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chapter 11 Let’s Talk And Listen To 李香

 影音は髭爺の茶屋で椅子にもたれ、茶を啜った。険しい眼が辺りを刺すように移動する。  その視線の先にいるのは花だった。給仕姿で前掛けをし、席を囲む客たちと談笑して笑い声を上げる。影音の視線がその客に突き刺る。もしも視線で人を刺し殺せるなら、影音はこの場で大量虐殺犯になったはずだ。  花の前掛けは桃色だった。いつもそれを使っているのが娘だからだ。銀色の刺繍が施され、動く度に煌めく。移動すると、細い腰に余った長い紐が、まるで優雅な蝶のように舞う。  茶屋の席は客で埋まっていた。その中を行ったり来たり忙しい。影音の席へ茶と粥を届けてから、花は一度も戻ってなかった。  花も影音も、茶を飲むためにわざわざここまで来たわけじゃない。当初の目的は、裏の診療所だった。しかし普段から働いている茶屋の給仕が、病気のため今日休みを取った。簡単なものなら髭爺自身で調理も出来るが、給仕がいなければあの年には堪える労働である。丁度腰も痛めていた髭爺が、休館日の札を掛けようとした所へ、運良く花と影音が現れた。 「なんだ。そんなことなら俺がやるよ給仕くらい」  そもそも病み上がりの影音が一緒に来ることを渋っていた花だったので、手伝おうとした影音は有無を言わさず椅子に座らされた。  その影音だが、始めは不安そうに花の給仕を見ていた。不器用な花が茶器を割り、短気で客を殴ったりしないか心配だったのだ。だが実際はそのどちらの心配の種も花咲くことがなく、別の種が咲いていた。 「なぁ、ありゃ誰だ?髭爺んとこの娘か?偉く美人だなおい」 「娘?髭爺に娘なんかいないぞ」 「でもほら、見ろよ。美人だぞ偉く」  言われた男が、友人の視線の先を追って茶を吹き出す。しばらく咽込んだ後、男は含み笑いで言った。 「違う違う。ありゃ男だ。男でも良いなら好きにしたらいいが、追っかけるだけ無駄だぞ」 「あ、そりゃまたなんで。もう決まったコレがいるのか?まぁあれだけの美人なら不思議でもねぇが……」  男は友人に近寄るよう目配せした。近づいた耳元に、ニヤつきながら囁く。 「亜蘭亭の亭主、知ってるだろ」 「ああ、あの物腰の柔らかい男だろ。知らない奴なんかいないだろ。何てったけか?……ああ、蘭大人(ランダァレン)!特に女の奴らときたら、毎日毎日、店の前にみっともねぇったら。俺の女房まで、用もねぇのに毎回店の前を通る始末だ」  友人は悪態をつきつつ、実のところは、女房の浮気心に拗ねているようだ。男もそれに同情する素振りを見せた。だが話はまだ終わりではない。 「でな、ここだけの話だが、その蘭大人の女じゃないかって、もっぱらの噂だ」 「何だって!?あの優男の?奴はそっちの趣味があるのか」 「しッ。馬鹿野郎。声がデカい」  打たれた友人が頭を摩りながら、給仕姿の花を盗み見る。先程とは少し色を変え、その視線は目に見えていやらしさを含んでいる。 「……おい何想像してんだ」 「あの細い腰がたまんねぇと思わねーか」 「はっ、俺は男になんざ興味ねぇぜ。いくらあんなに綺麗だろうと……」 「見ろよあの引き締まった尻……」 「……確かに言われて見れば、」  ダンッ!  突如食卓の上に置かれたのは、頼んでもいない品の乗った皿だった。置かれた勢いで、皿は卓上で激しく踊っている。乗っていた漬物は散らばり、幾つかは卓上に転がった。給仕したのは見目麗しい男……ではなく、黒よりも濃い紺色の衣服に身を包む、鋭い眼をした若い男だった。 「なっ、俺たちは客だぞ!一体何してやがる」  袖を捲ろうとした男を、友人は慌てて止めた。 「何すんだ。こんなクソガキ俺が一発で伸してやる」 「止めろ。伸びるのはお前の方だぞ。知らないのかその腰の剣」  どこか恐れるように、友人は影音の腰の踊跃を見た。いきり立つ男に声を顰める。 「妖剣だ。間違いない。その剣に触れただけで、気が狂っちまうぞ」  妖剣と言われた踊跃が、不服を訴えるように震える。それを見た二人の男は震え上がった。逃げるように店を出て行く。  ある時は霊剣と褒められ、またある時は妖剣と忌み嫌われる。おかしなものだと、影音が皮肉に笑う。 「――影、音」  振り返った影音には、仁王立ちで腕を組んだ花が説教を用意して待っていた。 