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第2話

 ――それから、どれくらいそうされていたのかは分からない。俺は四人の気が済むまで欲をぶつけられ意識を失い、気が付いた時には病院だった。 母親はずっと泣いていて、警察や学校の担任、校長、四人の保護者と思われる大人が入れ替わり立ち替わり俺に何かを話しかけている。でも、その一つも頭に入ってくることはなかったんだ。  病室から人が消えて、母親と二人きりになれたのは夜遅くのこと。俺は、誰にも言えなかったことを、母親にだけは伝えなくてはと、小さく声を絞り出した。 「……ねえ、母さん」 「なに、どうしたの?」 「俺……ね。ビックリしたんだ」 「それは」 「違うんだ」  母さんの言葉を思わず遮る。 違う、違うんだよ、母さん。 母さんの思うビックリしたことは、 俺の伝えたいこととは、きっと違う。 「だって俺、俺ね、本当に……ビックリしたんだ。目が覚めた時、俺、ああ、お腹いっぱいになってるって思ったんだよ」  視界が揺れ、頬に雫が伝う。そんな俺を、母さんは勢いよく抱き寄せた。 「ねえ母さん、俺もう死にたいよ」 「お願い、お願い。酷いことを言ってるって分かってる。でもお願い、死なないで……死なないで尊人……っ」  俺は返事をすることが出来ず、ただ遠くを見つめていた。 ちなみにあの後、四人がどうなったかというと、さっさと済ませれば良かったのに、四人は時間を忘れて俺をオモチャにしていたらしい。そして生徒が戻らないということで、担任教師がいくつかの空き教室の中から俺たちを探し出した結果、この惨状が明るみに出てしまった。一年の三人は即停学、主犯の村井は転校処分になったそうだ。でも、だからといって俺も学校に戻ることは出来ないので、あれ以来一度も登校していない。  —目を瞑ればあの日のことがフラッシュバックして、上手く眠れない日が続く。気が付いた時には、どうやって死ぬか、そればかりを考えるようになっていた。  ある日の夜中、相変わらず眠れなかった俺は水を飲むためにリビングへと降りていく。すると、扉の隙間から光が漏れていた。そこにいたのは、深刻な顔をしている両親。母親は、テーブルで向かい合わせに座る父親に話しかける。 「あなた、どうして尊人と話してあげないの?」  母親からの問いかけに、しばらく黙り込んだあと、父親は重たい口を開いた。 「話せるわけないだろ。あいつのせいで俺がどれだけ仕事で迷惑を被ったと思っているんだ? 松岡さんもVロームなんじゃないでしょうね、なんて言われる俺の気持ちが分かるのかよ!」 「そんな……どうしてあなたの職場で尊人のことが!」 「ネットの掲示板で、あいつの中学校の事件が拡散されて、被害者生徒の苗字が松岡だって漏れた。そのせいで俺が親だと特定されたんだよ。お前掲示板見たのか?お前のことだって書いてある」  父親は自嘲気味な笑みを浮かべながら、スマホを取り出して母親に突き出す。その画面を見て、震える手でスクロールしていくと、母親の表情がみるみる青くなって行くのが分かった。 「なんでこんなこと……」 「日本で限られた人間しかなっていないんだ。学校と苗字が分かれば、親を特定するのは簡単だろ。名前や職場はぼかされているけど、分かる人間にはすぐ分かる」 「でも、警察がVローム患者の情報は出ないようにするって……!」 「それにも限界はあるだろ……。本当、ふざけんなよ……! どれだけ迷惑を掛ければ気が済むんだ‼」  イライラとした様子を隠すことなく、頭をかきむしって声を荒げる父親。こんな父親の姿を、俺は一度でも見たことがなくて、目の前に居る人が誰なのか一瞬分からなくなってしまった。それでも母親は、果敢に父親へ反論する。 「なんてこと言うの? 一番辛いのは本人なのよ⁉」 「知るか。もう今の会社にはいられない。転職するから、離婚してくれ」 「本気で言ってるの……?」 「俺はあいつの病気を知らされた時点で、もうあいつが人間には見えなくなったんだよ」  聞いたこともない、父親の冷たい声。見たこともない、険しい表情。父親は確かに忙しい人だったけど、顔を合せれば俺の話を聞いて、優しく笑ってくれる人だった。でも、その笑顔を見ることはもう二度とない。俺は静かに踵を返し、部屋へと戻る。きっと今の話を聞いたと知ったら、母さんも悲しむだろうから。ベッドに身体を沈めて、しずかに窓の外を見つめる。だんだんと、視界がぼやけていくのが分かった。 止まれ、止まってくれよ。 「……ごめんなさい、父さん……っ」  本人に決して届くことのない謝罪を何度もくり返し、朝になるまで泣き通した。俺が一人で苦しむ分にはまだ耐えられる。でも、俺がVロームになるということは、こうやって大事な人を傷付けてバラバラにしてしまうんだと、この時身をもって思い知った。 それから俺は極力部屋から出ることなく過ごした。渡された血液パックも飲む気が起こらず、意識がぼんやり薄らいでいく。 「……そっか。俺、このまま何もしなければ死ねるんだ」  首をつったり、腕を切ったりするのは道具を用意しなきゃいけないし、母さんにバレた時が面倒だ。