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第13話
13 安岡
約束の時間より三十分早くついた。
腕時計を見た安岡は楽器店の入り口で、周囲を見回した。
当然耕平の姿は見えない。大学からは少し離れた繁華街の中の楽器店だ。
夕暮れ時の街並みは、行き交う車のライトが光り始めるころだった。
いつもスタジオを借りている楽器店は、島田や、他のメンバーがいる確率が高いので避けたのだった。
いつもの店じゃないことを、耕平は不思議に思っただろうか。
こっちの店の方が安くていいのがあるからという説明に異を唱えることはなかったのだけど。
でも、普通の思考力があれば、安岡の考えていることはまるわかりだろう。
しばらく、そこの店の良さそうなギターを見て回った。予算は一応三万ということにしていた。
三万あれば、それなりのギターは買える。
しかし、もちろんいいギターはもっと値がはる。自分が少し出して、五万くらいのを買わせようと考えていた。場合によってはさらに出してもいい。
自分では四万ほど用意している。
とりあえず、ヤマハのギターをチェックしてみる。
アコースティックにも、スチール弦のフォーク系と、ナイロン弦のクラシック系があるが、普通に考えればフォーク系になるだろう。
ソロギターをやるのならナイロン弦も味がある音でいいが、弾き語りとかにはやはりスチール弦の方が合う。
APX700あたりがいい線か。値札には55,000円と書かれている。
その下のランクにはAPX500が35,000円であるが、こちらは表板がスプスルースの合板になる。
合板よりは単板の方が一般的に響きが豊かだ。
APX500を勧めておいて、その後、自分が少し出すからといってAPX700を買わせようと思っていた。
ヤマハのAPXシリーズは、一般のものと違って、やや胴厚が薄めになっている。
普通のギターが130ミリくらいだが、これは80から90ミリなのだ。
この特徴も、小柄な耕平には合うだろう。
「安岡先輩、こんにちは。早いですね」
約束の時間より10分早く耕平が入り口のドアを開けて入ってきた。
相変わらず、率直に見て女の子にしか見えない。女装しているわけでもないのに。
今日は気温が上がってるからだろう、いつもの革ジャンではなく、パープルのティーシャツの上から白いフード付きのコットンパーカを羽織っている。
初めて会ってからひと月半くらいか。少し髪が伸びた様だ。
左眉の上あたりで長い前髪を軽く分けている。飾り気のない髪型だけど、すごく似合っていた。
一昨日はこの子の尻を抱いたのだ。
思い出しただけで、前が固くなった。もう一度抱きたい。何度でも抱きたいと思った。
「とりあえずこれ、試してみろよ」
安岡が陳列棚から下ろしたAPX500を、耕平が受け取った。試奏用の椅子に耕平が腰かけて、ギターを抱える。
「ちょっと小ぶりなんですね、スタジオで借りたのよりしっくり来ます」
安岡が合図すると、長髪を後ろで束ねた店員がやってきて、ギターの弦調節を始めた。
「これ、女性にも人気なんですよ。胴厚薄めだし、ネックも細めで弾き安いから」
若い店員も耕平のことを女と思って何の疑いも持っていないようだ。
店員から受け取ったギターを再び耕平が試奏してみる。
バンド練習のスタジオで何度か練習した成果か、簡単なコードがきれいに響いた。
「ネックの握りやすさ、弦の押さえやすさを確認してみろ」
安岡のアドバイスで、いくつか覚えたてのコードを押さえてみる。
「いい感じです。これにしようかな、35,000円なら予算内だし」
「これが35,000円、これのもう一つ上が55,000円なんだけど、俺が二万出すからそっちにしないか? 表が単板になって、響きがいいぞ」
「え? いえ、悪いですよ」
「ギターやってるとどうしても上のクラスが欲しくなるんだよ。最初に五万出してれば、そこそこ良い物だから当分それで満足出きると思う。金はできた時に返してくれればいいからさ」
遠慮する耕平に、水臭いという気持ちが湧き上がる。
あんなことをした仲なんだから。もっと甘えればいいのに。
耕平のなめらかな細い肩のライン。
ややくびれた腰から、ふくよかなヒップにいく淫らで伸びやかな線。
安岡の頭の中を占領する映像が、今も目の前を過ぎていく。
「じゃあそうします。すいません」
何度か勧めた結果、やっと耕平は安岡から2万円借りることに同意した。
「別に高利貸しじゃないから安心しろよ」
安岡の台詞に耕平の笑みがこぼれた。
買い物を済ませた二人は、そのまま耕平のマンションに帰ってきた。
