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第1話 出会いは小さな食堂で

 小高い丘を望む、平坦な土地に作られた小さな町。犬の頭をした獣人によって統治されたその町は、都市部のように栄えてはいないものの大きな戦にも巻き込まれることなく、平穏な日々を送っていた。  そんな町の、教会のある通りの角に存在する喫湯店(テルモポリー)。真っ白な毛並みをした若い犬の獣人は、恋する乙女宜しく大きな溜息を吐き出した。  客の姿がないとはいえ、今はまだ営業中。店内の空気を重くするかのようなそれに、店主である男は獣人の頭に勢いよく拳を振り下ろした。 「痛っ!」 「溜息吐いてる暇があったら外出て呼び込みでもして来い。そもそも、今回の相手と別れたのだって、お前が原因なんだろ?」 「……だって、匂いが違ったんだ」  獣人は殴られてしまった頭を擦りながら小さくぼやく。それは犬であり、そしてアルファであるが故の悩み。人にはわからないと店主は肩を竦め、獣人へと言葉を返した。 「それにしたってお前、今回はまだ一か月も経ってなかっただろ。毎度店の中でまでそう落ち込まれちゃ、客だって逃げちまうよ」 「今度こそ、運命だと思ったのになぁ……」  運命だと思ったからこそ交際を申し込んだ。それなのに今回もまたフェロモンの匂いが駄目だった。人ならば少し合わない程度で済むそれも、犬だからこそ駄目になる。常時フェロモンを垂れ流すようなオメガは流石にいない。付き合ってみて初めて分かるその匂いに、獣人は毎度落胆し、別れを告げてきた。  毎回のように今回こそ、今度こそはとその繰り返しで、喫湯店の獣人売り子は町中のオメガを喰い散らかしただとか、隣町にも元恋人がいるだとか、節操のない恋多き男だとか。そんな噂も絶えなくなってしまった。  普通ならば商売にも悪く影響しいい迷惑だと言われても仕方のない好色具合。それでもこの獣人が手伝いとして働き続けられているのは、ひとえに彼の人柄が他者を惹きつけ魅了してやまないからに相違ない。  来る客も来なくなると追い出されるように呼び込みに出された獣人は、町中で見知った顔に次々と声をかけていく。今は昼過ぎ、皆そろそろ休憩に来るはずだ。 「おじさん、こんにちは! 今日はうち来ないの?」 「おー、喫湯店とこの。今日はちと忙しくてなぁ。あと一時間くらいしたら行くよ」 「はーい。あ、クレーベさん! 久しぶり!」  店内での落ち込み方が嘘のように満面の笑みで次々に店へと誘って行く。通りに出、暇そうな人でもいないかと探していると、いつもは人もまばらなとある大衆食堂に次々と通行客が吸い込まれていくのが見えた。  この時間帯だ、休憩処である喫湯店より食堂が賑わうのもわかる。ただ、あそこはいつも閑古鳥が鳴いているような、店主の趣味でやっている店だったはずだ。獣人が近付いてみれば、成程これは釣られるわけだと言わんばかりの食欲をそそるいい匂い。肺いっぱいにそれを吸い込むと、獣人の腹がくうと鳴った。  店主には、ついでに昼も済ませて来いと言われてしまっていた。丁度いいし入って行こう。獣人は食堂の扉を開いた。 「いらっしゃい」  妙齢の女性の声がすぐに飛んでくる。店の中はほぼ満員。知り合いも多数座っており、以前入った時とはまるで違う賑わいだ。カウンターに空きがあるからと座れば、女将がすぐにメニューを持ってきた。 「おばちゃん、今日って何かあるの?」 「いいや、何も。ただ今日からうちの子が手伝ってくれることになったんだ。注文はあの子に頼むよ」  言うなり、さも忙しそうに女将は他の客の皿を下げに行ってしまった。獣人ははて、と首を傾げながらメニューを眺める。  この食堂に息子がいるという話は聞いていたが、確かまだギムナジウムに通っていたはずだ。今は長期休みの期間でもなし、その子がいるとも思えない。他に子供がいたのか? 「息子さんってまだ学生じゃなかったっけ」 「生憎、去年卒業してる。早く注文決めてくれないか」  カウンターの向こうから冷めた男の声がした。獣人がはっと顔を上げると、そこにいたのは端麗な顔をした青年。少し吊り気味の碧眼は猫のようで、女将譲りの黒髪がさらりと揺れた。  ひく、と鼻が動く。この匂い。この匂いだ、間違いない。それにこの目。この、胸の高鳴り。 「き……」 「き?」  青年は、表情ひとつ変えることなく獣人の顔をじとりと見下ろした。その様すら堪らなく胸が躍る。 「君をテイクアウトでお願いします!」  水を打ったように静まり返る店内。獣人はふんすと鼻息荒く青年に詰め寄った。 