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番外編 窓辺の唱―1915年、陸幼予科2年夏⑤

 南泉がふたたび喋り出したのは、1曲目が終わり2曲目に入った頃だ。 「この曲集はな、200年ぐらい前に作曲されたヘンデルの独唱曲だよ。ヘンデルが作曲した数少ない貴重なドイツ語の詠唱曲だ。といっても実充お前、ヘンデルも恐らく知らないのだろうな」 「知らん。そんなのどうでもいい。つかこの部屋は不気味だ。皆が待っている、早くあっちの広間に戻ろう」  南泉は実充の泣き言を無視してたらたらと、この曲集に関する蘊蓄を垂れ始めた。部屋を出ていこうとする実充の肩を掴んで、ソファに引きもどしながら。 「ヘンデルってのは18世紀の作曲家だよ。うちの祖母はオペラ歌手だったからな、ヘンデルの作品は数多く歌ってる。中でもこの曲集みたいな詠唱曲ってのは自然や神を讃えるという歌なので、主に向こうでは教会音楽として使われているんだ」  喋り続ける南泉は、言葉とはまったく関係のない行動を取り始めた。つまりいそいそと実充をソファに押し倒し、和服の袷をはだけに掛かっている。 「ぅわ!? この罰当り! これ婆さんの聖歌なんだろッ、そんなの聴きながら何してやが」 「ミツ。お前が家に来てくれて良かった。お前が来るかどうかはある種賭けみたいなものだったが、これで今日皆を家に呼んだ甲斐があった」 「な、……。ちょ、手、やめろっ。……まさか俺を家に呼ぶためにあいつら全員を招いたとでも云うつもりか?」 「当たり前だろう。同室生全員を招待するとでも云わなければ、お前がうちへ来ることなんてまずあり得ないからな」 「何でそうまでして俺を家に呼びたがる!?」  いつの間にかもう片方のゲタも脱げていた。実充は裸足の足の裏をつかって南泉の胸を蹴り返そうとしたが、上から圧し掛かる南泉の膂力には及ばず、逆に膝裏を捕まれ両脚を開かされてしまう。 「何故って、愚問だな。二週間もお前に逢わないと、溜まるからに決まってるだろ……」 「は……はぁ……ッ……?」  唖然として二の句が継げない。この男、ただ夏休み中に溜まった欲求を、吐いておきたかっただけのようだ。 「去年の夏はせっかくお前と親しい仲になれたばかりだったのにあのあとすぐに夏休みが来て、2週間も会えなかっただろう」 「親しい仲? 何の話だ一体」 「去年の駈歩訓練の後の話だよ、覚えてない訳ないだろう? とにかくすぐに夏季休暇に入ってしまってお前に逢えないから、私は仕方なくお前の家のある方角向いて自分で抜いていたよ」 「ブッ、そんな告白は要らん」 「私は去年と同じ愚は犯したくなかった……。どうやったら夏休み中にお前と逢えるかなって考えてて、それで奴ら全員ひっくるめて家に招待したってわけさ。お前も案の定、珍しい喰い物の誘惑には勝てなかったようだし」 「俺は、喰い物なんかにつられて来たわけじゃない、た、たまたま…」 「たまってたのか、お前も」 「ちがう!」 「ミツ。可愛いやつだ。そうならそうと最初から正直に云え」 「だから、違うっつってんだろ! 人の話聞けよ!」  そういう会話の間に手際良く実充の和服を寛げた南泉は、上から実充の薄い胸板に唇を落として乳首を舐め上げた。  一瞬にして、抵抗する気力を奪われてしまう。背筋がぶるりと、快感にわななく。 「っぁ、」 「やはりお前も溜まってるじゃないか、ミツ。さっさと済ませよう。皆が姉の相手をしてくれてる間に」 「……いやいやいや、普通ばれるだろ! 誰か探しに来るぞ!」 「だから、手っ取り早くやろうと云ってるんだ」  拒絶しながらも実充の体は、南泉の手によっていとも容易く蕩かされてしまう。溜まっているのは否定しようのない事実だ。そして体は頭脳とは反対に、素直だった。 「和服ってのもいいな……ボタンと違って脱がせ易いし、それに……」  実充の袴の帯を解いた南泉は、まくりあげた袴の裾から実充の太腿を眩しげに眺めた。 「制服着てる時とは違う色気がある」 「…きさま、べらべら喋ってないで、やるならさっさと済ませろよ!」 「ふふ、お前もその気になってきたか?」 「違う!さっさと帰りたいんだよ俺はっ……」  二人は抒情的な教会音楽を背景曲にして、性急に下肢を繋げた。  快楽の頂きを目指して激しくゆすり合う猥らな音を、美しい調べがかき消した。  実充は何のかのと云いながら体を丸めて膝を相手に預け、南泉の律動に合わせて猥らな息を吐き続けた。この腹黒い優等生がどうしようもなくクソ忌々しいはずなのだが、繋がっている間じゅうは不思議と嫌悪感が何処かへ消えてしまう。  気持ちいい。  南泉に教えられた通りに、快感のつぼを己で探して体勢を少しずつ変えてみる。最終的には仰向けのまま、物欲しげに下肢を浅ましく突き出していた。  ――もっと。もっと奥にくれ。 ――歌え、霊魂よ、神を讃えよ、かくも賢明な手立てで全地を壮麗に飾り給うた神を讃えよ――  歌うドロテアがまだ窓辺に立っているような錯覚。声の主に見られているような、とても淫靡で不道徳なひとときだった。  南泉は自分が埒をあけたあと、ソファの背凭れに実充の片脚を引っ掛けさせて、露わになった実充の中心を口で愛撫する。  そうやって実充を極限へと追い立てていた南泉は、不意に陰茎から唇を離した。  