19 / 110

<10>応急処置―陸軍中央幼年学校予科(1914夏)①

 彼らはそこで輪になり今後の方策について確認しあった。その結果、やはり今後も上級生の予期せぬ襲撃に遭う恐れがあるとして、山肌沿いに進む道を断念し、菅間班の後をつけるように地図にないルートを行くことになった。  南泉の提案に異論など出るわけもない。異論を唱える者がいるとすれば実充ただ一人だが、彼もここは黙っていた。妥協したわけではない、何やら自信ありげな南泉がどんな作戦を用いようというのか、意地の悪い興味が沸いてきただけだ。  励まし合いながら崖を攀じ登り、道無き道を懸命に往く。背嚢が重過ぎて走るのはとても無理だが、終始小走りのような速度で二年生の菅間班の後を追う。駈歩訓練に慣れた菅間班は大分先を行っているようだが、彼らが通った後、茂みの草が左右に割れて獣道のようなものができているので追うのは簡単だった。  時折立ち止まり、方位磁針と地形図で現在地を確かめると、二年生ならではの大胆なコース取りが明らかになり舌を巻かされる。かなり近道をしている。これは、正攻法に遠足気分で山道を行っていては完敗に違いない。こんなコースを知っている上級生に挑む方がどうかしている、と実充は内心思っていた。やはり駈歩とはいえ熟練度の差が出ている…。  実充と同様、不安を隠せない班友らの前で、南泉は平然と顎に指を当てていた。 「後をつけたのは正解だったな、奴らは相当、道を知っている」  自分でルート設定をしなくて済むので一石二鳥だとでも言いたげだった。  出発前に水を目いっぱい詰めた水筒も、正午ごろには半分ほどにまで減っていた。それでもまだ憎らしいほど重い。紐が肩に食い込む。アルミ製の筒缶が一歩ごとに腿に当りちゃぷちゃぷと小気味よい音を立てている。しかし次の水場まであとどのぐらいあるか分からぬので、飲み干してしまうことはできない。  風は全くない。直射日光の照りつけない茂みの細道はまだ幾らか涼しくマシであったが、森が途切れ、峠の平坦な道が顕れると途端に、七月の太陽光が降り注ぎ眩暈のするような息苦しさが襲ってくる。  ジリジリと耳を焼く油蝉の声。朝からずっと鼓膜を悩ませ続けている耳鳴りのようなその音は、我慢の限界を通り越していつしか遠く彼方に聞こえはじめている。  蝉が遠くへ行ったのではない、遠のいているのは実充の意識のほうだ。思考することを止め、ただ無心に足を前後に動かす。そのうちに自分が何故こんな所に居るのか、何のために歩いているのか、なぜ先を急ぐのか、目指す先には何があるのだか……朦朧として全てがよく判らなくなってくる。  ふと気がつくと暑い、暑いと一歩ごとに半開きの口で呟いている自分がいて、無意味な独言を止めようと口を閉じると干からびた舌が口蓋に張り付いて、喉が焼けつくように沁みた。口を閉じても唾液も溜まってこないほどカラカラに渇ききっていることに気づき、水筒を呷り、はっと気づいて水を節約する……。その繰り返しだ。  しかし朦朧状態の原因は、実をいうと喉の渇きだけではない。崖をよじ上る際、無理な姿勢をとって滑り落ちそうになり、踏ん張った瞬間右の足首にずくんと灼熱が奔った。班友にひっぱり上げられて何とか崖は制したが、それ以来足裏を内側に少し傾けるだけで、(くるぶし)の下にピーンとした鋭い痛みが沸く。どうやら軽い捻挫をしたらしい。歩けぬほどではないと自己で判断し班友らには黙っていたが、行軍をすすめるにつれ踝の痛みは酷くなる一方であった。腫れてきたかもしれない。  実充は不安を覚えた。これは上級生との競争どころか目的地まで歩き通すことができるだろうか…、だが自分ひとり戦線離脱するわけにはいかない。怖気づいたと思われたくはない。  それゆえ右足の痛みを班友らに悟られぬようにしながら、実充はなんとか行軍を続けた。正午を過ぎるころには隊列から遅れがちになり、事情を知らぬ班友らに「水は残っておるか」「暑いがもうひとふんばりだぞ、実充」などとたびたび見当違いの励ましを受けた。  懸命の追歩の甲斐あって、菅間班と思しき後姿が木立の向こうに見え始めた頃、南泉は行軍を一旦停止させた。南泉は指を唇に当てながら声を低める。 「少し戻った所に小川があった。先に昼飯を済ませておこう」  呑気に飯盒炊事などしている場合かと思ったが、南泉の見立てによると菅間班はその地形図の先にある河原で昼休憩をするつもりらしい。追いついたのは菅間班が休憩場所を探していたからなのだ。その場を過ぎるとまた険しい山道が続くようなので確かに彼の予想は理に適っている。それに、実充のくるぶしの痛みももう限界に近かった。 「奴らに、後を跡けていることを悟られてはならん。少し戻ろう。さっきの川が恐らく休憩の唯一の機会だ。この辺り一帯は高い杉に囲まれているので多少煙を上げても向こうにばれることもあるまい。但し私語はするな。静かに、手際良く、だ」南泉は班友らに指示した。  腹が減っては戦はできぬということで班友らも大いに賛成し昼飯をやることになった。  小川の畔の、猫の額ほどの砂利の上で静かに火を起こし、用意しておいた米で人数分飯盒を炊く。  炊き上がるのを待つ間、私語を禁じられた班友らは木陰に入り、ほうほうの態で仮眠していた。特段禁じずとも、暑さのせいで私語どころではなかっただろう。そして恐らくこれが、野営地到達までの最後の休憩になるだろうから、皆なによりも疲れをとることに集中していた。  実充は涼むふりをして小川に足首を浸し、患部をなるべく冷やした。くるぶしの下を押さえると尋常でない痛みがある。やはり捻挫らしい…。
いいね
笑った
萌えた
切ない
エロい
尊い

ともだちとシェアしよう!