15 / 18

Chapter 15 What The Heck Is This 蟲?!

 楊は丸市にいた。丸市は街の真ん中にある通りで、店や屋台も多く、その賑わいは街一番だ。  街の真ん中、東西南北の道が交わり、市は広く円を描く。住人がそこを丸い市、丸市と呼ぶうちに、それが定着した。  店の前、並んだ簪にふと目がいく。どれも控えめで小ぶりだが、形が凝っている。そのいくつかは、楊の懐にも優しい値段だった。 「よ、男前の旦那。どうだい贈りものにひとつ。これなんか、そこいらにはない一品だよ」  言っておくが、男前に反応したわけじゃない。  簪の前で楊は足を止めた。遠目に惹かれた簪を見つめる。飾りには淡い色の桜の細工が施され、派手ではないが目を惹いた。  最近、楊の妻はご機嫌斜めだ。楊が足を縫う大怪我をして帰った時は、妖狐の方がマシな程怖い顔で怒った後で、涙ながらに看病してくれた。怒ったら恐ろしいが、美人な上に気立も良い。楊は妻と出会った自分の運の良さを、その時改めて実感した。  近所では恐妻で知られたその妻だが、最近やたらと怒りっぽい。いや、妻を知る近所の者たちは、楊に怒る女房はいつもと何ら変わりないと思うに違いない。だが楊には分かっていた。妻の様子がおかしい。  いつもだと、楊が家事を手伝わず寝転んでいると、自分を呼ぶ三回目の声はなく、代わりに大根や蕪が飛んできたりする。  だが一昨日のこと、一回目の名前を呼んだ後生返事をした楊の傍に突如、菜刀が突き刺さった。菜刀は股の間の床に突き刺さり、刃は楊の股の方を向いていた。幸い怪我はしなかったものの、一歩間違えば大事なところが台無しの惨事である。 「何を深刻な顔してるのかと思いきや、何でぇそりゃ。二回目か三回目の違いじゃねぇか」  仲間はそう言って笑った。しかし楊の表情は曇った。  昨日はあらぬ疑いをかけられ、妻は楊の浮気を疑った。 「よりによって、まだ表にも出てない妓女だなんて!」 「違う違う。話を聞いてくれ。李香はあの日大佬と助けた娘だって。仕事で行ったら会ったんで、ちょっと話してただけだ」  夕刻、荷物の配達で美人館に行った際、偶然李香と出くわした。彼女は楊を覚えていて、その節はごめんなさいと楊に丁寧に謝り、大したことも出来なかった楊に礼まで言ってくれた。それを誰かから聞いたらしい妻は、鬼のような形相で帰宅した楊を待ち構えていた。  楊は精一杯誤解を解こうとしたのだ。だが何か言えば言うほど、妻はその言葉を捻って受け取った。ついに匙を投げた楊は、昨夜は仲間の家に泊めてもらった。仕事を終えて家へ帰ろうにもどうも足が重く、こうして市で時間を潰していたのである。 「旦那、嫁にかい?それとも……北の若いので?」  簪の前で足を止めた楊は店主の言葉に苦笑した。白百利で「北」を指す隠語の意味は一つだけ、美人館のことである。その「北」のせいで全く身に覚えのない疑いをかけられた挙句、こうして寒空の下、家に帰れずにいるのである。 「嫁だよ嫁。あー……、これが良いと思うんだよな……」  それは最初に目に留まった、桜の花の細工の簪である。美人な妻の邪魔にならない、控えめな美しさがある。 「良い目してるよ旦那。これで決まりで?」 「ああ。これで」  包み紙を懐に仕舞う。その懐の膨れに一度手を置き、楊が微笑んで歩き出す。やんちゃな子ども心を残すその笑顔が向かう方向は、もちろん妻の待つ家である。 「ちょっとちょっと、楊」  家の近所まで来た時、知り合いの家の女房に引き止められた。 「菎菎(コンコン)は一体どうしたんだ。今日は一回も姿を見せないよ」 「え、一回も?」 「井戸にも来ないし、買い物もしてないんじゃないかね。体どっか悪いのかと思って家に行ったけど、いなかった。変だろ?」  掃除に洗濯、それに買い物。その上菎菎は普段、少しでも生活のためにと、昼の間だけ近所の食堂で働いている。毎日忙しなく家を出たり入ったりしているので、一度も姿が見えないのは確かにおかしい。  楊は急いで家へ向かい扉を開けた。 「菎菎、帰ったぞ」  玄関から見渡した部屋に妻はいない。 「菎菎、……いないのか」  台所も覗いたが、やはりそこにもいなかった。竈に触れてみると冷たい。朝火を焚き、この時期は絶やさない。こんな時間に冷えていたりしないはずだ。 「まさか実家に帰ったんじゃ……」  自身の考えに楊は愕然とした。妻が実家に帰るようなことになれば、自分は一体どうすれば……。  蒼白な顔で立ち尽くしていると、家の裏で何か物音がした。 「……菎菎?」  裏にはちょっとした畑がある。ほとんど畑で作業したことがない楊は、その存在をすっかり失念していた。  台所の扉を開けるとすぐ菎菎がいた。座り込んでこちらに背を向けている。何をするでもなく、ただ座って俯いているようだ。  