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chapter 6 An Awkward Night Way
蘭は、二階の西側を彼の私室として使っていた。一番突き当たりの部屋は、花も何度も入ったことがある。
別にきちんと家がありながら、彼は店舗に住んでいるようなものだった。
家は店から近く、歩いても遠くない。花も二三度、荷物を取りに行ったことがある。閑静な住宅街にある普通の家だ。見た目豪邸でもなく、家の中も質素。装飾品などもなく、必要最低限の家具しか置いていない。あまり帰らないのは、忙しいことが一番の理由だと、以前言っていた。
確かに忙しいだろう。いくつもの経営を取り纏めなければならない。彼の凄いところは、そんな忙しさの中でも遊び心を忘れず、適度に休むことを知っていることだと、花は常々思っている。
忙しいのも、確かに理由のひとつだろう。だが蘭は独り身だ。がらんどうな家に帰るのが嫌なのかもしれない。本心を知りたくて尋ねても、彼はやんわりとかわしてしまう。まるで風で揺れる枝垂れ柳だ。
廊下に出ると冷え始めていたため、先に戸締りをしようということになった。
朝夕はもう冷える季節になった。昼間に開けていた窓を全て閉め、必要なところにだけ燭台に火を灯す。
昼間はあんなに生き生きとしていた亜蘭亭は、まるで今日一日を惜しみながら寝りにつくようだ。
皆が帰った後の店と、誰もいない家と、一体何が違うのか。
階段上から、残って作業をしていた最後の一人が、蘭と話しているのが見えた。男は花に気づき、軽く手を上げて帰っていく。蘭がそのまま店の入り口を閉めに行った。
あんなに活気のあった店内には、その残響すら残っていない。窓を閉めてしまえば、風の音もしなくなる。
最後の窓から下の通りを覗いた。
家路を急いでいるのか、人通りの流れもどこか速い。この辺りの通りは屋台も立たないため、暗くなれば、物悲しい秋の空気が辺りを包む。そんな空気が住人を、それぞれの家へと急かすのかもしれなかった。
静寂に、下から足音が上がってくる。振り返ると、燭台を持った蘭の顔が暗闇で浮かび上がっていた。目鼻立ちの整った顔が、光と影に揺れる。その対比が、男と言えど美しい。
「ご苦労さま。部屋で先に寛いでていいよ。お茶を持ってくる」
花は慌てて、自分がやると言った。しかし蘭は強引に花の体を回転させて背中を押し、自分はさっさと行ってしまった。待っていても仕方がないので突き当たりの部屋に入る。花は勝手知ったる様子で長椅子に深く腰掛けた。
一見すると肩の力を抜いて緊張感の欠片もない様子を見せていたが、実は花はこの状況に内心とても困惑していた。
仕事が終わったら早く帰って、助けたあの娘の様子が知りたい。美人館であったことも影音に話したい。そう思っていた。
それに何より今日は、そっちの仕事の予定はないはずだった。
もしかして約束しておいて、自分が忘れているだけなのでは?
