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<8>日曜下宿―陸軍中央幼年学校予科(1914)②

 ところが予科の最下級生である実充が、士官学校生たちに大層評判がよいのを妬んだ本科生たちが、あるとき日曜下宿に人のいなくなったのを見計らって、実充を取り囲んだことがあった。  幼年学校本科生というと、たいてい実充より3つか4つ年上、つまり17,8歳の少年らである。人数は3人ぐらいだっただろうか。 「柚木、貴様、士官学校生らに如才なく取り入って目を掛けられておるだろう」 「貴様の右顧左眄(う こ さべん)、八方美人な振る舞いは目に余る」 「少しばかり見目が良いからといっていい気になるなよ」 「小癪だ」  等といって実充の胸倉を掴み小突いてきた。実充には全く身に覚えがないのであるから、これはどう見ても実充の受けがよいことに対するいいがかりであった。  その本科生たちに云わせると、「日曜下宿内でも流儀がある、士官学校生と親しくできるのは本科生だけだ、予科生は口を聞いてはならんのだ」ということらしい。誰が決めたしきたりでもない。少なくとも実充は初耳だった。  校内では暴力沙汰はかたく禁じられていたし教官たちの目が届いていたが、日曜下宿はそれに比べるとある意味自治的なものであって、下宿内でのしきたりや作法、問題解決は利用者たちに委ねられていた。朝から晩まで厳しい規則生活を強いられるなか、彼ら将校生徒が唯一羽目を外せる場、それが日曜下宿であった。  本科生たちが実力行使に出たのは、そうした日曜下宿特有の“緩まった空気”のなせる業だったのだろう。  現代でいえばひ弱な中学生が、大学生にもてるのを妬まれて、がたいの良い高校生数名に囲まれるといった状況が当てはまるだろうか。腕力ではかなうはずがなく、そもそも抵抗すれば尚更殴られることになるだろうから、実充はただひたすら頭を庇って丸くなるしかなかった。  板の間にうずくまりながら、なぜ今日に限って赤羽君(同郷の同期生)と一緒に来なかったかと悔やんだ。読書に夢中になり日が暮れかけていることにも気付かずにいた事も悔やまれた。大声を出してもそこは大きな商家邸宅の離れであるため誰にも届くまい。  だいたい貸主である大家は、将校生徒たちが帰りしずまったあとで離れの施錠の確認にくるのがせいぜいで、将校生徒たちが門限ぎりぎりまでそこに滞在することを知っていたし、利用中は極力放っておくというか、将校生徒らの自治を乱すような介入は一切しなかった。  そうこうしているうちに本科生数名は、より大きな恥辱を与えるべく実充の軍服を脱がしにかかった。 「坊やの可愛いアソコで兄さん達を(たら)し込んだのか」 「なら俺達にも見せてみろ」 「俺等の稚児にしてやる」 などと詰襟を左右から引っ張られ、第一、第二釦までもが千切れ飛んだ。実充は蒼白になりながらも(自分が何ら悪事を働いたわけでもないのに何を謝ることがあろうか)と思い、ヤレ謝れ許しを乞うてみろと云われても絶対に口を開かなかった。  本当の所は小便をちびりそうなぐらいの恐怖であった。  入学時にはまったくの無知であったが、権藤ら予科三年生たちから色目を使われはじめてから、周りの友人が「念友・稚児とは実際男同士でどのような行為をするのか」教えてくれたので、実充にも今や自分の貞操が危うい状況であることはよく分かった。  実充がぐっと唇を噛んで泣き叫ばないので、本科生たちはとうとう本気になって実充を板間に押し倒した。上着も軍袴も脱がされて下帯一枚になった実充を見て本科生たちはひょうひょうとからかうような笑い声を上げた。同時に14歳の少年の若木のような裸体に妙な疼きを覚えたのだろう、3人よってたかって実充の上に圧し掛かった。六本の手が実充の感じやすい場所をつつき、撫で廻した。  下帯にまで手を掛けられ、実充が舌を噛んで死のうかとすら思った時、不意に離れの引き戸がガラガラと開いた。