「大人しくしてられないなら、芽依の馬車に乗っけてもらって、家に帰すからな。いいか、芽依の馬車でだぞ。長屋に、あの馬車で帰ってもらう」  芽依の馬車は、その派手な色と装飾で、街では知らない者はいない。そんな馬車で長屋に乗りつければ、明日影音は、長屋中のみんなから質問攻めに合うことだろう。  影音はすぐに反論した。 「大人しくしてるだろ。大人しくなり過ぎて、いい加減おかしくなりそうなくらいに」 「安静にって意味だよ馬鹿。そもそもどうしても連れてけって言うから連れてきたけど、言うこと聞かないなら、毎日の薬湯をひとつ追加するぞ」  凄く苦いやつ。  そう付け加える。影音がグッと言葉に詰まったのを見て、花は勝利を確信し鼻を鳴らした。 「とにかく俺が終わるまで、そこで大人しく茶でも飲んでろ」  その茶も名ばかりで、実は薬湯だ。だが余計なことを言ってまた薬湯を追加されても困る影音は、大人しく椅子に座った。 「ったくもう……」 「ふふ」  聞こえた女性の忍び笑いに花が振り返る。目が合ったのは若い娘だった。友人たちと楽しく喋っていたらしい。花と目が合うと、娘は顔を真っ赤にして俯いてしまった。 「悪いな。騒がしくして」 「いいのいいの」 「そうそう。全然、気にしないで」  娘たちはこぞって、俯いた子の代わりに返事をする。そのうちの一人が躊躇いがちに聞いた。 「あの 帅哥(シュアィガ)、聞いてもいいかしら」 「おう、なんだ」 「あの、紺色の着物をきた方とは、お知り合いなの?」 「ああ、影音だろ。俺の義兄だ」  途端に黄色い悲鳴が上がった。花は驚いて、もう少しで手の物を落とすところだった。 「しーしーしー。こら、変に思われちゃうじゃない」  娘たちは興奮した様子で影音の方を見た。しかし彼が視線に気づいて振り向くと、人の気配に驚いて草むらから飛び立つ鳥のように、一斉に花の方を向いた。これには花も後ずさった。 「な、なんだ一体」 「哥哥、教えて。あの哥哥には既に射止めた相手がいるの?」  上品な言葉遣いも一転、花に尋ねる女の圧が凄い。 「い、射止めた?どういう意味だ?」 「そりゃあんなに男前なんだもの。女の方が放っておかないわよ絶対」 「そうよね。でも見て……」  娘たちは揃って悩ましいため息を吐いた。 「男前……」  何が何だか分からんが、ここにいたら駄目だ!  その席から早く立ち去ろうと決めた花の袖口を、細い指が遠慮がちに掴んだ。 「あ、あの、」  先ほど目が合って俯いた娘である。勇気を出して花を見上げたものの、やはりその顔は耳まで真っ赤だ。 「ん……?あんた、熱があるんじゃないか?」  言うより早い手が娘の額に触れる。給仕をしていたせいでその指は冷たい。気づいた花は慌てて謝った。 「悪い。冷たいよな俺の手。今、訳あって、熱冷ましの薬草を持ってるんだ。茶にして持ってくるから、ちょっと待ってろ」  娘の頭上でボンっと音を立てる、湯気が見えそうだ。だが鈍感な花が、娘の頬を熱くするのが自分だということに気づくはずもない。  娘はきっと、切羽詰まって混乱していたのだ。  真っ赤な顔で勢いよく立ち上がり、呆気に取られた友人たちも目に入らず、立ち去ろうとした花に娘はこう言った。 「け、け、」 「け……?」 「け、結婚してください!私と!」  声は叫びに近かった。店内が一気に静まり返った後、ドッと店を揺らすような笑いが起こる。 「穣ちゃん、そいつはやめときな」 「そうだぞ。そいつと結婚なんてした矢先にゃ、ガキ拵える前に、長屋のガキんちょどもと一緒に大所帯で暮らす羽目になるぞ」 「旦那の浮気の心配だけじゃなくて、旦那の尻を狙う奴の心配もしなきゃならん」 「言えてらぁ」  下品に笑う連中は、認めたくないが花の知り合いである。悪口と言うより口が悪いだけの連中なので、花は呆れながら黙るよう手で言った。  目の前の娘は可哀想な状態だった。手も足も震えている。勢いに任せて言ったものの、恥ずかしさで今にも倒れてしまいそうだ。  花はとにかく娘を座らせた。友人たちも娘を慰めていたのだが、店内が元に戻ると、俄然愉快さが優ってきたようだった。 「あの奥手の優優(ヨウヨウ)が、まさかこんなに大胆なことをするなんて」 「情熱は人一倍なのよこの子」 「愛は人を変えるのね」 「あのね、彼女はずっと前からあなたのこと知ってたの」 「俺のことを?」 「ええ。