とにかく妻が無事で、実家にも帰っていないことを知り、心の底からほっとした楊だった。 「良かった良かった。俺はてっきり、お前が俺を置いて出てったもんだと」  菎菎は振り返らない。まだ怒っているのだと思った楊は、懐から袋紙を取り出した。 「そう怒らないでくれよ。……ほら、良いもの買ってきたんだ」  座り込む妻の肩にあと少しで触れようという時、菎菎は突然立ち上がり、振り向きざまに手を振りかざした。 「菎菎!?」  咄嗟によけた楊が見たのは、妻の手に握られた菜刀だった。 「ぅ…ああああ」  妻は意味不明な叫び声を上げて楊に向かってくる。 「っ、そんなに、怒ってんのか?!」  戻った夫に問答無用で刀を向けるほど怒ってたのか。  一瞬そう思ったものの、しかし何かがおかしい。菎菎の目は虚ろで、楊を見てもいない。振り回す菜刀は見当違いな方向で何度も宙を切る。 「……ッ、すまない菎菎!」  先に謝るのが楊らしい。  楊の手が妻の手から菜刀を捩じり落とす。鳩尾に拳を入れると、妻は意識を失った。崩れた体を支える。 「一体どうしたってんだ……」  菎菎の体は冷たかった。一日中ここに座り、風に吹かれていたかのように。  顔色が悪い妻の頬にかかる髪を掻き分ける。どこか打ったりしてないか、怪我はないか、楊は念入りに調べた。髭爺を真似、隅々まで調べていく。だが異常はない。その時、楊はひとつ思いついた。 「悪い。でも緊急事態だ」  相手の意識がなくても謝るのが、これまた楊らしい。  意識のない目蓋を持ち上げる。普通、気絶している人間の目蓋を開くと、眼球は上に上がっているものだ。しかし不思議なことに、菎菎の目は真っ直ぐ前を向いたままである。  楊は瞳を覗き込んだ。左に以上はない。右も同じように覗き込む。一見何も異常はない。だが目を凝らすと、黒い瞳孔の中、何かが蠢く。  蠢いた何かは、楊に見つかったことを理解したかのような動きで、瞳の中から飛び出した。  楊は咄嗟に落ちていた簪を掴んだ。尖った先端で飛び出した蟲を突き刺す。長年影音と共にいるだけあって、普段は恐妻を持ち頼りなさそうな楊も、戦いには俊敏である。 「……殺ったか?」  地面に落ちた蟲は黒い煙になって、やがて消えた。残ったのは、地面に突き刺さった桜の花の簪だけだ。 「…………ぅう」 「菎菎?」  意識の戻った妻を抱えて、家の中に入る。風邪を引いたりしないよう体の上に何枚も衣を重ねたため、その重みで菎菎は呻いて目を覚ました。 「菎菎。菎菎。大丈夫か」 「……ぅぅ」 「どうした、どこか痛むのか」  髭爺を呼んでくる、と血相を変えた楊の足を菎菎が掴んで引き留めた。 「大丈夫って……、何が?一体何を慌ててるの楊楊。いつも言ってるでしょ。困ったら、一回深呼吸して、ほら」  つい、言われた通りに深呼吸した楊である。 「で、どうしたの?落ち着いて話して」  さっきまで刃物を振り回していた者と、同一人物とは思えないほどの冷静さ。それは落ち着きのない楊が普段頼りにする、妻の本来の姿だった。 「……良かった!」 「ちょ、ちょっと。一体どうしたの」  いきなり抱きつかれた菎菎は、だがまんざらでもなさそうだった。   「――っていうことがあったんだ」  聞いていた影音はやっとのことで話が終わったのを知り、すっかり冷めた茶を啜った。  楊の話には、ところどころ関係ないことが挟まっているうえ、聞いてもいない楊の気持ちまで伝えようとする。聞いている最中に、影音の眉間の皺はどんどん増えた。そしてようやくそれから解放されたのを知る。  説明が異様に下手な花と、かいつまんで話せない楊。どっこいどっこいである。 「菎菎は大事ないのか」 「大丈夫だ。何かすっきりしたとかで、前より元気なくらいで」 「なんで刃物を振り回すことになったかは訊いたのか」 「それが本人は、前の日俺に食ってかかったことも、刃物振り回したことも、全然覚えてないってんだ。まったく一体何がどうなってるやら……」  あの後楊は念のため髭爺のところへ、戸惑う妻を連れて行った。だが妻の前でその事情を説明出来ず、裏の畑で突然倒れたので診て欲しいと告げた。  楊の嘘は、髭爺にはばればれだった。楊の様子がおかしいことを知らされた影音は、楊の仕事が終わる頃を見計らいやって来たのである。 「蟲だったんだな」 「そうなんだ。目の玉の中から出てきやがった。あの時の男みたいに」 「で、殺したんだな。確実に」 「そうなんだよ。あの簪、せっかく買ったんで菎菎に渡したら、すっかり機嫌も良くなって。けど蟲を殺したなんてばれたら、今度こそきっと殺される」  聞いてもいないのに、あの簪を選んで正解だったとか、菎菎にはやはり控えめな装飾品が似合うとか。  影音は隣の惚気めいた会話を、途中から一切聞いていなかった。  