そう思って必死に記憶を探ったが、やはり心当たりはない。
扉の開く音で、はっと我に返る。盆を片手で器用に持ち、蘭は部屋に入ってきた。
「お待たせ」
部屋の扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえる。
座ったままで、体が瞬時に緊張した。意識しないよう努め、逆に失敗する。行き場をなくした花の白い手が、太ももの上で硬く指を折る。
蘭は体が触れるくらい近くに腰掛けた。彼がいつも使っている香の匂いが鼻を掠める。
何も言わず、彼の手が伸ばされた。その指が、緊張で硬く閉じた手に触れた瞬間、花は堪えきれず反射的に立ち上がった。
笑い声が、静かな部屋で反響した。
「ははは」
顔を真っ赤にした花が腰を下ろす。しかし気づいて、腹を抱えて笑う蘭との距離を取り、座り直した。
「揶揄うのは止めろよ!」
笑いを止めて、蘭は何か言おうとする。だが結局、言うために開いた口で再び笑い出し、そのまましばらく笑い続けた。
こんなふうに、子どものように腹を抱えて笑う姿は、店では見られない。
花はそれにすっかり臍を曲げた。
蘭が用意した茶をなみなみと注ぎ、一杯を一気に飲み干す。そして二杯目も注ぐと、やはり一気に飲み干した。猫舌な花のために、茶は丁度な温度だ。
「ごめんごめん。怒らないで」
涙ぐむまで笑った蘭は、そっぽを向く花の頭に軽く唇を落とす。それはとても自然な動作だった。
「何で緊張してるの」
恥ずかしさから、花の頭の中は真っ白だった。何も言えずただ唇を噛む。だが蘭の方は、既にその答えを知っていた。
「いや、分かってる。私が悪かったんだ。いつもはきちんと了解を取ってから、ここに誘うからね」
隣を振り向く。だがとても目は合わせられなかった。その足から視線を上げられずにいると、まずいと思ったのか、隣では機嫌を取り始めた。
「機嫌を直して。砂糖菓子のことは、本当なんだよ。ただ食べてもらおうと思っただけなんだけど、花があんまりにも可愛く緊張なんかしてるものだから、つい……」
つい、なんだ。
花に睨まれた蘭は、笑いそうになった口を慌てて手で隠す。
「ほら、見てごらん。綺麗な砂糖菓子だろう。この間取引した街で見つけて、今回の荷に合わせて取り寄せたんだ」
まるで菓子で五歳児を釣るような手段だったが、花には効果があった。
「調子いいなまったく……」
皿の上の砂糖菓子は、確かに見たことのない形をしていた。それに色とりどりで見た目も綺麗だ。
花は、食べ物を取り入れずとも、生きていくことが出来る。今ではだいぶましにもなったが、小さい頃は、屋台から流れる食べ物の匂いを嗅ぐだけで、吐き気や眩暈に襲われた。
大人になってからも、肉の焼ける匂いなどの強いものは、出来るだけ嗅がないようにしている。
食べないので、食べる物やことに興味もない。
そんな花の食人生を大きく変えたのが、砂糖菓子の存在だった。そのきっかけをくれたのは蘭だ。
それを食べたのはただの偶然だった。「食べる」というより、ただ「口に入れた」の方が正しいだろう。何気なく、机の上にあった菓子を手に取り、何気なく口に入れた。なぜなのか自分でもよく覚えてない。
砂糖菓子を「食べること」が出来ると気づいた衝撃は、とにかく大きかった。初めて感じた「味」を、生涯忘れることはないだろう。
皿に手を伸ばし、花は砂糖菓子を口に入れた。それはあっと言う間に、舌の上で溶けてゆく。
「それが桃の味だよ」
「これが……」
以来、果物の味も、砂糖菓子を通じてこうして知ることが出来る。木と喋れても、その木になる実を食べられない花からすれば、画期的な進歩である。
花の機嫌がすっかり良くなったと知り、ほっと胸を撫で下ろした蘭だった。
「子どもたちの分は別に取ってあるから、全部食べていいよ」
いつもこうだ。蘭の優しさは、この砂糖菓子と変わらない。大体いつも花の分だけでなく、長屋に住むこどたちにもお土産を用意してくれている。
「子どもみたいだなまったく……」
「あ?」