うちは飛び降りできるほどの高さじゃないし、近所の人が遺体を見つけることになったら可哀想だし。それならこうやって静かに餓死するのが一番手軽で確実だろう。 「……ごめん、母さん」  ぽつりとつぶやくと、数日ぶりに部屋のドアが開く。そこにいたのは、父さんと言い争っていた時以来に見る、母さんの姿だった。そしてゆっくりと足を進め、俺の手を握った。 「かあ、さん……」 「尊人、引っ越すよ」  何を言われるかと身構えていたが、出てきた言葉は俺が想定している物ではなかった。母さんがどうしてそんなことを言い出したのかは分からない。でも、もうたくさんだった。 「……もう、もういいよ。俺のこと、あきらめてよ。死なせてよ」 「ダメ。絶対に諦めない。私は、あなただけじゃない。苦しんでいるVロームの人、みんなを諦めない」 「どういう……こと?」  俺だけではなく、俺以外のVロームも諦めない。母さんの言葉は耳に届いているけれど、何を言いたいのかが分からなかった。 「母さんね、離婚した。それで、仕事も変えて、支援団体を作ることにしたの。尊人のように、Vロームを発症して苦しんでいる人を助ける団体をね」  母さんは、今まで見たことがないような真剣なまなざしを俺に注いだ。そして、握る手の力がぎゅっと強くなる。 「尊人、あなたが私の最初のVローム患者よ。私はあなたがこれからの人生を諦めないように、最後まで支えることを約束します。だからお願い、生きて。生きて、お願い」  母さんは、俺なんかのために、愛した父さんと離婚して、生きがいだった仕事を手放してしまった。そんなことしないで、俺を切り捨ててくれたら良かったのに。そう思う一方で、この世にたった一人でも俺を愛してくれる人がいる、その事実が、じんわりと全身を満たしていくのが分かった。 「ごめん、ごめん……っ」 「こういう時は、謝るんじゃないでしょう」 「……うん、ごめん。ありがとう、母さん……っ」 「ほら、泣かないで。アナタは涙を流しても栄養が不足していくんだから。ここ数日分の輸血もしっかり受けてもらうわよ!」 「はい……」  俺は母さんの申し出を受け入れて、引っ越しをすることに。この日から俺は「松岡尊人」ではなく「田崎尊人(たさきみこと)」になった。Vロームの噂がどこまで広がっているか分からないので、お世話になったご近所さんにも挨拶せず静かに出て行くことに。 車に乗り込み、ふと外の景色を見る。もうこの場所へ戻ってくることは二度とないんだと、心の中で何度も「さようなら」を繰り返した。  —少し長めの旅行に行くくらいの量の荷物を積んで車を走らせる。離婚するにあたってあの家は売却することになり、必要最低限の物以外は全て処分することになったそうだ。母さんは「尊人が本調子になるにはまだ時間が掛かるんだから、ゆっくり眠っていてね」と言ってくれたけど、なんだか目が冴えてずっと外の景色を眺めていた。 どんどんビルや背の高い建物が消えていき、田舎町へと進んでいく。林や畑がすぐそばに見えて、川が流れているのも見えた。 「母さん、ここは……?」 「団体を立ち上げるのにも準備が必要だから、その間尊人が静かに養生出来るように、この町を拠点にしたらどうかって勧められて」 「勧められたって誰に……」 「これから紹介するわ」  母はそう言ってしばらく運転を続けると、小さな家が二つ並んで立っていた。車から降りるよう促され、母の後ろをついて歩く。広い庭はまだ手入れが進んでいないのか、草が伸びた状態だった。 「青い屋根の方が、これから私たちが生活する家。赤い屋根の方は……」  そう言って母が赤い屋根の方を指さすと、ドアがゆっくりと開く。そこから顔を出したのは、白衣を着た白髪まじりのおじさんだった。 「あ、きたきた。こっちだよ~」 「屋敷(やしき)先生、お待たせしてすみません」  母の口ぶりと、身に纏った白衣から察するに、この人はお医者さんなのか?  何も言わずじっと見つめる俺と目が合うと、おじいさんははふわりと優しい笑みを浮かべ、俺の頭に手を伸ばす。 「初めまして、尊人くん。僕は屋敷光(やしきひかる)。一応医者をやっています」 「さ……っさわんなっ!」  反射的に、先生の手をはねのける。 あの日以来、人が怖くなった。男の人が怖くなった。姿を見るだけで動けなくなり、息が詰まりそうになる。入院していた時、病院側が配慮して女性の先生や看護師さんだけで対応してくれたけれど、男の人の声が聞こえるだけでもダメなくらいだった。 母もそれは分かっていたはずなのに、どうして待っているのが男の人だって教えてくれなかったんだよ……。恨み言を唱えながら、先生の方を覗き見る。しかし。先生が浮かべていた表情は、先ほど変わらず優しいものだった。 「怖がらせてごめんね。ちゃんと一言確認してから触るべきだったよ」  てっきり面倒くさがられると思ったのに、目の前にいる先生の雰囲気はずっと優しいままだった。 「……先生は、俺が気持ち悪くないの」 「気持ち悪くないよ。君はどこからどうみても、治療が必要な弱った患者さんだ」 「で……でも、俺、もう、人間じゃないって……」 「尊人くん、触ってもいいかな?」 