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 けれど、壱弥――F・アルファには、身体能力が優れているという特性があり、それは運動神経だけでなく視覚や聴覚、嗅覚といった五感も含まれる。  実際、壱弥は目も耳も鼻もいい。  英司から聞いた話だが、オフィス兼壱弥の住居の扉を響が開ける数分前に、靴音と香水でその到着を言い当てたらしい。  そんな壱弥が言うのだから、同じ匂いがしたというのは間違いないはずだ。  響はひとつの可能性に思い当たる。  地下鉄のオメガ達はただの生理的ヒートの発症ではない。違法薬物(ドラッグ)による人工的なヒートだ。  フェロモンに紛れた薬の香りを壱弥が嗅ぎ取り、宮下の匂いがそれと同じだとしたら。  宮下はドラッグを使用したオメガと身体的接触――要は、オメガと違法薬物を用いてセックスをしたということになる。  それが一度きりか、日常的かは分からないけれど。  事件の話をした時の、宮下の奇妙な動揺も、そう考えると納得がいく。  オメガとして響を見る、あの舐めるような目付きと、触れられた手の感触を思い出し、ぞわりと悪寒が走った。  取り引き先の担当者じゃなければ、二度と会いたくないと毎回思わせる男だ。  無意識に首元に手をやる。カラーに触れ、深い呼吸を繰り返すと、気分が少し落ち着いた。  チラチラと壱弥からの視線を感じる。 「運転手さん、しっかり前見て」  バックミラー越しに目が合い、壱弥が慌てて前方に視線を戻した。 「……響、大丈夫?気分悪い?」 「大丈夫」  心配そうな壱弥に、響は笑顔を見せる。  一応、英司にも宮下のことは共有しておこうと、タブレットを立ち上げた。 「そういえば壱弥、名刺交換すごく上手だったね」  端末を操作しながら言うと、運転席から弾んだ声が返ってくる。 「うまくできてた?」 「完璧だった。自分の名刺持ったの初めてなんだよな?」 「そう、初めて。英司さんに、やり方教えてもらって、めっちゃ練習した」  練習したのか。どうりで。  それでも初の本番で、あの洗練ささえ感じる立ち居振舞いは大したものだと思う。 「あの挨拶の言葉も覚えたの?」 「うん。響をびっくりさせたかったから、内緒で。俺、覚えるのは得意なんだよ」  覚えるのは得意、という壱弥に、響はふとこの二週間を思い出す。  壱弥は知らないことは多いけれど、一度教えると、確かにその全てを覚えている。  食べ物や人の名前、響の香水の長ったらしい正式名称も、外車の操縦方法も。  そういえば、一度行った場所はその後ナビ入力なしで迷わないし、今日初めて聴いたブルーノ・マーズだって、正しいメロディーを口ずさんでいた。  大人なら知っていて当たり前のような物事が多いから見落としていたけれど、ほんの少し見たり聞いたりしただけのことを、壱弥は覚えている。ほぼ完璧に。  ――F・アルファの知能指数は小学生程度といわれているはずだ。それなのに壱弥の、この記憶力は……。 「……響?」  壱弥に呼ばれ、はっと意識を戻す。 「ああ、ごめん。……壱弥、今日は初日なのに、すごくよく出来てた」 「合格?」 「めっちゃ合格」  響のフィードバックを受け、壱弥が嬉しそうに「やった!」と身体を揺らす。  子供みたいなその反応に、F・アルファの未解明さを垣間見た気分になる。 「……あとは、一条さんって呼べれば、もっと良いんだけどね」  わざと責めるように言ってやると、壱弥はただ悪戯っぽく笑って、車内に流れるポスト・マローンを歌う。  最初から『社長』や『一条さん』なんて呼ぶ気はなかったらしい壱弥に、響は苦笑いを浮かべ、再びタブレットに目を落とした。

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