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柚子side

 立ち止まった俺とは反対に、駆け足で近づいてくるその人影を見て、支えてくれていた橘くんから少し離れた。  ……もう何もかも終わりだ。 「柚子くん!」  今まで、外でそんなふうに俺の名前を呼んだことなんてなかったのに。恋しさを募らせたようなその声に、怒りで壊れそうになる。  ずっと待ち続けていたのに、今の俺にとっては地獄でしかない。どうして今なの? 「津森さん……、」 「柚子くん、僕はね、」 「津森さん、隣に友人がいるのが見えませんか? あまりにも勝手すぎるよ。帰ってください」  視線を合わせることなくそう伝えたけれど、震えるこの声を誤魔化すことすらできない。  橘くんのことが気になって仕方がない。今から何の説明もなしに帰るように頼んだら、そうしてくれるだろうか?  それから次に会う時には、何事もなかったように接してくれるだろうか? これまでみたいに何も聞かずに、マイペースな距離感で、時々俺のことを乱しながら、「きーちゃん」と呼んで、笑顔を向けてくれるのだろうか。  でもそんな彼に対して、俺は何ができるのだろうか。 「橘くん、悪いけど、今日は帰ってくれる?」 「え? この状況でひとりにはできないよ。なんかやばい人? 危ないんじゃない?」 「何も聞かずに帰ってくれないかな。お願いだよ」  戸惑いながらも俺を心配してか、橘くんが俺の腕へと再度手を伸ばす。橘くんに捕まる前に避けようとした瞬間、それよりも早く津森さんが橘くんの手を払いのけた。  それから一気に詰められ、抵抗する間もなく津森さんに抱き寄せられる。  「柚子さん!」と橘くんが俺の名前を叫んだ。見られてしまった。ただの不審者で終わらせられない。 「津森さん、やめて!」 「だって、誰だよコイツは。僕、言ったよね? 君の顔を見て、話したいんだって。会いたいって。こんなふうに終わっちゃいけないんだって! これまで通り会いたいってさぁ!」  あんなに穏やかで幸せをくれた津森さんの正体は、これだったのか。過去の温かな記憶はそのままに、気持ちを切り替えよう、受け入れようと思っていたのに、それさえも壊していく。  自分と俺との関係のみならず、俺の人生を、俺の価値観をも否定し、そして今の大切にしたいと橘くんとの関係も、彼には見えていない。  津森さんは俺を、俺のまわりのものを、何も受け止めてくれていないし、大切にする努力もしてくれないんだ。    自分のことだけだ。自分のことばかり。ずっとずっと、そうだったんだ。 「やめてよ……! 頼むから、やめて……っ」 「柚子くん!」 「友人が来てるって、だからやめてくれって、そう言っているのが聞こえないの? ねぇ、津森さん。俺のこと、ちゃんと見てよ。どこまで壊せば気が済むの……!?」  ああ、橘くんは今、どんな顔で俺のことを見ているの。怖いよ。 「柚子くん!」    津森さん、あなたはどこまでも勝手な人だ。   「今さら何なの? 津森さんは結婚したじゃん!」 「でも僕は君が好きだよ。だから別れたくない。君との関係を続けたい。君を失いたくない!」 「津森さん……、あまりにも勝手すぎるよ」 「うん、ごめんね。でも僕は君が好きだから。仕方がなかったんだ。彼女のことはさ。俺も良い年だったし、結婚していないと不自然だろう?」 「結婚していないと不自然だから? だから結婚したの?」 「そうだよ。そうすれば君との関係だって続けられるでしょう?」 「……馬鹿じゃあないの」  俺がゲイだと受け入れてくれたのに、自分のことは受け入れられていなかったってこと……?   俺と同じようにほとんどのことを諦めて過ごしていたんじゃあなくて、ありのままの自分は俺だけに受け入れてもらって、外ではノーマルだと取り繕うために、女性を利用して結婚したの?  奥さんのことは好きじゃあないの? そもそも、結婚する前の付き合いは? この人ならと、何か決め手はあったんでしょう?  ああああ。  頭が痛い。津森さんのことも、自分の感情も、そして橘くんのことも。考えることがあまりにも多すぎて、頭が割れて壊れてしまいそうだ。  一体何が本当なのか。どこから狂っていたのか。 「……っ、ああもう、」  俺は何も知らずにこの人を信じて、そして愛していたんだね。こんな人のために傷ついて、あんなに泣いたんだね。  俺は手を握りしめ、津森さんの胸を思いっきり殴った。対応しきれなかった彼が、地面に尻もちをつく。

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