「え? あ……う、うん」  今度は俺に許可を取り、先生に優しく抱きしめられる。頭を撫でられた時は、怖くて全身がこわばったけど、今感じているものは、大好きなおじいちゃんに抱きしめられているような暖かさだった。 「何をもって人間とするか、それはとても難しい話だよ。息を吸ってご飯を食べていれば人間なのかと聞かれたら、きっとそうじゃないからね。確かに普通の人間は体液から栄養を取ることはない。でもこれから、そうやって生きて行く人間が増えて行く。今僕たちは、大きな時代の転換期に立っているんだ」  先生と視線がぶつかる。丸いビー玉のような瞳には、哀れみも、同情も、嫌悪もない。優しい光が刺していた。 「せん、せいは、Vロームに詳しいの?」 「僕の同僚は、日本で二番目にVロームを発症した患者だった。彼は医師だったために色々先が見えてしまったんだろうね。一か月で自殺してしまった。その時決めたんだ。出来るだけ多くのVロームを守りたいと」 「……最初に発症した人は……どうなったの…?」 「Vロームと分かる前に、重度の栄養失調で亡くなってしまった。元々身体の強い人ではなかったからね。申し訳ないことをした」 「で、でも、俺……病院の看護師さんから、二人といつか、会えるかもって言われた」 「それはその人の優しさだね。君に生きて欲しかったんだと思う」  先生の瞳に、薄い水の膜が張る。先生にとってその同僚は、とても大切な人だったんだろう。そして、その同僚が死を選んだことが、悲しくてやりきれないのだ。そんな同僚と俺を重ねて、先生の抱える痛みが増してしまったんだろう。 深く皺の刻まれた働き者の手が、俺の両手を力強く握る。俺に生きて欲しいと、先生の全身から流れてくるようだった。 「僕もその看護師さんと一緒だよ。僕も君を死なせたくない。これから君のお母さんと一緒に、出来ることをやっていくつもりだよ」  この人には、嘘をつきたくない。そう思った俺は、素直に胸の内を話すことにした。 「……俺ね、死んじゃった人の気持ち分かるよ。今もずっと死にたいよ」 「尊人くん……」 「死にたいけど、でも、Vロームになった人がみんな死んじゃうのは、辛いなと思う。俺、自分は死ぬことばっかり考えてるのに、先生の同僚さんには会ってみたいと思ったもん」 「……うん、そうだね。会わせてあげたかったと、僕も思う」 「だから、今日死ぬのはやめるよ。明日また考える」  俺の言葉を受け取って、先生はほっとした表情を浮かべる。それは母も同じようで、ゆっくりと俺の肩に手を置いた。 「うん、今はそれで十分だよ。ありがとう。それにしても顔色が良くないね、血液パック飲んでないんでしょう?」  先生からの質問に、バツが悪くなって俯く。すると母親が後ろからトントンと肩を叩いてきたので、小さく返事をした。 「……口から飲むの、ちょっとイヤで」 「分かった。簡易だけど点滴出来るようにしてあるから」  赤い屋根の方を指さして、にこりと笑みを浮かべる。すると後ろの方で黙って話を聞いていた母さんが、先生に話しかけた。 「先生、尊人をお任せしてもいいですか?私は荷物を降ろしますので」 「はいはい」  母さんは俺の頭をポンと撫でて、車の方へ戻って行く。俺は先生に手招きされて、その後ろをついていった。そこにはガムテープで留めたままのダンボールが山積みになっていた。普通の引っ越しの荷物ではないと思い、先生に問いかける。 「この家、何になるの?」 「Vローム専門の診療所を開きたいと思ってるんだ。こうしている間にも日本各地でVロームが発見されていて、世間の混乱は強まるばかりだ。入院している人もいれば、衝動的に自殺してしまう人もいる」  俺も入院中にニュースを見た。あの人は自分がVロームだと分かってから乱暴されたのかは分からない。でもこの世の中は俺たちを人間という括りに入れようとはしていないことだけはよく分かる。俺自身“あの日”のことが脳裏によぎり、身体が沈んで行く感覚に襲われるのだから。俯いたまま黙りこくっていると、先生がこちらへゆっくり手を差し伸べた。 「発症したと分かったあと、すぐに治療して患者と向き合える場所があった方が生存率はぐっと高くなるからね。君のお母さんと話し合って決めたんだ」  大丈夫。この人は俺を傷付けない。自分に言い聞かせ、恐る恐る先生の手を取る。母親以外で俺に対してこんな風に優しくしてくれる人がいるなんて、奇跡みたいなことだと思った。だからこそ、気になったことがある。 「……母さんと先生は知り合いだったの?」 「ううん。Vロームの発症者を調べてそこから僕にたどり着いたって。同僚の診察をしていたのは僕だったからね」  俺が部屋でただ死ぬのを待っている間、母さんがそこまで動いていたなんて知らなかったし、考えもしなかった。母さんは本当に俺を死なせたくないんだな…。 「…俺なんて死んだ方が、母さんはもっと人生楽に生きられるのに」 「あ~それは違うよ。病気どうこうじゃなくてね、親は自分の子供に先に死なれることが、何より怖いし、辛いんだよ」 「そういうもんなの?」 「そうだね、いつか分かるといいね。さ、ベッドに横になって」  大きな窓がついた部屋に、ベッドと机が一つずつ。