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 金曜の十八時。帰宅ラッシュを迎え始めた地下鉄の駅は混んでいた。  独特の生ぬるい空気を感じながら、人の流れに沿うように地下通路を歩く。  いくつかの階段を降りホームを進んでいると、最初におかしな騒がしさに気づいた。  通常の人混みから生まれる雑踏音とは違う、不穏さと緊張感を含んだざわめき。  そして次の瞬間、響は空気中に漂う匂いを感じ取った。  胸の奥から不快感が湧いてくる、よく知った匂い。  ――オメガのヒートフェロモン……?  それからすぐ、あちこちから大声が飛び、人の流れが乱れ始める。  瞬く間にホームは混乱の渦に巻き込まれた。 「オメガのヒートだ!」 「アルファは抑制剤打って!」  人々の喚起し合う声で、やはりヒートを起こしたオメガが居るのだと知る。  オメガのヒートフェロモンは、アルファに強く影響する。ヒートに当てられたアルファは発情し、最悪の場合錯乱状態(ラット)に陥る。  理性を失ったアルファはオメガを襲い、無理やり身体を繋げようとしてしまう。  ヒート時のオメガとアルファのセックスでは、女性だけでなく男性でも妊娠に至る可能性があり、そういったトラブルを防ぐために、二つのバース性にはフェロモンをコントロールする『抑制剤』の携帯が義務付けられている。 「ヒート起こしてるの、一人じゃないぞ!」  ――集団ヒート?嘘だろ?  響は込み上げる吐き気を堪え、バッグの中を漁った。手探りで薬の入ったケースを掴む。  フェロモンの匂いと混乱の広がりに比例し、響の体調もどんどんと悪くなっていく。  通常、オメガのフェロモンに反応するのはアルファだけで、オメガ同士ではフェロモンの影響を受けないとされている。  けれど響は、オメガのフェロモンに対して、激しい不快感や吐き気、眩暈といった症状が表れる。  後天性オメガの特性によるものなのか、元アルファの響だけが例外なのかは分からない。後天性オメガに関するデータは未だ少なく、その実態は不明な部分が多い。  震える指で、ケースから錠剤シートを取り出した。オメガフェロモンによる不調を軽減する対応薬だ。  薬をシートから押し出そうとしたところで、走ってきた人にぶつかり、ケースごと薬を取り落としてしまう。  ――やばい。  思うと同時に、一気に濃くなった匂いと不快感に顔を上げ、そして目を見張った。  響の目の前に、この騒ぎの原因であろうオメガがいた。  フェロモンを撒き散らし、目の焦点は合っていない。唇の端からは、呻き声と細かな白い泡が溢れていた。  ……これはヒートなのか?  異様な姿にそんな疑問が浮かぶ。けれど、さらに酷い嘔吐感が込み上げてきて、思考はすぐに散ってしまった。  膝が折れ、(うずくま)りそうになる。  かけていた伊達メガネが床に落ち、逃げ惑う人達によって蹴って踏まれて、あっという間にただの砕けたプラスチックとガラスになった。

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