口の中に菓子が入っているので、実際の花の声は、「あ?」と「うん?」の中間のようであった。
「……付いてる」
長くしなやかな指が、花の口元についた滓を拭う。
砂糖が名残惜しかった花は、自分の唇を舐めた。舐めて赤く染まった唇を、そして蘭の親指がなぞる。
「……やっぱり気が変わった」
たった今までの柔らかな雰囲気は豹変し、蘭はあっという間に花を組み敷く。
文句を言う暇もない。
花の顎を固定し、蘭は赤く色づくその唇を奪った。
始めは触れるだけだ。しかし二回目には、熱い舌が入ってくる。息をつく暇もなく、三回目の口づけが深い。
花は形だけの抵抗をすぐ諦めた。激しい口づけに降参し、相手のなすがままになる。
熱い舌は、何かの生き物がそこで暴れているようだった。花はこれが苦手だ。息は出来ないし、上顎を舌でつつかれると、なぜか体に稲妻が走り抜ける。自分は菓子以外食べないから、上顎をつつかれてそんな変な感覚になるのだと、花は思っていた。それが恥ずかしいから余計に、この行為が苦手だった。それに耳に入ってくる、この濡れた音も恥ずかしい。聞いてるだけで、むず痒い感覚が下半身を襲う。
「……う……んん……ッ」
衣の合間から侵入した冷たい手が胸を掠め、花の背中が椅子から浮く。ただ掠めただけなのに、雷に打たれたような衝撃が花の体に走った。反射的に相手を突き返そうとしたが、手首を掴まれてしまいそれも出来ない。
「……っ……は、」
花の唇から熱い吐息が溢れる。
男の体は、女のそれとはまるで違う。だが丸みのない骨張ったそれを、冷たい手のひらは躊躇うことなく滑っていく。
浮いた背中に、好機を逃すまいと手が回った。腰の括れを楽しんだ後、柔らかい肌を伝って下へ向かう。太腿を一通り撫でまわすと、冷たい手のひらが形の良い尻を揉んだ。花はなけなしの力を使い、その手を引き留めた。
唇が離れた時、どちらのものとも知れない唾液が糸を引いた。花の唇は濡れ、色っぽく、口づけを誘っているようだった。
「今日は……残業の日じゃ……ないだろ」
喘ぐ合間に、花は何とか絞り出して言う。
「分かってる」
目の前の蘭は、苦笑いで返事をした。
二十になる頃、この「残業」は始まった。
決まった日や回数はなく、全ては蘭次第だ。だが必ず事前に花の了解を得てからが、いつものやり方だった。こんなふうに、前もって尋ねられることもなく、砂糖菓子を餌に突然押し倒されるのは初めてだった。
「……止めようか」
この台詞は初めてではない。これまでにも、もう何度も聞いた。
花は呆れた顔で見上げた。
「止めて……、どうすんだこれ」
膝で相手の脚の間に触れる。流石の蘭もその刺激に、肩を揺らして眉根を寄せる。
すっかり反応しているそこは、今止めれば本人はかなりきついだろう。同じ男として、分かる辛さだった。
「……そんなふうに、男を煽ったら駄目だよ花」
再び口づけが降ってきた。懸命に息をしようとするのだが、火傷しそうなほど熱い舌が、息つぎさえ奪おうとする。
静かな部屋で、濡れた音と二人の荒い息遣いだけが響く。耳を塞ぎたいほどいやらしい音だ。
尻を揉んでいた手が、その奥に進もうとする。花の体には一気に緊張が走った。
「……だ、……駄目だ……蘭……」
花は左足首に熱を感じた。よくない兆候である。鼓動も同じだ。まるで爆発しそうなほどに熱い。
花の左足首に巻かれてあった茜色の紐が、薄っすら光を帯び始めた。茜色が赤く、その色味を増す。真紅に近い赤色に。
赤は危険な印だ。
花の胸が悲鳴をあげた。
「蘭……ッ」
花は焦って、自分を組み敷く体を突き飛ばした。
心臓は今にも破裂しそうだった。鋭い痛みが杭のように胸に突き刺さっている。
胸に手を当てて喘ぐ姿を、心配そうに蘭が見ていた。
しばらくすると、足首の熱は徐々に収まっていった。足紐の色も、元の茜色へ戻っている。
胸の痛みも引いたには引いたが、痛みの残滓を残した。もう少しすれば完全に取れるはずだ。何度も経験があるので、それも分かるようになった。
「……悪い」
気まずさから、花はまず謝った。
「おいで」