ここが診察室になるのかなとぼんやり思いながら横になり、大人しく輸血の処置を受ける。数分も経てば、頭が少しスッキリするんだから、本当に悲しいもんだ。  俺の表情の変化を感じ取ったのか、先生の手がするりと前髪をすくい上げる。先生に触られても、身体がこわばることはなくなった。 「尊人くんは今日からここで、ゆっくり身体を治すんだ。あれこれ考えるのはそれからだよ」 「……先生は、俺を襲わない?」 「うん。約束」  まるで小さな子供に言い聞かせるように、小指を差し出す先生。俺も自分の小指を絡ませ、ゆびきりげんまん、とつぶやいた。 「約束だよ、先生……」 「うん。だからもうお休み」 「……先生、俺、眠るのが怖いんだ。あの日のことが、何度も何度も……何度も夢に出てき て……っ」  両目から雫が溢れる。先生はポケットからハンカチを取り出し、優しく拭いながら話を続け た。 「尊人くん。夢を見るのはね、脳みそが過去の記憶を処理している時に見せる一種のバグと言われてるんだ。だから、寝る前に何か本を読むといい。その日のこと以外の記憶を詰め込んでから寝るんだよ」  そう言われ、真っ先に思い浮かんだ物は、寂しい幼少期にいつもそばにいてくれた存在だった。 「……本……」 「本ね、いいと思うよ。今日は無理でも、読みたいものがあれば用意するから」 「……ありがとう先生、考えておくね」 「うん。ほら、もうお休み」  先生に促され、静かに目を瞑る。 もし一冊選ぶなら、何が良いだろう。 ああ、そうだ。あれがいい。祖母にくり返し読んでもらった一冊の本。 子ども向けの本だから最近読むことはなくなっていたけれど、それでもよく覚えている。ばあちゃんから「何を読んで欲しい?」と聞かれたら、必ず選んでいたほどだった。  瞼の裏に広がる海原。耳の奥で響く波音。 父さんと母さんがそばにいてくれない毎日に、どうしようもなく寂しくて泣きそうになる時、いつも必ずそばにいてくれた。 「……久しぶり、また会えたね」  広い海原の真ん中で、勢いよく潮を噴き上げる一頭のくじら。そして、呼び起こされる物語の音。  —遠い海で、一頭のくじらが泣いている。その声は風に溶けて、誰にも気付かれることはないんだよ。深い海で一頭のくじらが泣いている。その泪は波に溶けて、風に溶けて、誰にも気付かれることはないんだよ。  —波の音が遠のき、代わりに耳元で響いてきたのは、母さんの声。 「おはよう、気分はどう?」 「……え、あ……母さん……?」  気が付いた時には眠っていたらしく、目の前に広がっていたのは、夢の海原ではなく、白い天井、そして心配そうにのぞき込む母さんの顔だった。 「昨日よりずいぶん顔色が良くなったわね。よく眠れたんじゃない?」  母さんに言われて、今日はあの日の夢を見なかったことを思い出す。俺の夢の中を泳いでいたのは、一頭の大きなくじらだった。 「……ねえ母さん、欲しい本があるんだけど」 「なんていうの?」 「……『くじらの泪』……」 「分かった。夜までに買ってくるね」  母さんは嬉しそうな笑みを浮かべて俺の頬をひとなですると、部屋から出て行った。 「……とりあえず、本を読むまで死ぬのはやめとくかな」  ――それから俺は、本を読みふけって生活した。屋敷先生いわく、精神的なトラウマの改善に、映画を見たり本を読んだりするのは良いことらしい。逆に何もしないでぼうっとしていると、出口のない思考の迷路に迷い込んで良くない行動を起こすこともあるそうだ。   俺は本を読みながら、先生と母が忙しく準備している様子を見守った。普通、個人医院を開業するには長い時間が掛かるらしい。でも屋敷先生は元々独立を考えていたようで、この土地も先生の持ち物なんだそうだ。そこにVロームのことや母さんからの支援団体立ち上げの話が重なり、ついに開業を決めたという。なので、Vロームだけを相手にする病院ならすぐに開くことが出来ると教えられた。   「尊人! 見て、桜が満開!」  母さんの声に、窓の方へ顔を上げる。そこには本当にキレイな桜が咲いていた。 「……うん、キレイだね」  Vロームになって二度目の春がやってきた。俺は本来なら中学三年生になっているはずだけど、相変わらず学校には行かず、この家で過ごしてる。その間も母と先生は忙しく動き回り、この四月、ついに日本で唯一のVローム支援団体「eat love」が立ち上がった。Vロームと診断された人の相談所として動いていくらしい。それと同時に専門病院「やしき診療所」も開業。日本でVロームの患者は数を増やし、それに比例して凄惨な事件が目立つようになるなど、社会的に問題視されるようになってきたタイミングだったこともあり、母さんたちのことはニュースでも報道されていた。    テレビを眺めていると、先生がリモコンのボタンで電源を落とす。ニュースの内容は、この診療所の活動についてだった。 「はい、僕らのニュースはここまでね」 「ありがとう先生」 「辛くない? 大丈夫だった?」 「うん。これくらいなら平気だよ」  俺はこの病院に来てから、ほとんどスマホやテレビに触れることはなくなった。Vローム関連のニュースを見る勇気がどうしても出ないのだ。