また蟲か……。  最近城主の元へ報告される事件が増えた気がする。目に見えて急増したわけではない。ただちょっとしたいざこざや暴力沙汰が、街で増えた。気づいているのはおそらく自分だけだろう。  影音が背中を刺した男も楊の嫁も、蟲は目の中に潜んでいた。  まさか蟲が人を操るのか?  だがたった一匹で、人間を意のままに出来るものだろうか。それに蟲は本来、群れで行動するものだ。それとも、あれが生まれたての一匹だったのだろうか。しかし蟲は、相当な恨みや嫉みの感情が長い時をかけて生まれる。それに菎菎の人柄には、蟲を生むほどの穢れた感情は当てはまらない。 「……花は?家か?」  その名前に我に返った影音は、考え事で重い頭を振った。 「ああ……。ここへ来る前に家へ送った」 「何だ。久々に一緒に飲もうと思ったのによ」 「飲むなら家に来ればいい」  楊が急に立ち止まった。 「何だ?嫁が怖いのか」 「いや……、それもそうだけど……」  いつもの彼らしくなく、歯切れが悪い。 「飲みに来るなら、つまみを何か買って行こう」  だが楊はその誘いを断った。 「やっぱり止めとく。菎菎にあんなことがあったばかりだし、しばらくは真っ直ぐ家に帰った方がいいよな」 「気になるなら目を確認しろ」 「そんなことしたら、すぐに子が出来ちまうよ大佬」  冗談に影音が笑ったのを見た楊が、ほっと胸を撫で下ろす。  菎菎のことが心配だから。  それは半分正解で半分嘘だった。断った理由のもう半分は、影音と花にあった。  最近、あの二人が少し変なのだ。  喧嘩しているわけではなさそうだ。目は合わせるし、会話だってする。仲間の冗談に笑い、子どもたちとも楽しそうにしている。  上手く言えない。上手く言えないけれど、二人の間の雰囲気がこれまでと違う。  最近のあの二人の間には、何とも表現しようがない緊張感があるのだ。  今日の誘いだって、普段の影音ならきっと、さっさと家に帰れと楊に言ったはずだ。  そんな心配をする楊と分かれた影音だが、確かにいつもと少し様子が違う。心ここに在らずで、店や通行人からの挨拶にも気づかない。  しかし物思いに耽りながら歩く姿は、特に通りをすれ違う娘たちにとって、少し影のある男前でしかない。女は大体が、そういう影のある男に惹かれるものである。ましてやそれが強さを兼ね備えた精悍な男であれば、もう噂の的になるのは当たり前であった。 「見て見て彼よ」 「やだ、お化粧直さなきゃ私」 「声かけようよ今日こそ」 「無理だよー。私、見てるだけで幸せだもの」 「髪、私の髪どう?やだっ、こっち来る」  そんな黄色い声も、影音の耳には届かなかった。ただ女の高い声が苦手なので、それは彼にとっては良かったと言えよう。  昼間に営業する店は少しずつ閉まり始めた。代わりに屋台のあちこちで少し早い火が灯り出す。  ある宿の前を通った影音は、ちょうど出てきた知り合いの店主と挨拶した。 「大人、すっかり陽が暮れるのが早くなりましたな」  店主は大きな赤い提灯に火を入れた。提灯には宿の名前が大きく入っている。最近古いものを買い替えたばかりで、提灯は赤い色も鮮やかだった。 「何も変わったことはないか」  いつもの癖で、何となしに訊いたことだった。店主は一度頷いてみせたが、何か思い出したらしく言い淀む。 「いえ、大したことじゃないんです。大人を煩わせるようなことじゃ……」 「言ってくれ」  宿の店主は、いつも親身になってくれるこの若者に好印象を持っていた。  以前、横柄な客に部屋を荒らされたことがある。宿代を踏み倒し、壊したものも弁償しないと言い張る客に店主は困り果てていた。男は見るからに屈強で、用心棒らしい用心棒もいない小さな宿は泣き寝入りするしかない。  他の客と従業員の安全を考え、仕方なくお金を諦めようとしていた時現れたのが、この紺色の衣の若者ともうひとり、淡麗な顔立ちながら、無駄に格好いい男である。二人はあっという間に大男を伸すと表に出て、潜んでいたらしい男の仲間も次々と地面に沈めた。 「最近北の宿でもやられたんだ。宿代踏み倒して、困ってる店主を助けるふりして金をせしめる。助けに来た男も仲間なんだよ」 「しかし鉢合わせるとはな……」 「何だよその目。俺のせいじゃないぞ。大体、久々に喧嘩出来て嬉しいくせに。俺の目は誤魔化せないからな」 「お前と一緒にするな。見ろ、服が汚れた」 「どうせ同じ色のしか持ってないんだ。落ちなかったら捨てれば。いい機会だから、違う色の、一枚くらい買えよ」 「お前の衣を質に入れたらな」 「なんで俺のなんだよ」  そんなことに巻き込まれているとは思ってもみなかった店主は呆然として、店主を無視して会話する二人に、その名前を聞くのさえ忘れてしまった。  