脚の上に引き寄せられる。蘭と向かい合う形になった花は、俯いていた顔を上げた。優しい瞳と目が合う。
「約束したはずだ。こうなった場合、悪いのは私だって。謝ったら駄目だ」
労わるような口づけが落とされた。
大きな肩に額をもたれかけ、花は自分の体の熱がゆっくり引いて行くのを待った。
背中を撫でてくれる大きな手が心地良い。
そうして安堵感に身を委ねている間に熱も引き、痛みの残滓も完全になくなった。
「もう平気だ」
もたれていた肩から身を起こす。さっきまでの部屋の濃厚な空気は消え去っていた。
「それにしても、本当に面白い術に守られているね。君の……これ」
花の太ももに手を滑らせ、まだ乱れている下穿きを捲る。見えた左足首を、蘭が興味深そうに眺めた。
「見た感じはただの手編みの紐なのにね」
「他人事だからそんなことが言えるんだ」
花は自分の足首にあるそれを恨みがましく見る。
足首の茜色の紐は、花が行為に及ぼうとすると、花の体に灼熱の痛みを与えてそれを阻む。
誰かが花の後ろに触ろうとしたり、もちろんのこと、そこに入れようとしようものなら、のたうち回る痛みを花の胸に与えた。そんな痛みに打たれては、もう行為の続きどころではなくなる。痛みのせいで花はそれどころじゃないし、相手は相手で、突然の異様な光景にその気を削がれる。
過去には、相手が前に触ろうとしただけで、痛み発作でのたうち回ったこともある。だがある時は、前に触れられても全く害がなく、後ろだけが駄目な時もある。まるで時と人を選ぶようである。しかし選ぶのは花じゃない。花にはそれを制御できない。それが余計に、話をややこしくすることになったりする。
蘭はしばらくの間、花の白い足首を見ていた。何か考えているようだ。
そういうことをし出した時、蘭には早々に事情を話した。行為をするうえで隠せないと思ったし、正直、悩みの種だった事情を影音以外の誰かに聞いてもらいたかったのもあった。
打ち明けてからも蘭は特に何も変わらず、残業も続いた。どんな行為が駄目なのか試すことを、彼は半ば楽しんでいる節もあった。
「切ろうとしたことはないの?」
そう言いながら花の鎖骨に口づけ、その香りを楽しむように彼は目を閉じる。
良い香りに群がるのは、蜜蜂や蜂鳥だけではない。花の周囲には、彼のこの香りに惑わされた者がたくさんいた。
「あるに決まってる」
「どうなった?」
「小刀がすっ飛んで、危うく仲間の頭に突き刺さるとこだった」
運悪く居合わせた仲間だったが、そこに影音がいたのは運が良かったとも言える。飛んだ小刀を弾いたのは、影音の踊跃である。
「人を操ったり魂を抜いたり、呪術に関する品を扱うことは多いけど、これほど強い護身術を見るのは初めてだ」
だから興味があったのかと納得いく。どんなことがこの紐の呪術を発動させるのか、蘭は興味津々でやたら試したがる。
「花、聞きにくいことだけど……」
「何だよ今更躊躇ったりして」
「女性と試したことは?」
花は湯飲みの茶を吹き出した。
「な、な、」
言葉になってない。まぁそうだろうと思っていたので、蘭は驚かなかった。
「君が女の人とは駄目なのは知ってる。でも試したから分かることだろ、それって。女の人でも、この呪術が発動したかどうかが知りたいだけだ」
女の寝台に入れないことを言ったことはないが、男とこういうことをすれば分かるのも普通だ。ただ、花の場合は生まれつきのことなので、女と試したことが一度もなかった。
「……美館の姐 さんに冗談で襲われたことがある。その時も発作が起きて、みんなが騒然としてた。髭爺を呼ばれそうになって、痛いの堪えて慌てて止めたんだ」
その時は何とか髭爺を呼ばれずに済んだものの、花を心配した娼妓たちが影音に伝え、結局その後髭爺が家に来た。
花を心配して……は、間違ってはいないだろうが、娼妓の本当の目的は影音と喋ることだったのではと、花は疑っている。彼女たちは皆、影音を見ると目の色を変える。花を迎えに来た彼に、我先にと押し退け合い、群がる姿を知っていた。店に立ち、優雅な舞いを踊り、口元を隠しながら笑うそれとはまるで違う。