昔、柄の悪い男たちに難癖つけられたところをあなたに助けて貰ったんだって。それ以来、街であなたの姿を見ると、ずっと声をかけようとしてたわ。でも出来なかったのよね、優優」  娘はまた俯いてしまった。 「今日は茶屋であなたの姿を見かけて、勇気を出して中に入ったの」  それを聞いて一旦その場から去った花だったが、湯呑みと茶請けを手に娘の卓に戻ってきた。 「俺の奢りだ。飲めば落ち着く」  湯呑みには、小さな花びらが一枚浮いている。塩漬けした花びらだった。茶請けとよく合う。 「……ごめんなさい」  娘の目に溜まった涙を見た花は酷く慌てた。 「気にするなって。俺は男だ。可愛い娘に結婚しろと言われて、喜ばない男はいないだろ。な?それにここの連中は、三歩歩いたら何もかも忘れる奴ばっかだ」  気にするなと、何度も言って繰り返す。  店の常連からは文句が飛んだが、花は目の力だけでそれらを黙らせた。  娘は益々そんな彼のことを好きになりそうだった。見た目を裏切らない、心の温かい男である。勇気を出して話しかけて良かった。娘がそうして幸せを噛み締めていた時だった。  残りの娘たちが突如、自身の口を押さえ悲鳴を飲み込む仕草をした。花が怪訝に思っていると、後ろからぬっと伸びた手に腰を引かれる。 「わっ、」  大勢を崩して相手の胸に背が当たる。花は影音より背が低い。状況を理解した途端、恥ずかしさが一気に駆け上がってくる。相手の鎖骨に当たった花の頬は、先ほどの娘にも負けないくらい赤かった。 「芽依が呼んでる。行くぞ」 「あ……?ちょっ、」  影音は花の腕を掴み、娘たちには目もくれず店の奥へ引き連れて行く。花はその背中に呆れ果てた。 「若い娘に愛想売っても、罰はあたらないぞ。俺はともかく、お前は……あれだろ。女も大丈夫だろ」  急に立ち止まった広い背中に、今度は鼻からぶつかる。痛みに呻いて顔を上げと、こちらを見下ろす瞳と目が合う。その冷たさに花は怯んだ。 「女を抱けるなら女と寝ろって?」 「っ、そんなこと言ってないだろ」  誰が聞いてるとも知れないこんなところで、言い争う話題ではない。危険を察した花は無理矢理影音の体を反転させた。 「芽依を待たせると後が怖い。行くぞ、ほら」  芽依は奥の部屋で椅子にもたれ、ぼんやり庭を眺めていた。花たちに気づき軽く頷く。立ち上がる様子もなく、どこか疲れて見えた。 「小影まで来たのかい。……ああ、そうだった……。あんたが助けてくれたんだったね、李香を」  呟いた芽依が深く息を吐く。花は先ほど茶屋の客に出した薬湯を入れ、芽依に差し出した。そろそろ昼時である。芽依がこれほど早く来るとは思ってなかった。目の下には大きな隈がある。あまり寝ていないのだ。 「今日も館は開けるだろ。大丈夫なのか。来るの、夕方でも良かったのに」 「大丈夫だよ。……悪かったね」  最後の言葉は影音へのものだった。 「まさか魔物に連れ去られてたなんて、思いもよらなかったよ。てっきり男に騙されて、何処かで野垂れ死んでるものとばかり……」  街の者たちには、影音と楊が柳南州で戦ったのは、かつてないほど凶暴な魔物だと言ってあった。鬼が出たなどと言って、街を混乱に陥れたくなかった影音の意図がある。  芽依も巷で流れる噂を信じているひとりだ。話を合わせる必要があった。 「こんな街中まで魔物が現れるなんて、誰も思わない。結界からも遠いしな。たぶん、柳南州の向こうの結界から入って来たんだ」 「柳南州の村は酷い有様だったって?もう噂が広まってるよ。何でも弔いをしようにも、遺体がどうにも何かから外せないとか何とか……。ありゃ事実なのかい?あんた、見たんだろう小影」  花も思わず影音を見た。だが壁にもたれた影音はそれについて何も言わず、静かに庭に目をやる。世の中には知らずにいる方が良いことがある。その目はそう言っているようだった。 「結界のほつれはそんなに酷いのか」  花は話題を変えた。 「弱ってるのには違いない。半世紀近く、色々な人間が修復しながら使ってるんだ。弱りもする」 「お前も修復したひとりだもんな」 「お前も力を貸しただろうその時。忘れたのか」  忘れてなどいない。ただ、花の力は影音の足元にも及ばなかった。修復なんて言ったところで、花が出来たことなどたかが知れている。  柳南州には数年ほど前まで柳嵐という大きな街があり、その周囲には村や集落も多かった。