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<19> 陥穽 ②

 実充はその北京官話を耳に入れながら、目はまだ喜多を捉えていた。  喜多は、実充の危険に気づいて速歩から銃を構えた疾走へと移っていた。  周囲で一般民に紛れていた喜多指揮下の兵卒・下士官たちも同様に動き出す。  蓁祐徳は部下の手を握り、制止しようとしている。実充のこめかみあたりで拳銃を巡る激しい揉み合いとなっている。 「やめろ鄭、柚木さんは――」 「蓁」  実充は蓁祐徳を遮った。  視線を、突進してくる喜多淳博大尉に注いだまま、実充は咄嗟に中国語で叫んでいた。 「――快跑(にげろ)!! 撃たれるぞ、蓁!!」  切羽詰ったその声を聴いて、こめかみから拳銃が離れる。  革命闘士たちは、通りの向こうから大挙して押し寄せてくる敵に気づいて身を翻し、路地の薄暗がりの方へ駈け出した。  実充は、咄嗟の自分の叫び声に自分でも驚いていた。しかし逃がしたことへの後悔はない。自分の目の前で、自分のしたことのために人が死ぬ所は見たくなかった。  実充は、便衣隊を追いかけて目の前を走り抜けようとした先頭の男に飛びかかった。中国服を着ているが明らかに陸軍部の下士官だ。 「追うな阿呆!!」  もんどり打って下士官と共に地面に転がる。革命軍便衣隊は実充との接触を諦め胡同(フートン)の奥へと完全に姿を消した。数名が追って行ったが、胡同界隈の裏路地で地の利のある国民党ゲリラに追いつけるわけは無いだろう。  だがこれで完全に、便衣隊との友誼も国民党との繋がりも切れてしまった……  下士官に組みついている所を、ほどなく追いついてきた喜多大尉に剥がされた。 「柚木!」  舞い上がった砂埃に目をやられて目が開かない。しかし喜多がどんな顔をしているのかは想像がついた。  何故止めた? 奴らは貴様を殺そうとしたんだぞ……、そう云いたいのだろう。  喜多は実充が危険だと判断しあの瞬間、咄嗟に部隊を動かしたのだ。  実充は喜多に謝るしかなかった。 「すいません喜多さん。俺には国民党の連中を売ることはどうしてもできなかった」 「柚木……」  実充が立ち上がろうと地面に肘をついた所に、突然頭上から煌々とした光が降り注いできた。  気がつけば陽が暮れており、それは誰かが自分に差し向けた懐中探見電灯の電球の光であった。  すぐに誰だか分かった。  実充の眼前で電灯のスイッチを入れた南泉は、実充が眩む目を擦りながら見上げると鋭い口調で云った。 「馬鹿充、私を怒らせるのもいい加減にしろ。お陰で計画が大狂いではないか。どうしてくれる」  実充は落胆した。南泉の真意をいい方向に読み違えていたことに。  なぜなら実充は、百歩譲って、南泉が「自分と国民党の繋がりを断ち切らせるために」、この一連の行動を起こしたのではないかと心の奥で想像してみたりもしたからだ。自分を、一刻も早く日本に連れ帰るために、だ。南泉ならばただそれだけの目的のためにこれぐらいのことはするだろうという予測はあった。  そして、それが目的なら本気で国民党員を殺しに掛かりはしないだろうという希望的観測をしていたのだ。 (だけど、やっぱり全然、違うみたいだよな、これ…。んな訳ないよな……とは思ったが…)  探見電灯の光の向こうの、南泉の表情には鬼気迫るものがあった。  南泉は電灯の先で実充の頭を小突く。 「どうやら黒部じゃなく自分が尋問されないと気が済まんらしいな……」  ガヤガヤと辺りが騒がしくなってきていた。その発砲事件寸前の騒ぎに、物見高い一般民が集まり始めているようだ。南泉は山高帽を目深に被り直し、喜多にその場から素早く撤収するよう命じた。 (無事で良かった、の一言ぐらいあってもいいんじゃねえのかよ)  だが南泉はひどく時間を気にしているようだった。制限時間が設けられた極秘任務なのだろう。  ――制限時間――そう、それは明日の14時に違いない。  実充はうすらぼんやりと、何かを掴んだ気がしてきた。  第20章へ続く

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