それ以来、時々会うこの精悍な顔つきの若者とは挨拶をするのに、宿の店主は今更なその名前を聞けずにいた。 「いえね、そう言えば最近変な忘れものがありましてね。……ちょっと中へどうぞ」  影音が宿の中に入ると、泊まり客だろう、上から男と女が連れ立って降りてきた。 「せっかくだから、屋台で名物を食べてくるよ」  店主が良い酒を出す店を教えている間、影音は隅で壁にもたれ待っていた。男の連れの女があからさまに影音を見て頬を染めていたが、そんなことに注意を払う影ではない。  しばらくして、申し訳なさそうに店主がやって来きた。 「大人、すみません」 「いや、元は俺が訊いたんだ」 「待ってもらうのも申し訳ないくらいの話なんですよでも」 「気にするな。時間はある」  店主は受付台に入りしゃがみ込んだ。 「これなんです」  手に持っていたのは、香炉のような代物だった。 「ついこの間、これを部屋で見つけたんです」 「客の忘れ物か」 「いえ、それが変な話なんですよ」  話によると、これが見つかったのは偶然によるものだった。乱暴を働いた客が部屋を滅茶苦茶にしたため、部屋はしばらくの間使用出来なかった。店主自ら部屋の片付けをしていた際、寝台の下からこれが出てきたらしい。 「前の客の忘れ物かもと思って、帳簿を元に連絡取ろうとしたんです。でも住所も名前もでたらめで。でもまぁ、それも良くあることなので」 「埃は被っていたのか」 「え、埃ですか?いいえ、綺麗なもんでしたよ。寝台の下で、奥の方にあったんです。見つけたのは、これが綺麗に光ったせいだったくらいで」  忘れ物は、一見すると確かに香炉のようである。片手で持てるほどの大きさで、藍青玉で作られたらしく、見た目も重厚感がある。 「ちょっと珍しい色でしょう?見たことない良い色です」  角度を変えると、藍の中の青が怪しげに煌めく。引き込まれそうな色である。実際にそれは影音の目を奪った。こんな色の衣があれば、きっと影音は買うだろう。そしてそれは彼に似合うに違いない。 「でもそれ、香炉じゃなさそうなんです。てっきり、うっかり者の商人が荷物のひとつの香炉を忘れていったのかと思って、受付台にちょうど良いと思ったんですが……」  蓋に見えた箇所は、なるほど開かない。簡単な装飾がぐるりと一周し、その部分は中が透けて見える。本来ならそこから焚いた香が出るはずだが、だが肝心の香を入れるところが見当たらなかった。 「この隙間から入れるんですかね」 「いや、火のついた香をここから入れようとしたら火傷する。止めておけ」 「……ですよね」  実は既にそれをし、影音の言った通り火傷した店主である。 「……この下に、何か入るところがある」  藍青玉のその品の底には、四本の脚が付いている。装飾部分から見える内部は底が浅いようだ。だがそれでは脚までの距離があり過ぎる。感じる重みからして、見えている底は実際の底ではなさそうだ。  影音はそれを振ってみた。しかし何の音もしなかった。 「金でも入ってたら、そりゃもう喜ぶんですが」 「使い道が気になるな」 「そう、そうなんですよ」  何であるか探るうちに、段々とそれが何の変哲もないただの置物に見えてきた。本来は本当に、奇怪な形以外、特に大した意味もない置物なのかもしれない。 「良い色の置物とでも思って、ここに置こうかと。また泊まりに来て、お客さんが忘れ物に気づくかもしれませんし。……構いませんかね」  犯罪にならないかどうか心配しているらしい。  影音は頷いた。店主は誰かにこのことを聞いてもらい、尚且つ自分の店に飾ることを許して欲しかったのだろう。そう言う意味では影音に話したのは適正と言えた。彼は自分の判断に責任を持つ人間である。優柔不断な者たちは、そういう人間の匂いを嗅ぎ分ける才能があるのではないだろうか。 「つまらないことで足を止めさせて、申し訳ないです」 「いや、言っただろう。俺が訊いたんだ先に」  外へ出ると既に薄暗かった。花には暗くなる前に帰れとしつこく言っておきながら、自分はそれを守らない。言い訳も見当たらないのが更に辛い。  家へ向かう彼の足取りは重かった。だが影音の場合、楊のように市で時間を潰したりすることにも向いていない。  何より問題なのは、家に早く帰りたいと思っていることだった。  家には花が待っている。早く帰りたい。帰ってその顔が見たい。  だが帰りたくない。会いたくない。会えば触れたくなる。その唇を奪い肌に触れ、思い通りにしたくなる。  花が影音に望むのは、影音が花に望むそれとは違う。二つは対極である。決して交わることはない。  悶々とした日々を過ごす影音にとって、花の笑顔だけが心を満たすものだった。同時に、花の笑顔だけが、真に彼の心を傷つける。  風が吹き、提灯を揺らした。月の出が早い夜である。  