だが結界の弱まりが酷くなり、魔物が街に侵入し人を襲うようになると、あっという間に出ていく人で街は閑散とした。  付近の霊山の結界を修復しに行ったその時は、影音と花だけでなく他にも数名の力を使える者たちがいた。完全な奉仕作業だったにも関わらず、彼らが懸命に結界修復に力を使うのを見た花は、己の無力さが恥ずかしかった。結局そんな努力も虚しく、街の人々は柳嵐を捨てることを選んだ。 「あんたたちにそんな芸当が出来るなんてねぇ……。生きてりゃ樂樂も喜んだだろうに」  珍しくしんみりと芽依がそう言う。 「会ったのか。李香に」 「まだだよ。先生があんたたちと一緒の方が良いって言うから、待ってたんだ。でもなんでだい?そんなに酷いのかいあの娘」 「擦り傷と打身があるけど、命にかかわるようなものはないってさ」  芽依はほっとしたようだった。 「でもあんまり怖い思いしたから、ちょっと混乱してるらしい。俺たちも会うのは事件以来初めてなんだ。それで馴染みの顔が居たら、李香もちょっとは落ち着くんじゃないかと思ってさ」  丁度そこへ髭爺がやってきた。花と影音を見て頷く。寝所へ入る許可が出たので、立ち上がる芽依に手を貸し寝所へ向かう。 「……先生は来ないのかい」 「茶屋に人手が足りないんだ今日。……まぁ、爺さんが店に出たら客もすぐ減るだろ」 「相変わらず口が悪いのかい」 「芽依に負けず劣らずな」  軽口を叩きながら部屋の前に立った。中からは何の音も聞こえない。 「李香、ちょっといいか。芽依を連れて来たんだ」  何の反応もない。中へ入ると李香は寝台に居るようだった。寝台の帳降りている。どうやら布団を頭まで被っているらしい。帳の向こうの布団が盛り上がっている。 「香香(シャンシャン)。私だよ。芽依だ」  芽依が待ちきれず帳を上げる。寝台に座るのを感じた李香が、布団の中でビクリとしたのが分かった。 「香香……」  根気よく名前を呼んでいると、遂に李香は布団の中から顔を出した。だが芽依を見た途端、悲鳴を上げてその身をつき飛ばし、寝台の隅で蹲る。突き飛ばされたことに衝撃を受け、芽依は固まった。 「大丈夫か」 「……あ、ああ……。驚いただけだよ。どうしたんだいこの娘は。私のこと、忘れちまったのか」 「忘れたわけじゃないって。言っただろ。混乱してるだけなんだ。怖い思いしたから」  花がそう断言出来るのは、昔自分が暴漢に遭った際似たような経験をしたからだ。襲われて初めて痛みの発作を起こした時、家にも無事帰り、その日は大丈夫だった。だが次の日から数日は、こんなふうに布団の中から出られなかった。心配した樂樂があれこれ手を尽くしてくれたのに、結局一番救いになったのは影音の存在だった。 「……花?」  李香が突然花の名前を呼んだ。驚いた花が近寄ると、恐る恐る花を見上げる。そして花であることを確認すると、また布団を被った。 「李香?思い出したのかい?」  近寄ろうとした芽依を影音が引き留める。  二人が寝台から離れるのを待って、花は声をかけた。 「李香、俺を覚えてたのか」  李香と会ったのは数回である。さして特別な会話をした覚えもない。悠铃(ヨウリン)の側で静かに控えているのを覚えている。  影音と目配せし、再び寝台に腰を下ろす。 「俺は館で庭師まがいの仕事をしてるだろ?前に悠铃に頼まれて、花を届けたことがあるんだ。悠铃は薔薇が好きだけど、でも悠铃は、花は見るより菓子にして食べる方が好きなんだ。次の週行ったら、茎を残して全部薔薇の花びらがなかった。信じられるか?全部だぞ。俺が呆気に取られてたら、あの綺麗な面で恥じらいながら、蒸菓子に入れたら、綺麗なうえに美味しくってつい……とかって。俺はあいつが妖怪の類いじゃないかと、一瞬思った」 「……私もそれ食べました」  消え入りそうな声が布団の中から聞こえる。花はほっと一息つき、話を続けた。 「あれ以来、悠铃に花を頼まれた時は、出来るだけ美味しそうなものを選ぶようにしてるんだ。花を美味しそうかどうかで選ぶなんて、初めてだ」  布団の中で李香が少し震えたのが分かる。どうも笑ったらしかった。 「もし悠铃に会いたいなら、呼んで来てやる。悠铃も心配してるから、お前に会えるなら喜んで来てくれる」  花は声を落とし優しくそう言った。もそもそと布団が動く。李香はゆっくりと顔を出した。顔色が悪く目の下の隈も酷い。髪は乱れて絡まり、ところどころ逆立っている。 「こっちにおいで。