客の前でない時の、活発で生き生きしている彼女たちを見るのは好きだった。元気な彼女たちを見ていると樂樂 を思い出す。
寝台には入れないことが関係しているのか、花は昔から娼妓の女たちと緊張感なく会話できた。冗談で上に乗られたのも、花が彼女たちにとって、まるで可愛い弟のような存在だからだろう。
「君を守るのに必死な呪術だね。一体誰が仕掛たんだろう」
「俺の貞操を術で守る意味があると思えないぞ」
「それはどうかな……。この呪術かけた者にとっては、何よりも価値があるものなんだよきっと」
花がまだ幼い頃、変質者に小屋に引き摺り込まれたことがある。小屋の中で性器に触られた瞬間、そこで初めての発作が起こった。幼い花は、経験したことのない酷い痛みに耐えられず、そのまま気絶してしまった。
狂気じみた叫び声を上げ気絶した花を、男はなぜか死んだと思ったらしい。
起きたら目の前が真っ暗で、花は取り乱した。錯乱する手前だ。そして自分が何かに巻かれていることに気がついた。
必死にそれから抜け出した花が見たのは、大きくて汚れた布だった。それでぐるぐると巻かれていたのだ。
そこは今にも崩れそうな小屋だった。使われなくなってだいぶ経つのだろう。何かの作業に使用していた布を、遺体を隠そうとした男がそれで花を巻いたらしい。
体を触られたことも十分な衝撃だった。そのうえ、この世のものとは思えない痛みの発作を経験し、死人扱いされた。幼い心には一生消えない傷が残った。
だが家に帰る前、花がしたことと言えば、出来るだけ身なりを正し、衣服の汚れを落とすことだった。家族に変に思われないように、汚れたところを小川で洗った。
普段汚れても気にもしない彼が、手や足を綺麗に洗って帰ったことで、影音はすぐに異変に気づいた。追求され、しどろもどろに打ち明ける。話を聞いた彼は、これまで見たこともないほど憤慨した。
あの当時彼はまだ踊跃と出会っていない。もし持っていれば、花を傷つけたあの男は河に浮いていたはずだ。
影音はその後、花を連れて男を探した。結局男は見つからず、花が早く忘れたがったので、探すのを止めた覚えがある。
影音はいつも花のことを守る存在だった。兄であり親友であり、かけがえのない家族である。
この紐も、彼と同じように花を守っていると思えば、確かにまだ許せそうだった。
「一度、詳しく調べさせてくれないか」
「……あ?」
我に返った花の視界に、真剣な顔をした蘭がいた。
「呪術に使う品物なんかも、うちの店ではたくさん扱う。知ってるね」
「ああ。胡散臭いあの商品な」
秘密を暴く薬、魂を奪う鏡、想い人を見つける髪紐、嫌な相手を悪運に落とす玉佩、そして不老不死と貼られた得体の知れない液体。それらを思い出す。
目録を作成するのが仕事だ。それらを目にする度、花は心底不思議に思った。
「なぁ、あんなもん、一体誰が買うんだ?」
亜蘭亭に客はあまりこない。品物は配達して届けることが多く、購入者の名簿は蘭が厳重に管理している。花も目にしたことがなかった。
「要望があるから、この店もあるんだよ。客の望みを知るのが仕事と言えるかもしれない」
「金持ちだろどうせ。買うのは」
身も蓋もない言い方だったが蘭が微笑んだのを見て、それが当たりだろうと花は見当をつけた。
「上流者には、お金を使う先を持て余してる人間も大勢いるから」
花は蘭の膝の上から降りて、隣に座り直した。無言で砂糖菓子を口にひとつ放り込む。もし蘭に出会うことなく、あの平長屋で普通に生活を送っていたなら、こんな高級な菓子を口に出来ることもまずなかっただろう。
金持ちの連中が怪しげな壺をひとつを買うお金で、貧民街の住人の一年分の食べ物が買える。世の中、とにかくおかしい。
「話を戻すけど、私は呪術に関するものに触れる機会も多い。もし足紐の呪術を解くのに何か役に立ちそうなものを見つけたら、協力してほしい」
「協力?」
花は首を傾げた。花の精神丹の力は、呪術にあまり向いていない。修行でもすればもう少し形にもなるだろうが、得意なのは今のところ、ただ植物に関することだけだ。