賑やかな通りは、人の影も賑やかに踊っている。屋台で調理する音に、それを食べる音。気が早い酔っ払いや、それに怒鳴る声。夕刻の通りは活気があって賑やかだ。  昔は月に踊る街の影が好きで、よく夜に家を抜け出した。  母は仕事でいなかった。館は夜に開くからだ。一人で残されるのが嫌な花にせがまれ連れて行くのだが、必ず途中で眠い目を擦り出す。本人は意地を張って眠くないと言い張る。だがいつも言った側から船を漕ぎ出すのだ。自分もまだ子どもだったが、影音は眠った花を背負って家に帰った。  帰り道は、月と提灯が照らしてくれた。ただその灯りを目印に、背中の暖かさを感じながら帰ればよかった。 「……ッ、」  影音は妙な違和感を覚え、左目を擦った。風で埃が入ったようだ。痛みはすぐに引いたので、それ以上気にしなかった。  長屋に着くと、家の前には見たことのない明かりが灯っていた。いつもと違うため、心ここに在らずだった影音は、危うく自分の家を通り過ぎるところだった。  家を明るく照らすのは、大きな提灯だ。提灯の表面には何か書いてある。だが遠くからでは識別出来ないくらい、その字は薄れている。古いものだ。近くで読んでみると「美食店」とあった。  不思議に思ってそこに佇んでいると、突然玄関が開いた。そこに影音がいるとは思ってなかった花が驚いて目を見開く。 「びっ……くりさせるなよ」 「これは?」  言わんとしたことが分かった花は、何故か得意げに顎を上げた。 「良いだろ?」 「どこから盗って来たんだ」 「盗ってねぇよ。人聞き悪いな。蔵の整理してた家があって、捨てようとしてたから貰ったんだ」  仕事終わりに花を迎えに行き、そして家へ送っていった。ということはつまり、影音のいない間にどこかへ出掛け、この提灯を貰ったということである。  気づいた影音だったが、言及はしなかった。 「いつからここは食堂になった?」 「ああ?何言ってんだよ」  察するに字の苦手な花は、書かれてある字がどこかの食堂の名前だと気づいていない。 「美食店。これは食べ物を出す店の看板に書くものだ」  もしもこれが美人館の隣に掛けられていれば、それは少し意味が変わってきそうであるが、余計なことは伝える必要がない。  花が提灯の文字を目で追う。そして笑った。 「なんだそうなのか。もし食堂と勘違いした酔っぱらいが扉を叩いたら、俺が何か料理して出してやる」  その笑い声はまさに、暗闇にぱっと灯る提灯のようだ。柔らかい明かりが端麗な顔立ち照らす。影音の胸は締め付けられた。 「っ、」 「どうした?」 「……さっき埃が入ったらしい。取れたと思ったが……」 「ああこら、擦るなって馬鹿。洗え洗え。そこにあるから」  玄関には手桶が置いてあった。中の湯はまだ少し温かい。帰ってくる影音のために用意されたものだ。  相手が目を洗うのを確かめると、花は外へ出た。 「ちょっと隣へ行ってくる。さっき窯の火付きが悪くて借りたんだ。すぐ戻る。擦るなよそれ」  火箸を借りたらしい。出て行った扉はきちんと閉まっておらず、隙間風が部屋に侵入する。性格なのか何なのか、花は昔から扉や戸をきちんと閉められない。  扉を閉めた影音は次に、窯の様子を見に行った。火は眩しいほど煌々と燃えている。中の木を調整し、窯に水を足した。空焚きで何度も、小火騒ぎを起こした過去がある。  もし自分がこんなふうに彼の人生を補ってやらなければ、花はどうやって生活するのだろう。  影音はふと思った。  花のことである。周りの人間が放っておかないし、例え影音がおらずとも、周りに助けてもらいながら笑って生きていくに違いない。  ――では自分はどうか。  花が自分の人生から消えた時、どんなふうに生きてゆくのだろうか。  きっと周囲は助けようしてくれるだろう。でも自分はそれを拒むに違いない。あの提灯のように、自分は周りを明るく照らすことは出来ない。  もし花が自分から離れて、誰かのところへ行くようなことがあれば――。  影音の脳裏に浮かんだのは、あの亜蘭亭の店主の姿だった。 「……なん、だ……?」  左目が酷く熱い。触れた目には、急に熱い痛みが走った。まるで目の玉が燃えているかのようだ。  甕の水を汲んで目を洗う。痛みは幾ばくかましになったように思えたが、長くはもたず、すぐに痛くなる。  ――目の玉から出てきたんだ。  楊の言葉を思い出して体が震えた。まさか……、だが一体どこで?  痛みはどんどん酷くなり、遂に何も考えられなくなる。  痛みから逃げるように、影音は壁や柱にぶつかった。竈の水がひっくり返り火が消える。台所は煙で真っ白になる。 「おい、どうしたんだ。……影音?」  花が駆け付けると辺りには濛々と煙が立ち込めており、花はてっきり自分がまた空焚きしたのかと思った。  