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第50話 エピローグ

 音丸と龍平は手を繋いで石段を下りた。  草むらの中に黒い泥濘のように沈み込んだ池に向かう。  想像以上に足元は暗い。車中ずっと眠っていた音丸には悪夢の続きのように思えて言葉を失っている。足元で小さく虫が鳴いている。  山の向こうにはまだ夕陽の朱色が残っているのに、木々の陰になった水面は反射する光とてなくひたすら黒い。  二人手を取り合って「こっち」「気をつけて」と足元の雑草の合間を爪先で探っては池の周囲を巡る。 そして、どちらともなく歩みを止めて呆然と池を見つめた。何やら魔法の世界に迷い込んだかのようである。 「夏目漱石が、ⅠLoveYouを日本語で何て訳したか知ってる?」  にわかに龍平が言った。  あまりに意外な内容に音丸は、 「……さあ?」  という声を出すまでにかなり時間がかかった。  まるで二人して虫の声に聞き入っているかのようだった。  実のところ音丸は龍平の英語の発音がネイティブすぎて少し引いていたのだが(日本語の中に入ると逆に悪目立ちする)。 「今夜は月がきれいですね」  といよいよ奇妙なことを言われて、 「……はあ?」  とまた間延びした声で返してしまう。 「だから、夏目漱石はⅠLoveYouを、今夜は月がきれいですねって訳したんだよ」 「何だそれは? アイラブユーなら愛してます、でいいだろう?」 「でも音丸さんだって違う風に訳したよ」 「別に何も訳してないぞ」 「水面より輝く君の瞳かな……これが音丸さんの訳」 「…………」 「ねえ。言ってみて」  と肩をぶつけられる。何故だか一歩横に動いて隙間をつくる音丸である。 「ねえねえねえ。音丸さんはⅠLoveYouを何て訳すの?」 「君が声夢に消えゆく後朝の朝」 「……えっ?」 「去年の勉強会の次の朝、おまえが出て行く時に……言いたかった」  と言い終わらないうちに、ぎゅうと抱き締められる。  あの時言えなかったことを、ようやく言葉にする。 「あの時は悪かった。ちゃんと……あの、傷を、師匠の歯で……答えられなくて……」 「いいよ。言うのがつらかったんでしょう?」  黙って抱き返す音丸である。声を出すとまた涙が出てしまいそうである。 「僕こそ気がつかなくてごめん。そのずっと前〝会いたい〟ってLINEくれたよね。きっと一番つらい時だったんだよね。僕が話を聞いてあげればよかったのに……ごめんね」  天然パーマの髪に顔を埋めてとうとう泣く。いや、少し涙をこぼしただけである。  暗闇に草木の香りが満ちている中、巻き毛のヘアトニックの香りが嗅覚を刺激する。  どうせ樹木が見ているだけである。薄闇にほのかに赤い唇にそっと唇を寄せる。 「ⅠLoveYou……」  と囁かれる。  なら別に訳すことはないだろう。  などと思いながら、しみじみと口づけを交す。  早く宿に着いてやるべきことをやりたい。というのはこの際口にすべきではないだろうが、下の方ですっかりその気になっている奴がいる。つい腰を引いてしまう。  掌に龍平の背中がかすかに震えているのが感じ取れる。泣いているのかと思いきや、 「今夜はいっぱいやろうね」  とくすくす笑っているのだった。おい。  一つの影は二つに分かれてまた手を繋いで車に戻って行く。  黒いレンタカーは壮快に走り出す。漆黒の池も森も彼方へと遠ざかる。  龍平は車を大学合宿所の駐車場に乗り入れる。  そこにもう一台のレンタカーが停まっていた。  このトイレ休憩にどんな意味があったか音丸は知らない。  だからその夜、龍平が常にも増して情熱的だった理由も知る由もない。  再び車は走り出す。  夕陽が沈む山々を背に車は県境を越えた。  二人は新たな地に入る。                                        〈了〉

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