髪を梳かそう。その髪のまま会わせたんじゃ、俺が殴られそうだ」  花は持っていないので、芽依から借りた。櫛を見せると、李香はおずおずと花の傍へ来た。水で櫛を濡らしながら髪を解いていく。器用でない花は何度か髪を引っ掛けてしまい、その度に李香に謝った。 「……よし。元通りだ。あっと、紐、紐……悪い。俺ので我慢してくれ」  自分の髪から紐を解いて李香の髪を結う。李香は髪を結い、少し落ち着きを取り戻したようだ。  薄い帳越しに、花の長い髪が揺れる。知らない者がこの光景を見れば、まるで姉妹で戯れているように思うだろう。  影音は先ほどの花との会話を思い出し、渋い顔になった。花は確かに「女」的な顔で、体も屈強と言うには遠い。だがだから花に惹かれ、その体を抱きたいと思うのかと聞かれれば、迷うことなく否と言う。では男に魅力を感じるのかと言えば、そうではない。そんな複雑な自分の思いに混乱する。  花が帳を上げた。芽依がそこにいるのを見て、あっと言う顔をする。今気づいたという感じだった。 「姐姐」  驚いたことに、芽依は目を潤ませて李香を抱きしめた。 「命があって良かったよ。これであんたに死なれちゃ、元値も取れやしない。しっかり働いて稼ぐまで、死ぬのは許さないからね」  言うことはどうも頂けないが、彼女が心配していたのは間違いない。李香もそれを分かっている。李香はまるで母に縋るように、芽依の肩で声を上げて泣き始めた。 「ようやく泣いたか」  いつの間に来たのか部屋の部屋の前から、髭爺はその感動的な場面を見ていた。 「泣くのが一番の薬な時もある。覚えとくんじゃな」  言われた花は困惑して影音を振り向いた。 「なんだあれ。俺に言ったのか?」 「……出よう。しばらく二人きりの方がいいだろう」  気を利かせた影音に押されて部屋を出る。芽依と李香は互いに涙を拭き合い、化粧していた芽依のその悲惨な顔にふたりで泣き笑いしている。もう大丈夫そうだ。 「李香は何か知ってると思うか。あの鬼について」 「あまり期待はしてない。恐怖で忘れたことも多そうだしな、あの様子だと」 「そもそも知ってどうするんじゃ」  髭爺は少し怒っているようだった。 「死にかけた側から、また儂の仕事を増やしに行くのか」  それは花も気になっていた。今回は結果五分五分になっただけで、次に会って勝てるとは思えない。今後どうするのか、影音と話さなければいけないと思っていたところだ。 「奴は蓋海に帰っていったんじゃろ。放っておけ」 「確かに結界を修復するのが先かもな」 「奴が蓋海に入ったところは見てない。結界の方向へ飛んでいったのを見たにすぎない。確実にそうだと分かるまでは、油断すべきじゃない」  影音の言うことは一理あるものの、どこかいつもと違う声音を感じた。何かを隠しているような気がする。 「なんでそんなに気になってんだ、その鬼のこと。村の人を殺したから?それとも強いからか?」  影音は目を逸らして言い淀む。隠し事がある時いつも、彼はこんなふうに花と目を合わせようとしない。 「何を隠してるんだよ。言えよ。言わないなら、楊に聞くからな」  何故ここで楊なのかと言えば、楊が花に負けるのが確実だからである。影音も分かっているので、これには降参の溜め息しか出ない。  影音が仕方なしに話そうとした時だった。芽依が部屋から二人を呼んだ。 「誘拐された時のこと、話してもいいそうだよ」  芽依は館の仕事があるため、李香の体調が良くなったら迎えに来ると言い残し、そこで帰っていった。 「つらくなったら、途中で止めてもいいからな」  頷いた李香の顔には血の気が少し戻っている。少し前までまるで死人のような顔だったことを思えば、大きな回復だ。これでよく食べて眠れば、すぐに元の彼女に戻るだろう。 「誘拐されたのは、館にいた時だよな」 「はい。寝所の棟の自分の部屋に戻った時でした。寝ようとしたら、虫が飛んでいることに気づいて……。それでもし窓が開いてるなら閉めなきゃと思ったんです。姐姐さんたちが寝るのに、陽が入るの凄く嫌がる人もいるから」 「窓を閉めに行った時に襲われたのか」 「たぶんそうだと思います。窓を閉めようとして、突然真っ暗になったのを覚えてるので……。体が浮いた気がしたけど、でも何も見えないし……。その後は、自分がどこにいるのか、生きてるのか死んでるのかすら分からないような真っ暗闇がずっと続いて……」  思い出して震えた肩を髭爺が宥めた。 