「呪術は得意じゃない」
蘭の手が花の頬に触れる。その目があまりに真剣なので、花は少したじろいでしまった。
「花の、この呪術を解く方法があるかもしれない。もし何か良いものを見つけたら、試したい。それには花の協力が必要だろ?」
それで合点がいった。
「……分かった」
頷いた花だったが、はたと動きを止める。
協力する……それはつまり、茜色の紐への、何かしろの禁止行為をするということである。
「残業」は今まで月に一二回だった。それが増えるということだろうか。自分が鈍かっただけで、彼は最初からそのことを言っていたんじゃないだろうか。
「や、やっぱり、ぅう」
やはり考え直すと言いかけた口の中へ、砂糖菓子が押し込まれる。
蘭はにっこり笑って、花の唇についた砂糖を親指で拭き取った。
もうこの話題は終了、の意味の笑顔だ。口にするのも苦手な話題だったためそれを蒸し返すのも気が引けて、結局花は何も言えず、黙々と砂糖菓子を味わった。
「俺、そろそろ帰るよ」
砂糖菓子を全て平らげ、茶を啜り、花はようやく腰を上げた。
蘭は机から小袋を二つ取ってくると、それを花の手に乗せた。ひとつは軽い。お土産に持たせてくれる砂糖菓子だ。だがもうひとつは重みがある。
「今日は残業してないだろ。貰えない」
袋の中身はお金である。残業の代金にいつも貰うが、今日は元々予定になかったし、代価に見合うほど「働いて」いない。ほとんど、椅子に座って砂糖菓子を食べていただけだ。
お金の入った袋を突き返す。だが蘭により、袋はまた手に返された。やんわりとだが、有無を言わせない力だった。
「約束、覚えてるよね」
「覚えてる、……けど……」
「言ってみて」
花は困ったように蘭を見上げた。
「……残業をしたら必ずお金を貰う」
「そうだ。でないと、次の誘いがしづらいからね。それから?」
「事前に必ず俺に聞く」
「そうだ。私は今日それを破った。もう二度としない。誓うよ」
約束は他にも幾つかあるが、全て蘭が花のために作ったものだった。
「約束を破ったお詫びだから、ちゃんと貰って」
その言葉に渋々懐にお金を仕舞う。
最近しばしば、この関係は一体何だろうと考える。
唇を合わせ、息も荒く体をまさぐる。直接相手に触れられて、張り詰めたそれを解放することもある。
しかしそれらの行為は、あくまでも仕事の延長にあった。菓子を貰い、金も貰う。割り切った関係なのに、彼との間は冷えていない。触れられると体は反応するし、花の手で相手は熱くなる。
だが、正しくない。
そういうことに疎い花でも、何となくそれは分かってた。
蘭とのことだけではなく、兄であり親友でもある影音の存在のことも、このところ花の悩みの種だった。しかしそれを今ここで考えるのは、あまりにも不毛だ。
裏口の扉まで来た花は、持っていた燭台を机に置いた。提灯にその火を入れ扉を開ける。外はもう真っ暗だ。提灯を頼りに歩くしかない。
だが蘭が、手から提灯を奪ってしまった。
いつもならここで挨拶をして分かれ、家へ帰る。だが今日は何故か、彼も外套を羽織っていた。
「家まで送るよ。こんな時間になったのも私のせいだ」
「俺を送って、じゃあ自分はどうやって帰ってくるんだ。北でも行けば馬車もあるだろうけど、この時間に俺の家の近くじゃ無理だぞ」
花は呆れてそう言った。花の家は、街の東の通りの突き当たりである。
「俺は、押せば倒れる小娘じゃないぞ。それに俺なんか誘拐しても金は入らないけど、そっちは亜蘭亭の主人だろ。この時間なら、追い剥ぎだっているかも」
「駄目だ。反論は聞かない。最近は特に、夜は物騒だから」
「だからそう言ってるだろ……おいちょっと、……蘭!」
呆気に取られる花を置いて、蘭は先に歩き出す。
彼には、腰が低く柔らかい見かけからは信じられないくらい、頑固な一面がある。その頑固さは影音を彷彿とさせる。
先を行く背中を見つめ、開いた口が塞がらなかった。一体自分がどういう扱いを受けているのか、もうさっぱり分からなかった。