なので、こういう特別な時だけ、先生や母さんに頼んで一緒に見てもらうようにしている。 テレビを見終え、読みかけの本に視線を落とすと、先生が思い出したようにつぶやいた。 「そうだ、今日からうちにカウンセラーの先生が常駐してくれるんだよ」 「カウンセラー?」 「資格を持ってるわけじゃないけど、きっとVロームの患者さんに良い効果があると思ってスカウトしたんだ」  先生は以前から、患者の数に合わせて病院で働く人は増えて行くと聞かされていた。覚悟はしていたけど、それでも、湧き上がる恐怖を抑えることが出来ず、先生に問いかけた。 「……男の人?」 「ううん、女の人だよ。とっても優しくて、聡明で、それから素直な人だ」  先生の優しい声色から、良い人であることは伝わってくる。でも俺はこの土地に引っ越して来てから、母と先生以外と会話をしていない。男性でないだけまだマシだけど、どんな人が来るか、正直かなり怖かった。すると、膝元に暖かい熱が乗りかかる。 「……ごめんごめん。お前は別だよ、ぷち」  ぷちは、真っ黒い毛並みが自慢のオス猫だ。去年の六月頃、病院の庭に迷い込んだところを保護されて、そのまま先生が飼うことになった。俺は動物と生活したことはなかったけど、ぷちが来てくれたおかげで、死にたくなる回数が減った気がした。 「ぷち、どうした?」  にゃあとひと鳴きして、ドアの向こうへ歩いて行く。ぷちを抱き上げて部屋に入ってきたのは、見知らぬ一人の女性。俺と目が合うと、にこりと微笑んだ。 「ずいぶん可愛い子と生活しているんだね」 「いらっしゃい、花さん。尊人くん、こちら杉浦花(すぎうらはな)さんだよ」 「え、あ……」  先生から紹介を受けても、どう返事をしたらいいか分からず戸惑っていると、杉浦さんも自分からもう一度挨拶をしてくれた。 「初めまして。今日からここでお世話になるカウンセラーの杉浦花です。と言っても資格を持っているわけじゃないんだけどね」  杉浦さんは、母よりうんと年上で、細身なおばあちゃんだった。確かに男性ではない、だけど…… 「お、れ……おれは、えっと……」  どうしよう、上手く言葉が出てこない。怖い、どうしよう。俺がVロームだって、この人は知ってるんだろう。でも、怖い、俺のこと、気持ち悪いと思ってたら、バケモノだと思っていたら。 「は……っう……っ」  自分でもわけが分からなくなり、呼吸が浅くなって地面に座り込む。先生が駆け寄ってきそうになったのは分かったが、僕を包み込んだのは杉浦さんだった。 「大丈夫だよ。私もVロームだ」 「へ……え……っ?」  杉浦さんの言葉に、思わず顔を見上げる。彼女はなんてことのない様子で話を続けた。 「そこの屋敷先生が、何を思ったのか私を君たちの話し相手に連れてきたんだよ。Vロームの辛さは、当人同士でしか共有出来ないだろうからとね」  杉浦さんは、相変わらず無表情だったけど、その声には心地の良い優しさを含んでいた。そして、目の前に手が差し出される。 「改めまして、私は杉浦花。Vロームになったばかりの後期高齢者だよ。君のお名前は?」  差し出された手を、恐る恐る握り返す。その手は、驚くほどの小さくて、細くて、温かかった。 「た……田崎、田崎尊人です」 「尊人くん。君に会えて嬉しい。君が生きていてくれて、とても嬉しい。ありがとう」  痩せ細った両腕が、ふわりと俺の身体を包む。気付いた時には、鼻の奥がツンと痛み、涙で視界が揺れていた。 「Vロームたちが自死を選ぶ中、君が生きていてくれたことが本当に嬉しい。頑張ったね、ありがとう」 「……う、ん……うんっ」  どれくらいそうしていたかは分からない。でも杉浦さんは、俺が泣き止むまで背中をさすり続けてくれた。少し落ち着きを取り戻した時、なんだか恥ずかしくなって慌てて身体をそっと離す。 「……あ、ありがとうございました。ごめんなさい、急に泣いたりして」 「泣いてスッキリするのは良いことだ。でも私たちは栄養不足になりやすい。きちんと輸血をして、流した栄養を補充するんだよ」 「うん、ありがとう。えっと、杉浦先生」 「そんなに固く呼ばれるのはなんだかなあ。それに敬語も勘弁して欲しいんだが」 「えっと……じゃあ、うーん……」   呼び方に悩んでいると、後ろから屋敷先生の声がぽーんと飛んで来た。 「花さん」 「え?」 「僕は花さんって呼んでるよ。尊人くんもそうしたら?」  しゃがみ込んでいる俺の横に座り込んで、視線を合わせてくれる先生。そのまま杉浦さんに視線を移すと、表情は相変わらずだったけど、不快そうにはしていなかった。 「じゃあ、えっと……間をとって、その、花先生、で……」 「うん。よろしく尊人くん」    ――こうしてやしき診療所に新しい先生が加わった。それ以降Vロームの患者さんがポツポツやってくるようになり、五月になる頃には毎日のように患者が来るようになった。それに合わせてお医者さんの数も増え、診療所は賑やかになっていく。でも俺は、医者とも患者とも直接話す勇気がなくて、時折り診察室の窓の外から様子を見ることしか出来なかった。そこにやってくる患者たちは、みんな痩せていて顔色が悪くて、泣きはらした目元をしてる。 そしてみんな言うんだ。 「お願い、死なせて。