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第2話 犬の肉球も借りたい

 喫湯店(テルモポリー)とは、その名の通り湯を提供する店だ。ドナはそこで手伝いとして働いている。  店主と血の繋がりがあるわけではない。2年前のある日、突然町にやって来て仕事を探しているのだと様々な店を当たり、素性も知れない獣人を唯一雇ってくれたのがこの喫湯店だっただけ。  ドナという名前と、21という齢と、アルファという性しか教えられることはないと言った彼を雇ったのは、この喫湯店が古臭いだの時代遅れだのと言われてはいても猫……否、犬の手も借りたい程に繁盛していたのと、彼の犬種がこの町を治める領主と同じホワイト・スイス・シェパードだったから。あの誠実な領主様と同じ犬種なら、さぞ真面目に働いてくれるだろうと思ったからこそ雇ったのだ。  実際のところ、仕事こそ真面目にしてはくれるが男女問わずオメガの尻ばかり追いかけるとんだ問題児だったわけだが。  ドナが大衆食堂の一人息子に惚れたことは、小さくはない町でも瞬く間に広まっていた。オメガ相手に長続きしないから、ついにベータにまで。運命の番いが見つからなさ過ぎてベータに走るほど憔悴してしまったのか。確かにシルヴィオは美人だが、ベータ相手じゃあ子供もできないのに。  散々な言われようでも、ドナは気にならない。シルヴィオは絶対に自分の運命の番いだと信じているからだ。  毎日のように食堂に出向き、一心に愛を囁くそれに最初こそ皆冷やかすような視線も浴びせていたが、一週間も経てば慣れてしまったようでそれは日常の一場面になってしまう。ただ、好きにしたらいいと言っていたシルヴィオの言葉通り恋人と言って憚らないそれには少し同情的だ。二人が会うのはまだ食堂の中だけで、ただのリップサービスの可能性が限りなく高かったから。  シルヴィオの料理の腕は一級品で、手伝いを始めた初日から連日食堂は大混雑。外に行列までできてしまう程の人気だ。リップサービスなんて使う必要もないが、使わずに客足が減るよりはいいと思っているのかもしれない。  生殺しもいいところだ。一体いつまでドナが通い続けるか。それが暇を持て余した喫湯店の客達の話のタネになっていた。 「いらっしゃい、空いてる席に座ってよ」  どんな客相手でも丁寧語など使わないそれを怒られないのも人好きのする笑みを浮かべているドナに皆絆されているから。ドナは謂わば喫湯店の看板犬だ。たった今来店した客もまたドナがいつもこうなのは知っている。カウンターに座った客が普段からよく頼む香りの湯を淹れ、何も言わずに席に出した。 「ドナももう慣れたもんだな」 「なんたってもう2年も働いてるからね」  今年で23になったドナはえっへんと褒められた子供のように胸を張った。白い尾はぱたぱたと揺れ、内面の幼さが全面に出ている。  客達が看板犬を愛でていると、カランカランと扉のベルが鳴った。それと同時にドナの鼻がひくりと動く。  黒い髪に白い肌。食堂の休憩時間なのか、シルヴィオが覗き込むように店内に顔を出していた。 「シルヴィオ!」  頭を撫でられ上機嫌だったドナは、飛び跳ねるように立ち上がると大股にシルヴィオに近付いた。食堂の外で会うのは初めてだ。シルヴィオの手をとり、カウンターの一番端まで案内するとその隣の椅子に躊躇いなく座る。仕事中だというのに一瞬でもうシルヴィオのことしか見えなくなってしまったようだ。 「シルヴィオ、今日は早めに上がらせてもらえたの?」 「流石に慣れてきたから」 「そっか、食堂って夜の方が繁盛するしね」 「あんたは今が忙しいんだろ。俺と会話する暇なんてあるのか」 「大丈夫、もう皆の好きな匂いの湯は出したから」  皆いつも同じものを注文する。だから覚えてしまった。  ドナはシルヴィオの手をとり、肉球で挟み込むとその顔を覗き込んだ。 「だから、シルヴィオの好きな匂い教えてほしいな」 「……」  かさついたふにふにの感触にシルヴィオは握られた手を見下ろす。人間からすれば獣人の肉球なんて未知の感触なのだろう。表情は出会った頃から1mmも動かないが、不思議そうなのが見てとれる。ドナはシルヴィオの手を離し、掌を見せてやる。 「ほら。好きに触っていいよ。注文は後ででもいいし」  大きな犬の前脚。シルヴィオが指先でつう、と撫でるとそれに呼応するようにドナの尻尾が揺れる。ぷに。つう。指先で突かれ撫でられ、擽ったい思いもあったがそれ以上にシルヴィオが自分に興味を示してくれていることが嬉しい。ドナはニコニコと肉球を差し出していた。 「おーい、ドナ。注文受けてくれないか」 「おやじさんに頼んでよー。俺今忙しいの!」 「仕事はしろよ。俺はメニュー見てるから」  テーブル席から呼ばれ、シルヴィオは邪魔をしてはならないと手を離してしまう。まだ触っていてほしかったのに、なんてことだ。ドナは明らかに落胆し、尻尾もだらりと垂れ下がる。トボトボと注文をとりに行くそれがまた哀愁を漂わせていた。 「お前、マジなの?」  そんな言葉をかけてくる客に、今更だろと小さく鼻で鳴いた。

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