「恋人から始めさせてくれませんか!」 「おいおい、喫湯店のわんこがついにベータまで手ぇ出すつもりだとよ!」 「え、ベータ?」 「やだねえ、ドナ。うちの子は私達と同じベータだよ」  客の一人に突っ込まれ、女将にまで笑われる。静まり返っていた店内は、すぐに笑い声で埋め尽くされた。  いや、そんなまさか。ドナと呼ばれた獣人は青年を振り返る。  青年は、眉一つ動かさないままドナに向かい頷いた。 「俺はオメガじゃない。残念かもしれないが諦めてくれ」  こんなにオメガの匂いと雰囲気を垂れ流しておきながら、オメガじゃないと言うなんて。  隣に座っていた男性にバンバンと背中を叩かれながら、ドナは首を傾げる。自分以外、誰も気付いていないのか? 絶対に、この青年はオメガなのに。  シュニッツェルを頼み、食べながらもじっと青年を見続ける。厨房の仕事を主に手伝っているようで、外で嗅いだ匂いは彼が作る料理のものだったようだ。今日から手伝い始めたと言っていたが、それだけで店内が満員になるなんて余程いい腕をしているらしい。  食事の間ずっと眺めていたからか、会計をするために立ち上がったところで青年もドナを見返した。じぃっと見つめられ、思わず視線を外す。財布を取り出し女将を呼ぼうとしたが、青年がそれに対応するようで近付いてきた。 「ちゅ、厨房の方手伝ってればいいのに」 「今日の夜まではもつはずだった食材、全部使ったから店じまいだ。皿洗いはしなくていいって母さんにも言われたし、こっちしかやることないし」 「そう。……あ、あの、さっき言ったことなんだけど」  もし自分がオメガだと知らないということは、まだ発情期が来ていないのかもしれない。気を悪くさせてしまうかもしれない、どう伝えればいいのか言葉を続けあぐねていると、青年は視線を伏せながら呟くように声を発した。 「名前も知らない相手に、よくそんなこと言えたよな」 「じゃあ駄目? あ、俺ドナって言うんだ。もしよければ君の名前も教えて欲しい」 「駄目なわけじゃない。……シルヴィオ。覚えなくていいから」  金の計算を終え、釣り銭を押し付けるように渡してくる。不愛想で表情も変わらないが、少しだけ早口だ。  駄目じゃない。つまり、付き合ってくれる。ドナは逸る気持ちを揺れる尻尾で表現しながらシルヴィオの顔を見下ろした。 「じゃあ、付き合ってくれる?」 「好きにしたらいい。喫湯店の節操なしってあんたのことだったんだな。覚えておくから」  先程の笑われた声で、悪い方のあだ名が伝わってしまった。ドナは否定したいのだがこれまで散々とっかえひっかえだったから仕方ないか。節操なしとは言われるが、一度たりとも誰かを抱いたことはないのに。  ドナの落ち込んだ様子に、シルヴィオは声をかけた。 「節操なしって言ったのはなしだ。悪い」 「いいよ、事実みたいなもんだし。じゃあ今日は帰るね、明日も来るから」 「嗚呼。今度、俺もあんたの働いてる喫湯店に行ってみる」 「楽しみにしてる。大体夕方までは毎日いるから、いつでも来て! じゃあね!」  釣り銭はポケットに雑に突っ込み、店に戻るため軽く駆け足で扉まで向かう。シルヴィオに手を振り、ドナは食堂を後にした。  喫湯店から呼び込みのために放り出された時とは全く違う軽い足取り。まるでスキップかのような軽やかな走りは、通行人が思わず振り返るほど。  あんなにいい匂いで、心を鷲掴みにされるような雰囲気を持つオメガは生まれて初めてだ。  きっと、彼が自分の運命の番い。この感情は、きっと愛という名前のもの。  喫湯店の扉を開けると、今しがた食堂にいた顔ぶれも見える。ドナは心の底から湧き上がる感情を隠すことなく、満面の笑みを浮かべながら仕事に戻った。 「ドナ、お前今度はベータに手ぇ出したって?」 「まだ出してない! でも、今度こそ絶対間違いないから!」 「ベータは運命にはならないんだろ、何言ってんだ?」 「皆は気付かないままでいいんだよ!」  そう、皆は気付かなくたっていい。シルヴィオがオメガだと気付いたのは自分だけで十分。だって、皆が知ったらシルヴィオが誰かに取られてしまう。  皆、ドナの言葉に首を傾げていた。彼がベータなのは抗いようもない事実で、ドナの求めるような運命の番いになんてなり得ないから。  それでも、これまでよりも一層嬉しそうなドナの様子に皆横槍を入れてしまうのは忍びないからと何も言わない。  また明日。ドナはシルヴィオのことを考えながら湯の匂いづけのために調合を重ねた。

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