「もう心配ない。安心せい」 「虫を見たと言ったよな。どんな虫か覚えているか」 「音がしただけで、見てはいないんです。蜂のような大きな羽音でした。……あの、あちらの方は?」 「影音だ。俺の義兄。大丈夫。見た目より怖くないから」  影音は李香の近くには寄らず、壁にもたれて目を閉じ腕組みしている。花の声に一瞬目を開けるも、愛想の欠片もない。怖い思いをした若い娘がいると言うのに、きつい眼差しも相変わらずだ。  しかし彼のその姿に李香が頬を赤く染めたのを、髭爺は見逃さなかった。死ぬほど怖い思いをし、ろくに食えず眠れず、そんなすぐ後でも、若い男に頬を染められる。若いとは何と愚かで羨ましいものかと、髭爺は感慨に耽った。 「それで、気づいたら村にいたんだな」 「はい。村だと気づいたのは随分と後ですけど。一体何日経ったのかも分かりません。お腹もすかないし、眠たくもならなくて……。私、自分が死んじゃったんだと思って……。そしたら急に暗闇が晴れて、目の前にいたのがあの……」 「鬼だったわけだな」 「鬼……?」  李香はその言葉を理解できない様子だった。無理はない。もう生きている人間の誰も見たことのない鬼が突然泥海に現れ、自分を襲い攫ったなんて、理解できなくて当然だ。 「鬼……のように強い魔物だ」  花は苦し紛れにそう言った。李香は不思議そうな表情をしたものの、それ以上追及はしなかった。 「魔物……、あれがそうなんですね。私、初めて見ました。あんなに人間と姿が変わらない魔物がいるなんて……」 「奴は強いんで、人型になるのも上手いんだ。……な?そうだろ影音」  苦しい言い訳をする花にも、影音は目をくれただけで助けにならない。  この世界に人が結界を張るようになるまでは、魔物も鬼も人も混ざり合って領域を争っていた。結界が敷かれるようになってからは、街で暮らせばそんなものに出会うことの方が少ない。  あまり適当すぎることを言えば、聡い彼女には嘘だとばれそうだ。しかし本当のことを言うわけにもいかない。  ついに何の助け船も出さない影音を睨んだ花だったが、まったく違うことを考えていた影音は突然言った。 「奴が何のためにお前をあの村に連れて行ったか、知っているな」  影音の言葉に李香がびくりと反応する。非難の眼差しを向けた花は、しかし彼が何か確信めいたものを持っているのを知り、黙った。  影音がもたれていた壁から背を起こす。 「奴は村人を殺して、お前に嬉しいかと聞いていた。お前が村人を見返したいと言っていたと」  花は初耳である。李香が激しく首を横に振る。細い指が布団を強く握り締め、目には涙が浮かんだ。 「違うの。違う……。私はそんなこと言ってない。あの村は柳南州にある村だと後で聞きました。私はそんな村に行ったこともない。どうしてあの鬼がそんなことを言ったのか、私には分からない」 「落ち着けよ。お前を責めてるんじゃないんだ。言い方が悪いだけで、影音だってそんなこと思ってない」  最後の方は、傷ついた若い娘に容赦ない影音へ向けられたものだった。睨まれた本人は肩を竦め、再び壁に背を預ける。もう少し思いやりを持てよと言いたかったが、声にならない文句は既に影音にも伝わっている。 「お前はどこの生まれなんだ?この街なのか」  李香は力なく首を振った。 「生まれたのは、ここから北西にある小さな村です。でも両親は疫病で、まだ私が幼い頃に死んでしまいました。生活に困っていたら街で商いを営んでる人が来て、私を街に連れて行ってくれました。娼館で働くのはどうかと言われて、身寄りもない私にはそれしかないと思ったから……。しばらくしてその街に大姐が館に来て、私をこの街の館に引き取ってくれたんです」 「お前が生まれた村の人たちは、助けてくれなかったのか」 「助けるどころか、何も与えてくれませんでした。仕事をしても、貰えるのは一日一杯の粥だけ。子どもだから大していい仕事も出来ないし。汚いって蹴り飛ばされたこともしょっちゅうだった……」 「大変だったんだな」 「北西では数年おきに疫病が猛威を振るい、大勢死んどる。残念じゃが、貧しい小さい村では珍しくない。いつも真っ先に、犠牲になるのが子どもと年寄りじゃ」 「大人たちも自分の家族と生きてくのがやっとだったから……。当時は恨んだけど、今なら分かります」 「それはお前さんが、少なくとも今幸せだからじゃ。