急いで窓を開け煙を逃がす。晴れた視界では、影音が床に尻をついている。 「影音?おい、大丈夫か」  揺らしても反応がない。項垂れてかかった髪で顔が見えず、花は両頬を挟んで確かめた。 「影音、影音」  呼びかけに薄っすら、影音の両目が開く。 「大丈夫か?何があったんだ。俺、またやらかした?」  だが花の言葉に反応はない。 「……影音?」  影音は唐突に花を床に押し付けた。 「影、……痛ッ、」  後頭部と背中を強かに打ち付け、花が呻く。だが呻くことさえ、それもすぐに出来なくなった。 「ぅ、……んん」  打った頭が痛むほど唇を押し付けられる。抵抗しようとした花の細い腕も、凄まじい力がそれを床に押さえつけた。 「……音……影音……っ」  衣の前が乱暴に開かれる。露わになった肌を熱い舌が滑る。その感触に花は身を固くした。  こんなふうに乱暴に扱われたことなど今まで一度もない。若い欲求を満たそうと、つい力が入ってしまうこともあった。しかし花が躊躇ったり発作が出たりすれば、彼はいつでも止めてくれた。  押さえつけられた手首が痛く、身動ぎしようにも、上に乗った重みはびくともしない。そうこうしているうちに影音の長い指が、腰の紐を解こうとする。だが乱暴にしたせいでかえって固くなり、苛立った彼はまさかの踊跃を抜いた。  自分の腰紐が鋭いその刃で切られる様子を、花は信じられない思いで見つめる。 「……どうしちゃったんだお前……」  呟く声が宙で消えた。泣こうと思ってないのに、目尻から涙が零れる。  花は自分を責めた。こんなことを彼にさせているのは自分のせいだと思ったからだ。後悔を噛み締めて赤くなった唇に血が滲む。 「……影音?」  長い指が花の唇についた血を優しく拭う。  自分の上で動きを止めた影音を見た花は息を吞んだ。 「影音……」  影音は泣いていた。  正しくは涙を流していた、である。その整った顔には何の感情もない。無表情で花を見下ろしている。だが花には分かった。その涙が影音のものであることを。逆に言えば、今花の上に乗っている影音の姿をした男は、花の影音ではないということだ。  押さえつけていた力がなくなる。影音は操られていた糸が切れたかのように、突然一切の動きを止めた。ただその目から涙を流し、花を見るでもなく見ている。  花は起き上がってその頬に触れた。 「……大丈夫」  流れる雫を拭い、彼の頭を引き寄せる。 「大丈夫だ……。お前はこんなことしないって、知ってる」  何の根拠もなかった。しかし言葉にして初めて、それがはっきり分かった。  幼い頃彼がそうしてくれたように、相手を引き寄せ、背を撫でる。 「大丈夫……大丈夫だ……」  これは本来の彼じゃない。どうしてなのかは分からないが、とにかく違う。 「……ぅう、」 「影音?」  影音は突如左目を押さえて呻き出した。さっき埃が入ったと言って痛がっていたのを思い出す。庇う手をどかせ、花はその目を確認した。 「……うん?何だ?見せろ」  嫌がる様子もなく、影音はぼんやりと、覗き込む花を見ている。だがやはり見ているようで見てはない。花の方を見ながら、実際にはここではないどこかを見ている。もしくは、見ているのは影音の瞳だが、影音が見ているわけではない。  覗き込む花の顔を挟み、影音がそのまま唇を引き寄せる。先ほどとは打って変わって、触れるだけの口づけだ。  花の下の唇を喰み、そしてもう一度唇同士が合わさる。  影音の癖だった。花は好きなようにさせた。  互いに目を開いた状態での口づけだ。  最も近づいたその瞳を見つめる。花は相手の瞳の中で蠢く何かを見つけた。  それと目があったとは言えない。だがそれは、かくれんぼの末、まるで花に見つかったことを悟ったようだった。 「なっ、」  影音の瞳から飛び出した黒い何かを、ただ本能で手掴みする。 「うわっ」  だが掴んだ手のひらのあまりの気持ち悪さに逃してしまった。 「お前……」  その黒い虫には見覚えがあった。 「蟲か!」  何か武器になるものはと探す花に、影音の腰元の小刀が目に入った。影音はぐったりと意識がない。剣を抜いた勢いでそのまま床に倒れた。 「このっ、お前何したんだ影音に」  何しろ小蠅ほどの大きさの蟲である。蟲はあと少しというところで、何度も花の剣を交わして逃げた。 「……こんのー……」  花は激しく腹を立てていた。  唯一の家族である影音に何かした蟲に。鬼と戦い、自分を置いて危うく死にかけた彼に。そして、どうしても上手くいかない関係に。 「影音に何かあったら、ただじゃおかないからな」  握る小刀が光った。剣を祝福する時と同じ光だ。握っているそれは爛心树の木で出来たものだったが、憤る花に影音が作ったことなど分かるわけもない。  切先が弧を描く。