本科生たちは慌てて裸の実充を隠すように、彼の周りを覆うように立った。 「誰だ貴様」 「何の用だ」  本科生たちの怒声を実充はぼんやりと聞いていた。はっと我にかえったのは、 「予科一年、南泉郁巳であります。同期生を迎えにきました」 と名乗る、よく透る声を聞いたからだ。ようやく体の自由がきくようになった実充は、がばっと起き上がって服を掻き集め視線を上げた。  その先に、例の因縁の同期生が夕陽を背負い、戸口に毅然と立っていた。ある意味出来過ぎているほど、目映い光景であった。 (南泉、なんでここに)  助かったという安堵感とともに動揺が押し寄せてくる。そのとき自分がどんな情けない表情をしていたか実充は覚えていない。ただこちらに顔を向けた南泉の、無表情な鋭利な視線だけははっきりと記憶に残っている。  本科生たちも、日本人離れした美貌の南泉に冷静な観察眼を向けられて明らかに動揺していた。 「き、貴様ぁ、何じろじろ見ておる」 「ここは横浜地区出身者の寄合い下宿だぞ、余所者は立ち入り禁止だぞ」  凄まれると、南泉は一寸(ちょっと)顎を上げてあからさまな侮蔑の表情をつくった。 「今まで来たことは無くてありましたが自分にもここを利用する権利はあります、自分も横浜出身であります」 「何ぃ、…」  云い掛けて彼らが不意にやめたのは、横浜出身で名字が南泉といえば、華族南泉男爵家の令息かまたはその親類筋と容易に知れるからだ。彼が名乗った時点で気づくべきであろうが、本科生たちも気が動転していたのだろう。  とにかく本科生たちはそれ以上の乱行を諦め、口中でぶつぶつ罵りながら南泉の脇を擦りぬけ下宿の外へ出て行った。 「下衆め」  一言吐き捨てた南泉は実充に視線を向けた。実充は南泉に背を向け、脱がされた軍服を再び着こむのに必死だった。  ちぎられた二つのボタンは何処かへ飛んでいた。下の方の釦を留めながら、おのれの指が震えてうまく動かないのに実充は気づいた。恐怖は過ぎ去ったはずだが、後になって震えがくるとはこういうことであろう。屈辱的なおのれの様に悔し涙が溢れ、汚い言葉が思わず口を突いて出た。 「畜生、チクショー」  南泉はというと黙って戸口に佇んでいた。実充もまた、彼に何かしらの慰めの言葉を期待しているわけではなかった。むしろ何も云わず黙ってくれていたのは有難かった。  実充はベルトを締め直し悔し涙を拭いて、振り返り、その南泉に食ってかかった。 「南泉、貴様、いつもいつもおかしな時に現れおって、一体なんのつもりだ」  助けてくれてありがとうと礼を云うべきところであるのは実充にも重々分かっていた。  しかしどうしようもない場面を見られた恥ずかしさと、生来の負けん気の強さや南泉に対する対抗心など、全てのもやもやした感情が邪魔をして、素直に頭を下げることがどうしてもできなかったのである。 「俺に貸しを作るのがそんなに楽しいか貴様、貴様……」  南泉に突っかかろうとして、彼の背後に廻していた手に何かが握られているのに気づいた。  南泉は使わなかったそれを、そっと戸口の脇に立て掛けた。  庭で剣道の素振りができるようにと誰かがいつも戸口に置いておいた木刀だ。それを握り締めていた南泉の掌は白くなっていた。自分を助けるためにそれを本科生たちに振う覚悟さえもが、南泉にはあったのだと気づき、実充は顔を真っ赤にして南泉を睨みながらもわけのわからぬ一筋の涙で頬を濡らした。  南泉は「もうすぐ門限だ。帰るぞ」とだけ云い、土間に落ちていた実充の軍服のボタンを拾って実充に差し出した。目では「だからもう少し、自分の置かれている状況を自覚し防衛しろと云っただろう」と云いたげであったが、混乱し動揺している実充に配慮してか一言の嫌味もなく黙ってくれている、その格好良さがまた気に食わないのであった。 第9章へ続く
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