戸口に向かって鋭い声を投げる。 「――何見てるんです、苑子(そのこ)さん」 「あっぁ、あン………エッ……!!??」  驚いたのは実充の方だ。慌てて前を隠し、脚を降ろす。しかし南泉は実充のものから手を離してくれなかった。  実充は脚をじたばたさせて南泉を振り払おうと試みる。そうしながら恐る恐る扉を振り返った。  …細く開いた扉の隙間から、黒い瞳が一つ、らんらんと輝いてこちらを見ているのが判る。 「ああその、レコードを止め忘れちゃったのを、思い出したのよ」 「じゃあこそこそ覗く必要はないでしょう」 「だって…。郁さんあまりに遅いんですもの。実充さんとお二人きりで何されてるのかしらと思って。もうお友達の皆さん、食堂の方に移動になられましてよ」  苑子は顔を半分覗かせたまま云った。弟の情事を見てしまっても特に衝撃を受けた様子もなく、不気味なほど声は落ち着いている。 「二人きりで何してるかって? 二人きりですることなんて一つしかないでしょう、白々しいな」  南泉はソファの背凭れで隠れているのをいいことに、萎えてしまった実充の男根を再び奮い立たせようと扱きながら、不機嫌な声で姉に云い返した。 (っも、もう…もう無理だっつの、)  他人に見られた時点で。  実充は、しぼんだ根茎に絡みつく南泉の指を引きはがそうとする。  苑子は南泉の怒りなど馬耳東風だ。 「まあ、郁さんったらそんなに怒らないで頂戴。分ったわ、イイ所をお邪魔して御免なさいね。どうぞそのままお続けになって。わたくし、あなた方が戻るまで食堂でなんとか間を持たせておきますから。ホホホ」 「……!?」  実充の驚きをよそに、南泉の姉はカチャリと扉を閉めて消えた。 「……き、貴様の姉貴、どう考えてもおかしいだろ!!」 「だから最初からそう云ってるだろ。高嶺の花というより珍しい動物でも見に来るつもりで来いって。  あの年頃の華族の女ってのは、思考回路が時おり人智の範囲を超えてるんだよ。苑子だけじゃない。あいつの連れてくる女友達はほとんど皆、あんな感じでフワフワ掴みどころがないんだ。興味の範囲もお茶会とか着物とか、結婚のこととか巷のいい男のこととか、そんなのばかりだ。良家の娘ってのはある意味、哀れなものさ。  ま、もっともそのお嬢様連中の中でも苑子はさらに変わってるほうだな。男同士の情事を見てもああして動じないどころか逆に舌舐めずり、だからな。興味津津だとは思っていたがまさか本気で覗きにくるとは、……」  南泉は実充を追い立てるのを諦め、漸く体を離した。苑子について語る唇は、苦笑まじりだ。  実充は気になっていたことを口にしてみる。 「……外見、お前にあまり似てないよな」 「ああ。本当の姉弟ではないからな。私は実をいうと、この家では養子なんだ」 「え?」  初耳だった。どういう意味だ。この男はドロテアの孫であるはずなのに。 「苑子の父、今の南泉男爵と私の母が、異母姉弟なんだ。私の母は、祖父とドロテアの間に生まれた娘。そして苑子の父は、祖父と日本人の正妻との間にできた正真正銘の南泉家の跡取りだ。つまり苑子には外国の血は一滴も入っていない。  南泉男爵には男児が居なかったので、跡取りにするために甥である私を養子として迎え入れたのさ。だから私が普段「父」と呼んでいる人は、本当のところは叔父なんだ。生みの両親は、他に居る。苑子とは従姉弟同士ということになるが、祖母が違うので血の繋がりは普通の従姉より、薄い」 「……ふうん」  なんだか良く分からないが、色々と複雑な家庭の事情があるようだ。跡取り問題は士族の出の実充でも理解できる。それが華族ともなれば、尚更だろう。この男は実の両親と引き離されて叔父の家に連れて来られ、軍人の道を進むことを強制されているのか……。それも、異国の血が混じっているという軍人としての悪条件を背負いつつ。  実充は少しの間黙り込んだ。それを見た南泉は皮肉げに唇を持ち上げる。 「なんだミツ、急に大人しくなって。まさか私に同情してくれてるってわけか」 「同情? 噴水つきの家に住んで自動車なんか乗ってる奴に何を同情する必要があんだよ。なるほど貴様の性格がひねくれてる原因はそこだったかと、符牒が合って納得してただけだ」 「ははは、お前ならそう云うと思ったよ」  南泉は普段と同じように笑い、立ちあがって蓄音機を消しに行った。ドロテアは歌うのをやめ沈黙した。そういえば自分が見た彼女の姿は一体何だったのだろうと、実充は再び室内のあちこちに視線を遣る。無論、もう彼女の幻は見えなかった。あとから考えても、ドロテアは確かにあの場に居たように思えたのだが。 「食堂へ行こう、昼飯の準備が出来てる筈だ」 「あ、そうだった。早く戻らないとあいつらに疑われちまう」 「疑う? 何を今さら…」  南泉は吹き出しかけたが、立ちあがった実充が必死に袴を穿き直しているのを見て笑いを口の中に引っこめた。 「行こう……」  無音になった窓辺では、レースのカーテンが戦いでいる。  その窓の下には藤でできた椅子があり、その上に貴婦人の使った蒼い扇子が置かれている。  扇の房飾りが椅子の下で、振り子のように小さく揺れていた。  これは真夏の、とある日の出来事である。 番外編 窓辺の唱 了
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