それを光が追いかけ、宙に光の弧描く。 「ふざけんな!」  頭に血が昇った花の刃は当たらなかった。しかし剣を追いかけた光が当たり、光は蟲を仕留めた。  花は息切れしていた。衣は前がはだけ、腰紐がないため、辛うじて肩にかかっている状態である。上半身ほぼ裸で髪は乱れ、下穿きもよれよれ。それで息切れしているのだから、何とも残念な状態である。 「ったく……、何だってんだ一体」  光に当たった蟲は落ちる間もなく、煙のように消える。  影音を抱き起こして息があるのを確認した。呼吸を感じて安堵する。 「影音」  数回頬を叩く。それでも目覚めないため不安になり、今度は少し強めに叩いた。 「おいって」  低く呻いて影音の目が開く。 「大丈夫か」 「……何が……ッ」  起き上がった影音は途端襲った頭痛に顔を顰めた。  呻いた影音が右の額を押さえたので、右目にも蟲がいたのかと、慌てたのは花だ。 「……何してる」  咄嗟に小刀を構え顔を狙う相手に、影音は訳が分からない。その手の小刀を見て自分の腰を確認し、本来そこに在るべきものが花の手にあることに、彼は更に首を捻った。 「お前、小刀、……それにその格好……」  花の格好は散々で、周囲も滅茶滅茶である。だが一体何が起こったのか、影音には分からなかった。 「何があったんだ?」  思い出そうとするも、帰って台所へ入った後の記憶が曖昧だ。だが花の目に滲む涙を見て、聡い影音は悟った。 「俺が……?」  花は影音に抱きついた。ぶつかるような勢いだった。 「大丈夫だ。お前じゃない」 「……だが、」 「違う。お前じゃないんだ。ほんとに違う」  抱きつく体を受け止めながら、影音は辺りの惨状を見回す。鍋も卓も床に転がっている。窯の火は消え、土間が濡れている。窓が開いているせいか酷く寒い。抱きつく花の格好は台所より酷く、辛うじて服を纏っている状態だった。  突然彼の頭の中で、何かの場面が瞬いた。  その中では、花が誰かに組み敷かれている。苦痛に退けるその喉仏に、噛み付く獣のような誰かが――。  影音はその絵を振り払おうと頭を振った。 「何があった。話してくれ」  躊躇う花から強引に聞き出し、起こったことを聞いた影音は、血が滲みそうなほど拳を固く握りしめる。その手にそっと、柔らかい手が重なる。 「だから言ったろ。お前じゃないって」  悲惨な格好でそう言うと、花は爽やかに笑った。 「でも一体どこで拾ったんだあんな蟲」 「拾った?そんな覚えはない。通りを歩いてる時に風が吹いて、その後違和感があった。その時は埃だと思ったが……」 「その時目の中に?」 「分からん。だが思い当たるのはそれしかない。……確かそう思ったんだ。記憶が曖昧になる前にも」  花の体には痣や擦り傷が多い。喉に生々しく赤い跡が目立つ。それが先程見た場面の一部と重なった。  その視線に気づいた花は寝室から新しい服を二人分持ってきた。 「とにかく、一回髭爺に見てもらおう。蟲もだけど、腹の傷も心配だしな」  動かない影音の服を花が強引に脱がせようとする。花よりはましだが、影音のそれも水で濡れたり屑がついたりと汚れている。  強引な手を止めさせ、影音は自分で着替えた。花に任せると服を破きかねない。  立ち上がる際にふらつき、それが花を心配させた。 「足が痺れただけだ。髭爺のところは明日の朝でいい。傷も、診てもらったばかりだろう」 「駄目だ。絶対駄目だ」  花は激しく首を振った。 「楊の嫁は蟲が出た後もまったく問題なかった」 「楊の嫁?何の話だよ」  思えば楊からその話を聞いたばかりで、まだ花に話していなかったことに気づく。  だが菎菎のことを話しても、花は頑としてじゃあ明日、とは言わなかった。  寝入りの早い髭爺の家は既に真っ暗だった。壊さんばかりの勢いで戸を叩く花に、隣で影音は頭を抱えた。騒音を嫌がる近所のこともある。これでは別の頭痛が始まりそうである。 「髭爺、緊急だ。患者だ。起きてくれよ」  壊す前に止めようとした時、中で鍵を開ける音がした。 「あ、遅いよ髭……ダッ、」  不機嫌な顔の髭爺が戸を開けると同時に、持っていた何かで花の頭を叩く。硬い音がして、花は痛みにしゃがみ込んだ。 「……痛めたのか、腰」  花の頭を叩いたのは杖だった。竹の杖は軽く頑丈である。そして叩かれると想像以上に痛い。 「なに、ちょっとな……。心配要らん。今までが年の割に健康すぎたんじゃ。早く中に入れ。寒くてかなわん。……こら小僧。何いつまでもそんなとこでしゃがみこんどる。さっさとせんか」  花は涙目で立ち上がった。 「また蟲か……」  かいつまんで話したのは影音だ。花は叩かれた頭を摩りながら、机に突っ伏していた。どうも拗ねている。 「これ、いつまでも拗ねてないで薬湯を入れて来い。囲炉裏にまだ火があるはずじゃ」  唇を尖らせながら花が立ち上がる。 