良かったの」 「……はい。私もそう思ってます」  花は何か引っかかるものを感じた。蟲は穢れている。そして穢れが魂に触れた人間は気がふれおかしくなる。穢れとは人間がみんな等しく持っているもので、蟲に共鳴する部分があるのは当たり前だと前に髭爺が言った。 「あのさ、闇に閉じ込められてた間、なんか見たか?例えば……夢、とか」 「……そう言われてみれば、確かに見たような……。私は自分が死んだと思ったから、これが走馬灯なんだって思ったけど。両親のこととか、辛い生活のこととか……。それに比べたらこの街に来てからは、まるで天国のような生活だったから、大姐の顔とか姐姐たちが優しくしてくれたこととか、色々なことが一気に右から左に流れてるのを見てる感じだった。そういうのって、死ぬ間際に見るって言うでしょ?違うかな?」  蟲はその李香の記憶の感情を盗んだに違いない。蟲から伝わったのが間違いだったのか、鬼が間違えたのか、それともわざとなのかそれは謎だが、いつか自分を卑下した村人を見返してやると思った過去の恨みが、時も場所も人も違うところで、鬼により果たされてしまった。  花は導いた答えを言わなかった。李香には何の責任もない。村人が死んだのは李香のせいではない。そんなものを背負わせるのは可哀想だ。 「暗闇が晴れてから、どうしてたんだ」 「ただどこか、たぶん森の中にずっといました。今まで嗅いだことない、酷い匂いのするところだった。何の匂いか分からなかったけど、あれは……村の人たちだったんですね。魔物はあんまり傍にいなくて、ずっと黒い虫が、私が逃げないよう見張ってました」 「怪我は蟲のせいか」 「ほとんどはそうです。鬼が、私が母胎になれるかどうか調べろと虫に命令して、言われた虫が私の体を調べてようとして、地面を転がしたんです。石とか当たって、凄く痛かった」 「母胎……」 「一般的には子を宿す体のことじゃ」 「あ、ああ、うん……知ってるよそんくらい」 「でもあいつは、私の体には触れてません」  李香は強くそう言った。何故か影音のいる方を意識しているようだった。 「お主、まだ店の表には立ってないと言っとったな。これまで想い人はおらんかったんか」 「い、いませんそんな人……。気になる人なら、……いないことはないですけど……」  彼女の視線がちらちらと、向かいの壁に向かう。  どうにも居た堪れない展開になってきた。花は大きく咳払いをした。 「李香、ちょっと休めよ。俺たちもう帰るからさ。ちゃんと食べて、しっかり寝るんだぞ」  帰ろうとした花を李香が引き止める。 「花、また来てくれる?」 「ああ、様子を見にくるよ」  李香は影音の方を気にしながら、あの義兄も?と囁く。そこでようやくそういうことか、と気がついた。花は苦笑して必ず連れてくると李香に約束した。 「何だってこんな不愛想が、若い娘にやたら好かれるんだろ……」  診療所の入り口へ向かいながら、そんなことがつい口をついて出た。横で髭爺が鼻で笑う。 「なんじゃい。妬いとるんか」 「そんなわけないだろ」  そうは言ったものの、釈然としない何かが胸の中にあるのが分かる。  それは「家族」である影音に頬を染める娘たちに対する、くすぐったいような複雑な感情である。しかしその一方で、「影音」に頬を染める娘たちに対する、苛立ちにも似た感情でもあった。  影音とは本当に長い間一緒にいる。その「複雑な感情」について、最近何度も彼と衝突している。その答えまでの道のりが、花には全然見えてこない。見えるどころか、暗く長い洞穴にどんどん、迷い込むばかりだ。とにかく花にとって、それらは不得意な類いの話題である。  いや、今は忘れよう。そんなこと言ってる場合じゃないしな。  逃げだと分かっていても、前に進めないことはたくさんある。  部屋を出て以来どこかに行っていた影音が戻ってきた。どこから取ってきたのか、その手には髪紐が握られている。髭爺の寝室でも漁っていたのだろうか。 「後ろを向け」  言われた通りに向いた花の髪を手で梳かし、あっという間にその長い髪を結う。いつもより低い位置で結われた髪は、まるでどこかの良家の娘のようになってしまった。影音だけでなく髭爺でさえそう思ったが、うっかり言えば何か物が飛んでくるため、言いはしない。 「帰ったら結い直せ」  影音が不服そうに言う。  じゃあ何でわざわざ結い直すんだよ……。  花は困惑しながら診療所を出た。