もう死にたい」  泣き崩れる患者の背中をさする先生。何度も何度もくり返される光景に、俺はたまらなくなってその場を離れる。だってあそこにいるのは、頑張って押し込めている俺自身なのだ。 この敷地は広い。家と診療所の間は大きな庭に囲まれていて、その間には、ベンチと大きな木が一本。一人になりたい時、俺は必ずここへやって来た。  Vロームになって一年が経った。なんで生きてるのかと聞かれたら、死ぬタイミングを見失ったからでしかない。あとは、母さんと先生が俺を守ってくれたから、生きて欲しいと言ってくれたから。俺はニュースもネットも見ないし、母さんと先生以外と会話をしない。だからふとした時、Vロームであることを忘れそうになる。でも、そんなことはありえない。だって俺はこの一年、普通の食べ物を口にしていない。輸血だけでその命を繋いでいるのだから。 「……俺、なんで生きてんだろう」  ベンチに座って深いため息を漏らす。自分以外のVロームの姿を見るようになり、Vロームが生きて行くことの難しさをより肌で感じる機会が増え、考え込む時間が増えたように思う。そういう時は、別の思考で頭を埋めるために小説を読むと決めていた。読みかけの本を開いた時、足元にコツンと何かがあたる。 「おう、ヘレン。近所周りはもういいのか?」  本をベンチの横に置いて、ヘレンの頬に手を添える。ヘレンはぷちと同じ頃うちにやって来た、保護犬のゴールデンレトリーバーだ。ぷちはオスで、ヘレンはメス。二匹はよく庭で遊んでいるが、ぷちは気分屋なので部屋の中にいることのほうが多い。暇を持て余したヘレンは、自由に町を散歩して近所の人たちに挨拶して回るようになり、今では診療所の看板犬だ。 「よーし、じゃあ俺と遊ぼうか」  俺はVロームになってから重度の栄養失調になり、そのせいで全身の筋力が大幅に低下。リハビリして運動しなくちゃいけなかったんだけど、一向にやる気が出ず、ここに来てからもしばらくはぼーっとする毎日だった。でもヘレンが来てからは強制的に散歩したり遊んだり身体を動かす機会が増えて、身体もずいぶん良くなった。俺は本当にこの二匹に感謝している。他の患者さんも、こいつらが少しでも支えになればいいんだけど。 「……はあ、はあ……っヘレン、お前元気だな……っ」 「そうでしょう」と言う声が聞こえて来そうな得意げな顔でこちらを見つめるヘレン。いくら体力が戻ってきたといっても、まだまだだなと痛感する。俺は帰宅部だったけど、小学校の頃はサッカークラブだったんだぞ!中学だって助っ人でたまに試合出てたのに!そんな言い訳を脳内でくり返していると…… 「はあ……う……っ⁉」  グラリと、頭が揺れる。 この感覚は嫌というほど覚えがある。貧血だ。 Vロームは普通の人間に比べて簡単に貧血や栄養失調に陥る。普段気を付けているけれど、今日は他のVローム患者が多くて、輸血をサボっていたのだ。地面に倒れ込む俺の周りを、大声で吠えながらグルグル回っているヘレン。助けを呼んでくれてるのは分かるが、ここから診療所は少し距離が離れているから、ヘレンが吠えても聞こえるかどうか微妙なところだ。鈍る思考を必死に動かし、どうしようか考えていると、頭上に声が降って来た。 「君、大丈夫⁉」 「……だ……れ……」  遠のく意識を必死にたぐり寄せ、視線を上に上げる。そこに立っていたのは、ブロンド色の短髪に、白い肌、そして青い目をした若い男…… 「俺は愛沢富実(あいさわとみ)だよ。見た目めっちゃ外国人だけど、日本生まれ日本育ちだから日本語でオッケー! 君はこの病院の患者さんなの?」 しゃがみ込んで俺の背中に触れようとするその男を、俺はギッと睨み付ける。 「さ……わる……なっっさわるな……っ‼」  自分でも、驚くくらい大きな声が出た。でもそれくらい恐ろしかったんだ。Vローム患者が来るようになって男性を目にする機会が増えた。もちろんあいつらは俺と同じだから襲うことはしないだろう。  でもたぶん、こいつは違う。痩せてないし顔色も良い。きっと普通の人間だ。俺を襲ったあいつらと同じだ。  ――心臓の中で、どろりと黒い液体が溢れかえる。   怖い、近寄るな。   殺してやる、俺に触ったら殺してやる。   しかしそいつは俺から一歩離れ、伸ばした手を引っ込めたのだ。 「…うん、ごめんね。触ったりしないよ。君が嫌がることはしない」  手を引っ込めたあと、少し離れた場所から、寂しそうな瞳で俺を見つめる。そして、俺についての質問を再開した。 「この病院にいるってことは、君はVロームなの? それとも、患者さんの家族?」 「俺が……っVロームなら、なんだってんだよ……っ」 「顔色がすごく悪いから、貧血なのかなって」 「うる……せぇっどっか行け……!」 「……俺の血、あげようか?」  その言葉に、俺は思わず目を見開く。  俺の血を、あげる? 「何、言ってんだ、お前……」 「Vロームは基本体液から栄養を摂取するけど、血液が一番効率的なんだよね。ちょっと待ってね」  そいつは……愛沢は、胸ポケットからクリアケースのようなものを取り出す。そして蓋を開けると、一本まち針を手に取った。 「ナイフで切ると血が出過ぎちゃうからって怒られたんだよね。