「ついでに腹用の薬草も潰して持って来るんじゃ」  何やら文句を言う後ろ姿を見送った影音が目をあげると、彼を見つめる視線とかち合った。 「……何だ?」 「小影、お前さん気づいてないのか」 「何を?」 「自分のほんの周りだけ見ていると、大事なことに気づいた時には、時既に遅しと言うぞ」  影音は面食らった。一体何のことか話が見えない。 「あやつはお前さんと一緒に鍛錬してたな」 「……ああ。昔ほどじゃないが今でもやってる」 「筋肉はお前さんの半分くらいかの。生まれついての骨格のせいもあるが、あれ以上筋力と体力は期待出来ん」  どういう意図の会話なのか分からず、影音は黙った。 「あやつの体は年々弱くなる。ああ、病気という意味じゃないぞ。早合点するでない」  椅子から浮いた影音の尻がまた沈む。  髭爺はそんな若い思考に、やれやれと息を吐いた。  「とにかく穢れがいかん。子どもの頃から敏感じゃったが、大人になるにつれ酷くなっておる」 「……そんな話は初耳だ。それにあいつも、特に変わらない。毎日元気だ」 「そうじゃ。あやつの他のところに気を取られておると、気づくことは出来ん」  含みのある言い方だった。それとも自分にやましいことがあるため、そう聞こえるだけだろうか。 「他の者の穢れに触れると、普通の人間ならそれに共感する。共感して己にも穢れを生やす。それか、生やして成長させないまま保持しとることが多い。それが人間じゃ。誰しも他人には言えない、やましいことがある」 「誰もが穢れを持ってるなら結局、誰もが穢れてることになる」  穢れが穢れに共感して穢れを生むなら、無限に繰り返しである。 「その通りじゃ。何回も言うが、人はみな穢れとる」  それは身も蓋もない言い方であるが、確かに事実だ。 「今回の楊の嫁や俺に取り憑いた蟲は、取り憑いた人間の穢れを成長させたのか……」 「さてな。儂にはそんな、蟲に取り憑かれた事件ことなど解決出来ん。じゃがお前さんの話を聞いて、思うことがあっただけじゃ。お主、自分でも気づいておるんじゃないのか」  髭爺のその言葉が影音の心の奥深くに刺さる。  楊の話を思い出してみる。菎菎は少し前から疑り深くなり、楊が北に女を作ったのではないかと不安になった。既に彼女に取り憑いていた蟲は、その不安を煽った。煽られ膨らんだ不安は穢れで更に成長し、疑心暗鬼になった彼女は楊と架空の浮気相手を恨むようになった。  いくつか記憶が蘇る。  確か……、奴の顔が浮かんだ。  影音はあの時、亜蘭亭の店主の顔が浮かんだ。蟲が潜んでいた左目に痛みが走ったのはその直後である。 「……ざまぁないな」  そんな言葉がつい口をついて出た。  髭爺は憐れむように彼の肩を叩き、長い髭を撫でた。 「言ったじゃろう。人間は誰しも穢れを持って生きているんじゃよ。例外はない……が、そこで問題なのが一人おる」  髭爺が言わんとしていることが影音にも分かった。 「あいつ、そんなに穢れに弱いのか?でもいつも人に囲まれてるぞ」 「一日二回は禊した方がいいほど弱い」  その台詞に影音は目を丸くする。 「なんだそれは……。神人か何かか?」 「小影、花は人間か」  唐突に訊かれたことに対する答えを、影音は持っていない。それを分かっていて、髭爺も訊いたのだ。 「その答えも、この街から出て院にでも行けば、どこかにはあるかもしれん。……ここにいても駄目じゃ」 「髭爺……」 「何も一人で行かせろとは言ってないわい。二人でどこかの院へ行って、他の修行者たちと一緒に学べばいい。それだけでも視野は広がる」 「院は、俺たちみたいなごろつきを簡単に受け入れたりしない」 「儂が城主に頼んで、何なら周囲の街からも紹介状を集めてやるわい。ついでに金も用意してやる。なに、あやつは儂に借りがある。一言言えば済むわい。……もしお前さんたちが、本気で院に行こうと決めた時はは」  以前にも髭爺に、街を出て院に行き修行することを勧められたことがある。いつもは軽い調子で言われ、影音もただ聞き流すだけだった。 「でもどうして今なんだ。そんなに花の体は弱くなってるのか」 「それもある。じゃがお前さん自身のためでもある。……少し離れて、互いを俯瞰することも大事じゃ小影」  頬を竹杖で殴られたような衝撃だった。  もしかして髭爺は気づいているのだろうか。花と自分の、すれ違ってしまった関係に。  訊ねることも出来ず、影音が沈黙する。 「そんな顔するでない。何も今この場で決断しろとは言っとらんぞ。二人で話して、じっくり決めればいい」  薬湯と薬を手に花が戻って来て、そこでその話題は終わった。  ――少し離れて、互いを俯瞰することも大事じゃ小影。  その言葉が影音の脳裏で反芻していた。  

ともだちにシェアしよう!