蘭といい影音といい、どうして自分の周りには、こんなふうに混乱させる人間しかいないのだろう。
途方に暮れた足で歩き始めたが、数歩も歩くと、広い背中にぶつかってしまった。その背中で鼻を強かに打つ。
「痛いなもう……。急に止まるなよ」
突然立ち止まった背中に向け、花は非難の声をあげた。
蘭は動かず、何も言わない。
背中越しに前を見ようとした花に、彼は突然振り返った。
「……残念」
一言、短くそう呟く。
そして奥の暗闇の中から、蘭とは違う声がした。
「花」
声がしたのは、裏口へ入る道の手前らしかった。そこにはまるで漂う夏虫のように、暗闇に提灯の赤い火が灯っている。だが見えるのは提灯だけで、その人物は闇に紛れている。
「影音?」
その声を花が聞き間違えようがない。義兄、影音の声だった。
近づいても、影音の手のひらがぼんやりと闇に浮かび上がるだけで、衣服すら見えてこない。それは彼が、黒に近い服を身に纏っているせいだ。夜になると紺の服は、黒よりもすんなり闇に紛れてしまう。
「送り狼になり損ねた」
蘭の小さなその呟きは、花の耳には届かなかった。
すぐ傍まで近づくと、それはやはり影音だった。花が来たのを見てようやく、壁にもたれていた背を離す。
「遅くまで引き留めてすまなかった」
謝罪の言葉を口にする蘭には目もくれず、影音が花に顎をしゃくった。早くしろ、ということだ。あからさまな無視だった。
どちらの味方も出来ず困る花に、蘭は微笑んで小さく肩を竦めて見せた。気にしてないと言いたいらしい。大人の対応だ。
「帰るぞ」
頭の痛い現実に胸の冷える思いをしながら、蘭に挨拶しそこで分かれた。
帰り道は、とにかく気まずかった。
花は違うが、影音の機嫌が悪い。片方の機嫌が悪いと、慣れた道も普段より長く感じる。
機嫌の悪い影音のことはよく分かっている。こういう時は無暗につついたりしない方が良い。火に油を注いで、花も花で後に引けず、結果大惨事になるのが落ちだ。過去にも何度かあった。同じ轍は踏まないに限る。
蘭のどこがそんなに気に入らないのか、花にはさっぱり分からない。
亜蘭亭の主人で、物腰も柔らか。金持ちだが、嫌な感じはまったくしない。街の誰に聞いても、彼のことを悪く言うやつはいないだろう。物乞いだった親子の家を世話したり、影音の知り合いも店で雇ってくれたりもしている。
仲が悪いというより、影音が一方的に蘭のことを敵対視しているのだ。話かけられても無視するし、目すら合わせない。
いや、そもそも彼は、蘭がいるところへ近寄ろうとはしない。事あるごとに蘭を避けている。思い当たる節がありすぎて、頭が痛い。
最初の頃は、どうにか仲を取り持とうとした。
会話を繋ごうとしたり、共通点がありそうな話題には、さりげなくそれを振ってみたり。
しかし何しろ影音の頑固さは、筋金入りである。昔から彼の眉間の皺は深かった。年を重ねるにつれ、その皺は深まるばかりだ。
「家に届いた植木は、何で枯れたか聞いたのか」
家まで残り半分まで来たところだった。長い沈黙の末に、ようやく影音が口を開いく。彼は歩みを止め後ろを振り向いた。
家に帰っても続くであろう気まずさにげんなりしていた花の顔が、途端明るくなる。
「聞いた聞いた。それがさ、妙な話なんだ」
美人館で聞いた植物の話と、李香の失踪の話を影音に伝えた。彼は聞きながら、何かを考えているようだ。
「そういや、あの娘 の意識はもう戻ったのか」
影音は首を振った。
「まだだ。まだしばらくはかかりそうだ」
「そっか……」
二人分の砂利を踏む足音だけが、暗く伸びる道で反響していた。
見上げた空には、猫の目のような弧を描き、触れると痛そうな三日月が出ている。先ほどから雲の影が、地面を横切っては消えていた。
この時間だ。住居の明かりもまばらで、行き交う者は少ない。途中、千鳥足の二人組の男とすれ違っただけだ。
家に向かう道中は、夜はいつもこんな感じだった。家のある、東の平長屋の一番端っこ、路地の突き当たりまで、灯りと言えば、まばらな軒下の提灯だけ。この辺りは店も少ないので、それも仕方ない。普通の家には、家の外に灯りをぶら下げる余裕はないのだ。
