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第1話 梅干し

 夢をみている。  あったかいお風呂に浸かっている。これはニケの宿の風呂だ。なんだか懐かしい。紅葉街にも風呂屋はあるが、ニケのヒノキ風呂には及ばない。  隣にはニケがいて、ふたりで首まで浸かっている。お湯は熱いほどで視界は湯気で霞んでおり、まさに夢心地だった。  その幸福は唐突に終わる。夢から覚めるように。  自分は冷たい牢にいる。全身薄汚れていて、目も虚ろだ。足には枷が嵌められ、その個所の肌が紫に変色していた。枷を取ろうと引っかいた傷跡が膿んでいる。  殺した魔物の素材を売って生計を立てているようで、村に魔物が出たり魔物の情報が入ったりすれば連れていかれた。  命令を聞かないと飯抜きにされる。鞭で打たれるより、飯抜きにされるのが辛かった。だから、言うことはなんでも聞いた。従った。たまに、命令を聞いても殴られることはあったけれど。  村は雪崩で消えた。  あれほど息苦しかった村のすべてを、白が塗りつぶした。そんなものはなかったと言うように。地下にあったおかげで、雪崩で流されはしなかった。でも、このまま檻の中で死のうと思った。通路の入り口は雪に埋もれているのだ。すぐに呼吸できなくなる。  生きたい理由などない。  死がそばに迫ろうといつものように、ぼうっと虚空を眺めていた時だった。  何もない頭に、ふと「あの子」が微かに浮かんだのだ。どうせ死ぬなら、一目会いたい。春の芽のような小さな、でも確かな欲。  それが無意識に、「呼んだ」のかもしれなかった。  呼んでもいないのに轟音を奏で、黒刀が降ってきた。確かめるまでもなく呼雷針(こらいしん)だった。地表をぶち抜き、檻を壊す勢いで降ってきたそれの衝撃波で、壁に叩きつけられる。後頭部をしたたかぶつけ、この刀折ってやろうかと思い、顔を上げた。  目の前に檻はなかった。外へ続く階段が伸びている。雪で埋まっていたはずだったのに、今の衝撃で散ったようだ。風が吹き込む。 『――……っ』  刀を杖代わりに立ち上がる。歩き出そうとした足を、枷が阻む。  ガンガンと、何度か刀身で叩くと取れた。  もう、自分を縛るものはない。自由になった。こんなにあっけなく。しばらくそれ(自由)を見下ろしていたが、いつの間にか歩き出していた。力なく切っ先を引きずり、階段を上がる。  裸足で雪を踏む。寒い、という感覚すらない。  村を見回すと、屋根や井戸、家畜すらいなかった。見慣れた物すべてがない。真っ白な世界に一人だけ。おそらく掘り起こせば、なにか出てくるだろう。まだ生きているヒトがいるかもしれない。だが、掘り起こそうなどとは思わなかった。そんな命令は受けていない。  どこをどう歩いたのか、凍光山上層へ迷い込んでいた。 『うわっ』  龍虎に追い回されている天熊(魔物)に、撥ねられそうにもなった。  足を滑らせ、崖から転げ落ちた。その時に刀を手放したのだと思う。体力も尽き、空腹で動けない自分に、雪が積もっていく。  何かを掴もうと伸ばした片腕だけ、雪から出ていた。  炎天の月、上旬。  高い空は青く、朝から容赦なく日光が照りつける。洗濯物を干しただけで額に汗がにじむ。暑さに強いニケとはいえ、ため息の一つつきたくなる。顎まで伝ってきた汗を手の甲で拭い、空になった籠を持って家に入った。  眩いほどの外に比べ、室内は暗い。その明暗差に、目が一瞬おかしくなる。  しかしニケは、一時的に使えなくなった目を瞑り、すたすたと室内に上がり込んでいく。もう一か月近く滞在している家だ。見なくても嗅覚聴覚に優れている彼にとってたいした問題ではない。  