」  少し心配になって問い返すと、徳丸はにやにや相好を崩している。 「みっちゃんから急に電話があってさ。長野の大学で落研に入ってたんだな。前から学園祭に呼ばれてたんだけど、前座も連れて来て欲しいってさ」 「へえ。こっぱでも連れて行くんですか?」  と弟弟子の名前を出す。  徳丸がビミョーな顔で首を横に振るのは〝こっぱ〟が自分の前座名だったからである。  一門の前座名は受け継がれることが多い。新こっぱが入門してまだ一年足らずだから、徳丸は未だにそれに慣れていないらしい。  改めてにやつきながら徳丸は言う。 「柾目家咲也。あの女前座を呼べないかって。寝小便小僧が色気づいちゃってさ」  音丸は何がなしほっとしている。いじめられて死にたがっているよりも、女前座に色気を出している方がはるかにましである。健全極まりない。 「おい、うるさいぞ」  奥の席で渋茶を啜っていた老師匠に注意をされる。  徳丸は首をすくめて音丸の耳元に口を寄せるが声のボリュームは変わっていないから、ただやかましいだけである。 「咲也ってさ芸協だろう。連絡先を知ってる?」 「ええ。咲也からあにさんに連絡させますよ」 「そうしてくれる? 頼んだよ」  徳丸は音丸の肩を抱くようにして言うのだった。おしゃべりな人間はボディータッチも多いような気がする。兄弟子は老師匠に、 「お先に勉強させていただきます」  と頭を下げると高座に出て行った。本来は二つ目が出る時間帯である。真打の徳丸だが後の仕事の関係で音丸と出番を交代したのだ。 「未来の名人さんは兄弟子を先に上がらせるか」  奥で渋茶の爺様が独り言のように呟いた。  変に真面目な音丸は嫌味に気がつかない。後の仕事の関係で出番が変わるなどよくあることなのに? と首をかしげていた。  徳丸に安請け合いしたが、咲也とは一向に連絡がとれなかった。電話がつながらないので落語界の遅れた慣習に従ってメールを送ってみる。 〈徳丸アニキが九月二十二日に長野でスケを頼みたいそうです。連絡してやってください。電話番号は……〉  と徳丸の連絡先を伝えた。それに対して〈かしこまりました〉と返事があったのは何日もたってからである。気が利くと評判の前座咲也である。常ならば即答なのに。らしくもない。  そもそも咲也からは〝山の県境落語会〟の後、通常の落語会の後と同じようにお礼の電話があったきりである。そのタイミングは前座の手本にしたい程だったが、例の騒ぎに関しては一言もなかった。  落語家の世界は思い切りアナログだから、目上の者に謝意を示す場合は手土産持参で直接自宅を訪ねるのが通例である。山荘ホテルであれだけの騒動があったのに、何も礼をしないのは通常ならあり得ない。まして気働きの咲也なのに。  もっともあの時のパニックぶりを見ればトラウマの余り思い出したくないのかも知れない。ならば別に礼などいらないのだが、徳丸の依頼にはきちんと応えて欲しいのだ。  改めて咲也や徳丸に確認しようと思いながらも、それどころではない事態が起きていた。あろうことか新宿の寄席で十月中席の出番が全てキャンセルになったのだ。  最近恒例になりつつある秋の四派連合落語会である。落語家協会、落語芸能協会、古川流(ふるかわりゅう)喜楽党(きらくとう)など四派が顔を揃える珍しい興行は、先代席亭が引退して若旦那の代になってから始まった。  そこに落協の二つ目として出演できるのは誇らしいことである(ギャラは安いが)。客も楽しみにしているから夏のうちに顔付けも発表されている。なのに今更キャンセルされたのだ。  主任は毎年各派持ち回りだが、今年は芸協の錦家福助である。長野の落語会で「女の尻……云々」と捨て台詞を言われた記憶が蘇る。よもやあの師匠の差し金かと疑いつつも口にするわけには行かない。 「私に何か行き届かない点でもあれば改めますので……」  などとお席亭に向かって深々と頭を下げるも、 「今席はちょっとね。他の二つ目にも活躍の場を与えようと思ってね」  と言葉を濁される。  それなら始めから音丸以外の二つ目を顔付けすればいいのに。一般公開した後で予定を覆すとはどういうことなのか。疑問ではあるが雇われる身の噺家としては強く問い詰めることも出来ないのだった。  

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