暗闇が道を支配すると、自然と強盗や追い剥ぎをする者が現れる。
だから花が夜遅く出歩くことを、影音は好まない。いくら花が訴えても、大の大人になっても、まるで子どもか、年頃の生娘扱いだった。
「なんで意識が戻らないんだろ……。やっぱり首を絞められた時間が長過ぎた……とか?」
「髭爺の話だと、首の索痕は直接の原因じゃないらしい。怪我もないし、体もどこも異常はない。ただ、まるで魂が抜けているようだと言っていた」
「そういう、人間の魂を食う悪鬼の話、聞いたことある」
人間の肉を好んで食べる鬼がいるなら、魂に食指を動かされる鬼もいる。幸運にも、花はどちらもまだ見たことがなかったが。
「まさかほんとに鬼が……?」
街に鬼が出たとなれば、街から出ようとする住人たちで埋め尽くされる事態になる。
鬼の姿は、もう何十年も人里では確認されていないと聞く。それが再びこの辺境の街、白百利で……。
だがその恐ろしい花の妄想は、すぐに影音が打ち消した。
「あれから考えてたんだが、俺たちが見たのはおそらく、蟲と呼ぶものの一種だ。前に一度見たことがある。人の怨みや妬みから生まれる祸津獣 の一種で、人間の負の感情を糧に動く」
「祸津獣……」
花には初めて耳にする言葉だった。
「ただ蟲自体は、あんなふうに人間を襲うのは珍しい。襲うとしても、糧である個人の負の感情を吸うくらいだ。おそらく、呪術で蟲を操った者が裏にいる。賢者ですら長い間見ていない鬼が、こんな場所に現れたと考えるより、呪術を使える者が蟲を使って襲ったと見た方がいい」
「もしその蟲が呪術で操れるなら、呪術法器を使えば人間でもできるよな」
「ああ、おそらくな。人間の恨みや妬み、そういう類いは強力な動機にもなる」
「法器の類いなら、蘭が何か聞いたことあるかも……」
言ってからしまったと思ったが、時既に遅し。
恐る恐る見た影音の顔は、あからさまに顔を顰め不快そうだ。
「奴には不必要に関わるな。何度も言ったはずだぞ」
さっきより随分と低くなった声で、唸るように言う。
「あの店でいつまでも働く必要もない。美館だけにしろ。稼ぎの少ない仕事でも、食うものには困らないだろ」
これにはかちんとくるものがあった。影音も自分の失言にすぐ気づいたようだった。
「……そういうつもりで言ったんじゃない」
しかしもうその台詞は、花の怒りに点火した後だった。
「確かに、他人と違って、飢えることはねぇよ」
食べないから、腹が空く感覚も知らない。餓えはもっと分からない。確かにそれは、貧乏な暮らしには、この上ない幸運な体かもしれない。だが……。
「大体、自分が人間かどうかすら分からないしな」
握った拳に爪が食い込む。怒りが湧き出すのを何とか抑えようとしたが、だが無理だった。
最近は、似たようなことで頻繁に言い争いになった。もちろん蘭のことだ。何かの話が不意に彼のことに繋がると、影音の不興を買う。そして言い合いになると決まって影音は、亜蘭亭の仕事を辞めろと花に言う。そうなると花も黙ってないため、喧嘩は段々と激しくなるのだ。
「……言っただろ。そういうつもりで言ったんじゃない」
影音が深い溜め息をつく。何度も繰り返される言い合いに、彼も相当疲れていた。
「……帰るぞ。話は帰ってからだ」
向けられた背中を見つめ、花は暫くそこに立っていた。そして後を追う。
最初にすれ違った時の溝は、ほんの少しだった。だが溝はどんどん広く、深くなりつつあるのをひしひしと感じる。
影音が、まるで知らない人のように思える時がある。ずっと隣でその姿を見てきたのに。
最近の彼は、隣にいてもとても遠く感じる。
花は夜空を見上げた。
雲が流れ、三日月を隠す。
暗闇に慣れた目が、煌めく星々を捉える。
一時後、星は滲み、やがて雲がそれも隠してしまった。
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