これ以上分からないことで頭がいっぱいになるのは勘弁してほしかった。  帰り道で、李香から聞いた話から推測したことを影音に話した。 「俺も同じことを考えていた。おそらくそうだ。蟲が女の記憶を読んだに違いない」 「分かってると思うけど、それに関して李香は悪くない。今は恨んだりしてないって、言ってたし」 「言うことと腹の内が同じとは限らない」 「またそういうことを言う……」  花が呆れた視線を送ると、影音は鼻を鳴らした。だがそれ以上言わないところを見ると、彼も李香をそんな人間だとは思ってないようだった。 「鬼は蟲から情報を得ていた。橋でお前が助けた娘のことも知っていた。蟲だけがあの場にいたらしいことを見ると、少なくとも奴は街には入っていないようだ」 「入れなかったんじゃないか?この街には護符陣が敷いてあるだろ?」 「あるにはあるが、少し気になっている。一回確認するつもりだ」 「傷が治ってからな」  花は念を押した。 「玲玲のこともあるよな……。それもたぶん同じ理由で攫おうとした。二人の共通点は何だろ」  二人ともまだ十代のほんの子どもだ。鬼にそういう趣味があるならまだしも、子を産ませたいと思うのは、やはり少し違う気がする。 「本当に穢れてないかどうか調べろと、鬼が言っていた。血の池に入れても穢れないかどうか確かめろ、とな」 「血の池?」 「聞いて気持ち良いもんじゃない。そこは聞くな。とにかく、奴は穢れてない者を探している。母胎というのは、必ずしも子を宿すためとは限らないだろう。奴自身、見た目も中身も、まるでガキのようだったしな」  影音は自負心が強い。でも決して自分の力に自惚れたりしない。見た目も中身もガキのようでも、油断したりしなかったはずだ。  弱い者に味方し、強き者を挫く。そんな彼の姿が、長屋の子どもたちの目には英雄に映る。もし影音が院で修行すれば、功績を積んですぐに賢者になるだろうと思う。実際、院への推薦は何度か受けている。しかしその度に興味がないと、彼はすげなく断っている。きっと影音は見捨てられないのだ。街の仲間を、そして住んでる人たちを。そして何より、唯一の家族である花を。 「奴はまた街に入ってくる」  固い声に我に返った。影音は立ち止まり、花を振り返った。 「探している穢れのない者が見つかるまで、奴は止まらない」  その重苦しい空気に耐えられず、花が咳払いする。 「あの蟲って、作れるのかな。お前が殺した分、減っただろうし」 「自然に生まれる蟲を待っていたら、数年数十年はかかる。奴がそれを待つとは思えん。……蟲を作りだす法器があると、以前聞いたことがある」 「法器か……。蟲は穢れから生まれるんだろ。じゃあ穢れを集める法器とかか?」 「かもしれない。……用心しろ」 「用心って……」 「街に結界は、奴自身にはあてにならない。俺のいない所で何かあったら、迷わず逃げろ。誰かを守って戦おうとするな」  花は戸惑った。影音の目は真剣そのものだ。 「お前がひとりで残されたくないように、俺だってお前がいないと生きられない」  花は思わず胸に手を当てた。その言葉はまるで花の心を刺すようだった。 「……帰ったら踊跃に祝を送ってくれないか」  沈黙に恥ずかしくなったのか、影音はそう言うとまた前を向く。  しばらく胸を押さえていた花だったが、追いついて横に並んだ。 「祝って、踊跃に移す木の力のことだろ。前から不思議だったけど、何で祝って言うんだ」 「木から力を移す時、祝福されてるみたいだと言ったのはお前だろう」 「そう……だったか?覚えてない」 「その力のお陰で今回命拾いした」 「そうなのか?だったら良かった」  途端ご機嫌になった花がにんまりと笑う。  そんな笑顔を見た影音は影音で、自身の胸が締め付けられるのを感じていた。  守りたい者がいる。何を犠牲にしても誰を犠牲にしても、その笑顔を守りたいと思う。だがその一方で、傷つけてでもこの手に欲しいと思っている。そんな取り留めないことが彼の頭をよぎっていた。 「実はさ、ずっと交渉してる奴がいるんだ。その木が了承してくれれば、すぐにでも出来るんだけど……」 「じゃあついでにもうひとつ頼みがある」 「何だ?その木に頼みなのか?それとも俺に?」  影音は悪戯な笑みを浮かべた。

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