これなら大丈夫でしょ」 「い、いやお前……なにを……っ」  俺が言い終わるより先に、愛沢は自分の指先にまち針を突き刺す。 そして赤い球体がプクリと姿を現した。 「はい! 少しでも口に入れると楽になると思うんだけど」 「や、な、なに、なに、おま、おまえっ頭おかしーんじゃねえの……⁉」 「なんで⁉ 一番手っ取り早く元気になれるじゃん!」  目の前に突きつけられた血液。ああ、やだ、いやだ、やめてくれ……!  頭を抱えて、血液から目をそらす。  その様子を見て、愛沢は俺の体調が悪化したと思ったのか、一歩距離を詰めて来た。 「ど、どうしたの⁉ そんなに苦しいなら、早く飲んで……」 「いや、だ……っ」 「だからなんで……」 「飲みたく、ないっ……飲みたくない‼」  震える身体を、自分自身で押さえ込む。押さえ込まないと、愛沢の手を掴んで指を口に入れてしまいそうだった。それくらい、愛沢の血からは今までに感じたことがないくらい甘くて濃厚な香りが漂っていた。でも絶対、それに口を付けたくない。 「人から、血、飲んだら……戻れなくなる……俺、俺そんなのイヤだ……っイヤだよ。人じゃ、なくなっちゃう……っ! お願い、やめて、いやだ……っ」  みっともなく、イヤだイヤだと泣きながらダダをこねる俺を、愛沢は静かに見つめる。そして手早く絆創膏で指を覆い、俺の身体を抱き寄せた。 「な……っ」 「ゴメンね、よかれと思ってやったんだけどさ。俺って本当頭足りてないっていうか、デリカシーないっていうかさ」 「さ、触わんな! 降ろせ!」 「ダメだよ。俺から血を飲まないんだったらちゃんと輸血しないとね」  軽々と俺を抱き上げ、診療所へと足を進める愛沢。その様子を見ながら、ヘレンは少し先を歩いて行った。 「案内してくれるの? ありがとうヘレン!」  どうしてヘレンの名前を知っているんだ。どうしてお前はそんなにVロームについて知っているんだ。聞きたいことは山のようにあったけれど、限界を迎えた俺はゆっくりと瞼を閉じた。 「……お、重い……」  ――お腹の重みで目が覚める。視線を移すと、ぷちが我が物顔で丸くなっていた。 「おはよう、尊人くん」  ぷちから視線をあげると、そこには花先生が立っている。先ほどよりスッキリした頭と、腕に伸びた管を見て、輸血されていることに気が付いた。 「花先生……俺……」 「富実くんが運んできてくれたんだよ。運んでる途中で意識がなくなっちゃって、そりゃもう青い顔で飛び込んで来てね」 「あいつ、帰ったの?」 「うん。俺がいるとあの子は嫌がると思うからって言ってたよ。尊人くん、どれだけ威嚇したんだい?」  花先生はクスクス笑いながら、ぷちの顎を撫でる。そして、先生は穏やかな声で俺に問いかけた。 「尊人くん、今日輸血をサボっていたよね。どうしてかな」 「ごめん。今日患者さん多かったから、診察室に行くの、ちょっと避けてて」 「尊人くんは、他のVローム患者と話すのが怖いのかい?」  自分が他の患者を避けている理由。それは自分でもいまいち分かっていないように思った。彼らを通して、自分自身と向き合うのが怖いのか、自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのが怖いのか。答えが出せなかった俺は、逆に花先生に質問を投げかける。 「花先生、Vロームの人たちと話すの、どんなかんじ?」 「そうだねえ、みんな憔悴しきっていて、まともに話せるようになるには時間が掛かるという印象かな」  俺の時は、正直診断結果を告げられても、わけが分からないと言う気持ちの方が強かった。でも今はヴァンパイア症候群が何なのか分かった上でその診断を受けることになる。俺の時はじわじわと湧き上がる絶望で、今の人たちはガツンと来る絶望って言えばいいのだろうか。とにかく種類が違うんだろう。そして、現実を受け止めきれず憔悴してしまうことも、痛いほどよく分かった。 「でもまあ、この病院にはVロームを誹謗中傷する人間がいないから、何日か過ごして冷静さを取り戻せるのは良いことだね。他にも患者が入院してるから、顔を合せて話す機会があるのも大きいだろう」  診療所の二階は開けたスペースになっていて、カーテンで区切った大部屋にベッドが六つと、個室が二部屋。合計八人入院出来るようになってる。今は大部屋に四人、個室に一人、合計五人が入院していた。それ以外の人は輸血をしにここへ通い自宅で過ごしてるらしい。 「……ここに来る人、俺のこと知ってる?」 「まあ君の名前はネットで調べたら出てくるからねぇ。でも出てくるのは旧姓の頃の苗字だよ。とはいえeat loveの代表は君のお母さんだし、関連付けてピンと来る人はいるかもしれないね」 「そうだよなぁ」  俺の事件は当時かなり問題になったし、同じ中学校の誰かが掲示板に書き込んだりしたらしいから、知ってる人は知っている状態になってしまった。  「……さっきの質問だけど、そもそも日本で三番目の初期患者でさ、俺は生きてるだけで珍しいじゃん。相手がVロームだろうがそうじゃなかろうが、そもそも人と話したくないんだと思う」  一年経ったとはいえ、あの日のことは今でもずっと奥底に閉じ込めておきたい。