炊事場に入ると、白衣ではなく胸元に鈴蘭の刺繍が入った割烹着姿のキミカゲが調理の最中だった。香りからして、お粥だろうか。ニケは飛び上った。 「翁! お、翁……? どうなさったのですか?」  これでもかと口を開けて驚くニケの犬歯を見下ろしながら、キミカゲは微笑む。 「おはよう。ニケ君。洗濯物、ありがとうね」 「おはようございます翁! あああの、一体何が?」 「ん? ただ今日は珍しく早く目が覚めたから、たまには朝食でも、と思って」  キミカゲはとにかく朝が弱い。なんども声をかけて、身体を揺すって、最終的に鍋とお玉をカンカン鳴らして、ようやく起きる。彼を起こすのも一苦労だ。ニケがいないときはどうやって起きていたのだろうかと、激しく気になる。  そんなおじいちゃんが早起きして炊事場に立っているのだ。ニケの驚きはもっともだった。  足元をぐるぐる回りながら見上げてくる幼子に、キミカゲは若き日の友を思い出す。 (アビーと同じこと言うよなぁ。ニケ君)  アビーとはニケの祖父の愛称で、キミカゲの友人だった男だ。クソ真面目なくせに淡々と失礼な言葉を投げかけてくる無礼な男であったが、キミカゲの長い人生を彩ってくれたひとりである。  ニケが足元を回る動きに合わせて、キミカゲも首を動かす。 「昨日の残り飯に湯を入れただけだけどね~。付け合わせはどうしようか?」  付け合わせと聞いて、ニケはぴっと手を上げる。 「僕はお粥には梅干しが欲しいです!」  キミカゲはにっこり微笑むと、火をつけたままどっかへ歩いていく。ハテナを浮かべて見送っていると、彼はすぐに戻ってきた。手に一冊の古びた書物を持って。  キミカゲは書物を広げると、炊事場の床に直座りした。 「翁! 冷えますよ。……なにを読んでいるんです?」  ひょいと翁を持ち上げたニケが、書物の表紙を見る。そこには「赤犬族の食べ物」と書かれていた。  幼子に抱っこされたまま、キミカゲはぱたんと書物を閉じる。 「赤犬族に梅干しはNGだわ。塩分の少ないものにしよう」  書物を仕舞いに行こうとするキミカゲの割烹着に縋りつく。 「うううん。一度食べてみたいんです! 梅干しってめっちゃいい香りするんですもん。ねっ? ねっ? 一粒だけ。いいでしょ?」 「だーめ」 「うーめぼし! うーめぼし!」  ずるずる引きずられながらも梅干しコールをするその様子に、キミカゲは苦笑する。 (ニケ君。我が儘を言ってくれるようになったな)  良いことだ。子どもはもっと我が儘を言って大人を困らせるべきなのだ。良い子でいる必要はない。  内心物凄いため息をつきながら書物を本棚に仕舞い、ニケの視線に合わせるようにしゃがむ。犬耳はぱたりと暴れるのをやめた。もし拳が当たれば、おじいちゃんくらい簡単に吹き飛ばせることを知っているからだ。これがフリーなら構わずぶっ飛ばしているだろうが、キミカゲに無礼は働けない。  以前は足の踏み場もなかった私室は、見違えるほどきれいになった。ニケが「もう我慢できません。片付けないのなら捨てます!」と叱ってくれたおかげで、脱・汚部屋できたのだ。そんな人が住める部屋となった室内で、ニケの頭を撫でる。 「ごめんね? その代わり何かおやつを買ってあげよう。コンフェイトス(金平糖)やカステラなんてどう? 美味しいよ?」  もっと撫でてと目を細めていたニケが――ハッとなる。 「す、すみません……。翁を困らせるつもりは」 (あああああ……)  ニケの駄々っ子モードが終了してしまった。もっとそのままでいてほしかったのに。ニケは迷惑をかけてはいけないと、大人の仮面を被ってしまう。

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