「晩ご飯食べて行ってくださいよ。とりあえず焼きそば作りますから」
安岡にインスタントコーヒーをいれた後、再び耕平はキッチンに立つ。
料理している耕平を後ろから眺める。
短めのティーシャツから素肌がチラチラのぞく。
何とも言えない幸福感を感じてしまう。
新婚の夫婦はこんな感じなのだろうか。
キャベツを刻む耕平が何とも愛おしい。ふと立ち上がり、後ろから抱きしめたくなる。
しかし、お楽しみは後でゆっくり。そう考えて何とかこらえた。
耕平の作ってくれた焼きそばは、ピリッと辛口だった。
よくみると、七味唐辛子がふりかけてある。
太く刻まれたキャベツの歯ごたえが心地よかった。
食事の後、早速買ってきたばかりのAPX-700をケースから取り出した。
色は冬の海のような紺に近い青だった。
安岡はそのギターを軽く弾いてみる。
あまり騒々しくすると隣から苦情がくるだろうから、ストロークは控えめにして、アルペジオをやってみる。胴厚が薄い割りには鳴りが良い。狭いワンルームマンションにはちょうどいいくらいの音量だ。
「それ、何という曲なんですか?」
隣に座った耕平が聞いた。
「エンターティナー。聞いたことあるだろう。スティングのテーマ曲だよ」
「そういえばテレビでみたかな? 映画はあまり覚えて無いけど、音楽って忘れないですよね」
「そうだな。良いメロディって一度聞いたら忘れないな」
良い雰囲気だ。このまま耕平を脱がせようか。そして、ふっくらした胸に口づけしようか。
いい女も、いい男の娘も、一度抱いたら忘れられないのだ。
「ほら、弾いてみろよ」
耕平にギターを渡す。安岡は耕平の後ろにまわり、耕平とベッドの間に腰を下ろす。
ギターを抱いた耕平の後ろから、安岡は手を回し弦を弾く。
「これがアルペジオ。親指はコードによって6弦弾いたり5弦弾いたりするんだ。Amの時は5弦、Emの時は6弦とかね」
「難しいですね。そういうの全部覚えないといけないんだ」
安岡の真似をして指を動かそうとするがどの弦を弾いていいのか分からないようだ。
「覚えなくてもいいよ。やってるうちに手が勝手に動くから」
「僕にも弾けるようになりますかね」
耕平が安岡の方を振り向いた。見上げる耕平の唇が誘っているようだった。
安岡は柔らかい耕平の唇に自分の唇を重ねた。
耕平は力を抜いて体を預けるだろうか、舌を絡めてくるだろうか。
しかし、その反応はまったく想定外の物だった。
釣り上げられようとした魚が跳ねるように、安岡の腕の中で耕平は暴れた。
「止めてください。先輩、どうしたんですか」
思いもよらぬきつい言葉に安岡は一瞬で混乱してしまう。
先日はあんなことをした仲なのに、一体全体どうしたのだ。
「いや、どうしたって言われても」
まごつく安岡の腕を離れて、耕平が立ち上がる。見下ろす目には涙が滲んでいた。
「いや、すまん。こ、心の準備ができて無かったかな?」
呆然と座ったままで安岡はそう言った。
「何のことですか? 意味分からないです」
安岡にとっては耕平の言葉の方が意味不明に思える。先日の記憶がまったく無いような言い方だ。
「ひょっとして、こないだの歓迎会の夜の事、覚えていないのか?」
酒は飲んでいたが、記憶失くすほどには酔っていなかったと思ったが。
「歓迎会の夜? そういえば、安岡先輩に送ってもらったんでしたね」
険しい表情だった耕平の顔から、安岡に対する不信の気配がゆっくり消えていった。
安岡の横に、こめかみを指で押さえた耕平がしゃがみ込む。
「よく思い出してみろよ。あの夜、この近くの公園で三人組に襲われただろ」
「そういえば、そんなことがあったような気がします」
「忘れてたのか。そんなに酔ってるとは思わなかったけど」
眉を寄せて目を瞑る耕平は、徐々に記憶を呼び起こしているようだ。
「襲われたとき、先輩が助けにきてくれたんですよね。でも僕が人質にされて……」
少しずつ記憶が戻ってるようだ。安岡も少しホッとした。
そのままこの部屋でのことまで思い出してくれれば、さっきの安岡の行動も理解してもらえる。
耕平が深いため息をついた。その後首を何度も振る。
「思い出したか?」
優しく聞く安岡の目を見つめる耕平は、唇を噛んで立ち上がった。
「思い出しました。でも、今日は帰ってください。僕、ちょっと混乱してるんです」
弱々しい声で耕平が言う。安岡はすぐに立ち上がった。
「わかった。今日は帰るよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
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