出来れば忘れてしまいたい記憶なのに、誰かとVロームについて話せば、簡単に、鮮明に脳裏に蘇ることは目に見えていたから。  目を瞑って黙り込むと、花先生の細い指が、俺の伸びた前髪に触れる。美容院にも行かない俺の髪は、ここ一年でずいぶん伸びた。 「尊人くんがイヤだと言うなら、別に誰とも話さなくて良いんだよ。ここは、そういう場所だからね」  誰とも話さなくて良い。この病院にいる人は、みんな俺を守ってくれる。だからこそ、愛沢とのやり取りは、俺にとってかなりの衝撃だった。直接話したくはないけれど、どういう人間なのかは知りたい、そんな気持ちを他人に抱いたのは、Vロームになって初めてのことだった。 「……ねえ、あの愛沢ってヤツはなんなの」 「気になるなら自分で話してみるといいよ」 「今話したくないなら話さなくて良いって言ったじゃん!」 「気になるなら話は別だろう? それに、彼は君と話したくてしょうがないみたいだしね」  そう言いながら、花先生は窓の外に視線を投げる。その視線を追った先には「あ、バレた!」という顔をした愛沢が立っていて、一目散に走って逃げていった。 「……はぁ……」 「ここへ運んでくれたお礼くらいしてもいいんじゃないかな?」 「花先生、面白がってるだろ」 「いやいや。青春とは素晴らしいと思って見ているだけさ」  何が青春だよ、とぶすくれながら、ぷちを抱き上げる。ぷちは「もう大丈夫なのか」と言いたげに小首をかしげながらひと鳴きして、すとんと床へ着地。花先生の方へ歩いて行った。 「尊人くん、あの子は君に乱暴したりしないよ。私が保証してあげる」  花先生がそう言うなら、きっと良いヤツなんだろう。 本当は分かっている。俺を抱きかかえたあいつの腕は、震えていた。まるで壊れ物に触るかのように、優しく、丁寧に、大切に。 「……はぁ……」  観念した俺は、ため息をついてベッドから立ち上がる。 「行ってきます」 「はい、気を付けてね」  花先生に会釈をして診察室を出る。屋敷先生は二階にいるのか姿は見えなかった。診療所の外を出ると、遠くの方でヘレンの鳴き声が聞こえる。鳴き声を頼りに進んでいくと、愛沢とヘレンがフリスビーをして遊んでいるのを見つけた。 「……ヘレン!」  俺の声に、ヘレンと愛沢が同時に振り返る。俺を見つけた愛沢は、ぱあっと明るい笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。 「え、あ‼ よかった、元気になったの? えっと、えーっと」 「……田崎だよ。田崎尊人」 「よろしく!俺は愛沢富実! 豊かな富が実るで、富実~!」 「丁寧な自己紹介だな……」 「みことはなんて字を書くの?」 「あ? えーっと……尊い人って書いて尊人(みこと)だよ。名前負けしてるようるせえな」 「何も言ってないよ⁉ でもそっか、良い名前だね! 教えてくれてありがとう」  真っ直ぐに、まぶしいくらいの笑顔を向けてくる愛沢に、俺は面食らってしまった。こんな風に屈託のない笑顔を向けられたのはいつ以来だろう。 「……その、助けてくれてありがとう。指、大丈夫か」 「あんなの全然大丈夫だよ。そもそも自分でやったんだし! 尊人は優しいね」  こいつはきっと、良いヤツだ。優しいヤツだ。それはすごくよく分かる。でもだからこそ、今すぐこの場所から消えていなくなりたかった。 「……じゃあそれだけだから、俺もう行くよ」 「え! もっとおしゃべりしよーよ。俺、尊人と仲良くなりたいのに!」  そう言って伸ばした手を、はっとした表情で引っ込める。俺が触らないで欲しいと言ったことを覚えてくれていたんだろう。 「ごめん、俺本当、考えるより先に色々動いちゃうって言うか……」 「お前がどこまで俺のことを知ってるか知らないけど、俺はVロームだから」 「うん。それは、分かるよ」 「俺はVロームも、そうじゃないヤツもみんな怖いんだ。だからもう会いに来ないで。ごめんな」  目を合わせることもせず、自分の家に走って逃げる。母は団体を立ち上げてから益々忙しくなり、家を開ける日も多い。でも母が俺に縛られず生きてくれている方が気持ちとしてはとてもラクだった。もし俺が死ぬことを選んでも、母さんが生きがいを失わないで済むから。 階段を駆け上がり部屋の扉を開け、ベッドに沈み込む。  頭の中で響いているのは、愛沢が俺を呼ぶ声だった。  ……やめてほしい。まるで仲の良い友達みたいに笑いかけて優しい声で呼ばないで欲しい。あんなに良いヤツなのに、愛沢の顔を見ると、脳内に「あいつ」の顔がよぎる、声が響く。 ――人の体液でしか生きられないなんて人間じゃねえじゃん――  ……どうせ愛沢も同じだ。 いつか俺のことを気持ち悪いとさげすむんだろう。それなら最初から優しくしないで。 あっちへ行って。近づかないで。  乱れる心臓を落ち着かせるために深く息を吸い、本棚の前に立つ。 「今日も夢で泳いでくれる……?」  そう言いながら、祈るような気持ちで本のページをめくった。

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