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【カクテル・レブヒート】p38

 入ってすぐの壁にピッティ美術館についての説明書きがあった。  十五世紀後半に竣工されたピッティ宮殿はイタリアのフィレンツェに所在し、世界遺産にも登録されている。美術館はその宮殿内に内蔵され、ティツィアーノやラファエロ、ペルジーノといったルネサンスの巨匠達の、充実したコレクションを有している。盛期ルネサンス美術を存分に堪能できるとあって、世界中から観光客を集めているということだった。今回はそのピッティ美術館から数点の絵が来日し、各地の美術館を回っている。  絵画にはうとい碧斗だがラファエロやティツィアーノの名前くらいは聞いたことがあった。古書店でも美術関係の本はとても人気がある。  きっと通常の営業時間内に来たら、人だかりで押し合いへし合いの込み具合だろう。おそらく鑑賞も秒単位で制限されることを考えれば、貸し切りは贅を尽くすに等しい行為だった。  一枚目の絵画はさほど大きくない絵で、少ない色合いながらも深い陰影が印象的な、愁いある聖母の肖像だった。描かれてから五百年近くも経つというのに、まったく古さを感じさせない。 「綺麗だ。すごく…」  こちらを魅了する淑やかな美しさに、碧斗の口から深い溜め息が出た。 「生きているようだよな。ラファエロの描く人物には、官能美と精神性があると思う」 「うん」 「碧斗に似てる」 「また…」 「おだてじゃない」  悪戯っぽく笑った久遠が、チュクっと頬にキスをよこす。神聖な場所にふさわしくないと思って口を尖らせたが、やっぱり嬉しかった。  展示にはピッティ美術館のものだけでなく、他の美術館に所蔵されている、ルネサンスに影響を受けた後世の画家たちの作品もあった。いずれも素晴らしい作品で、美術展に来るのが久しぶりなせいもあるが、碧斗はそれぞれの絵から快い刺激を多分に受けた。  そしてそのひときわ優れた油彩画は、「宗教画としての官能美」と類する最後の区画に位置し、額の横には「ティツィアーノ作『悔悟するマグダラのマリア』」とあった。 「あ――! これ、西小路の――――!」  言葉を飲んだ碧斗に、久遠が続ける。 「そう。西小路が影響を受けたのは、この絵なんだ」  知っている。  この絵にインスパイアされて西小路は『セヴンス・ヘヴンの爛光』を書いた。西小路ファンの中では有名な話だ。碧斗もずいぶん前に文芸誌で知り、どんな絵かは調べていた。その本物が見られるなんて思いもよらなかった。 「ありがとう、久遠さん。すごく嬉しい」 「うん。実は俺も見てみたかったんだ。実物は初めてだから。でも半分は、碧斗の喜ぶ顔も見られたらいいなっていう、下心もあった。だから、嬉しいのは俺のほうだ」  なんとももったいない。感激で胸が熱くなる。  マグダラのマリアは聖書に出てくる娼婦で、最後の晩餐でキリストによって罪を赦された女性とされている。その彼女をティツィアーノは肉感豊かな肉体を持つ女性として描いた。四角い額縁の中で、マグダラのマリアは頬を紅潮させ、悔悛のしるしにと掌をつつましく胸に当てている。  西小路は『セヴンス・ヘヴンの爛光』の女主人公をこのマグダラのマリアに重ねて書いた。他者を安易に断罪しがちな現在の風潮に警鐘を鳴らしたと、文芸誌のインタビューで答えていた。碧斗が西小路に心酔するきっかけになった記事である。  純粋に西小路の人柄に惹かれたのだ。ありがちなヒューマニズムではなく、偽善的なアピールでもなく、目の前の一人に真に心を寄り添わせることのできる人物に違いないと思った。そしてその西小路は、久遠、その人なのだ。 「一生、今日のことを忘れないよ、オレ」  碧斗は誓った。  ところが、くいっと顎をとられてキスを受けた。それだけでものすごく面食らってしまって、まったくもう、どうしていきなり、と、訴えたい気分になる。 「どうしたの…」 「そんな可愛いことを言われたら、西小路に焼きもちをやくだろう?」  急に色の乗った声を出す。何を言い出すやら。 「だって、嬉しかったから。ありがとう、久遠さん。あなたが好きだ。本当に大好きだ…」  ひとまわり大きい久遠の身体を抱きしめ、そして抱き返されて、碧斗の胸が甘苦しく喘ぐ。  布を通してでも分かる固い筋肉にくるまれ、スーツの生地に頬をこすられた。ほろ苦いムスクに鼻腔を満たされれば、碧斗は忘れていた久遠の雄性に刺激を受けて、身体の芯が切なく疼いてきてしまう。 (あなたの他は何もいらない)  そんなふうに思える人がこの人生に現れるなど、思ってもいなかった。  碧斗の唇を久遠が奪う。繰り返し、繰り返し、食み続ける。そのキスがだんだんと熱を帯びて、狂いそうな酩酊を覚えた。  この時間がずっと続けばいい。  久遠とのキスは、するたびにそう思わせる。  思う存分キスをした。お互いを求め合う激しい水音がギャラリーに響いていた。

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