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第7話 扉一枚

 他人の家に上がるのなんて生まれて初めての体験だ。ましてやそれが恋人の家なんて。マスターにシルヴィオの部屋の前まで案内されたドナは、緊張から声を上擦らせつつ扉の向こうに声をかけた。 「シルヴィオ、俺。ドナだけど」 「……本当に来たのか」 「明るい内ならいいって、シルヴィオが言ったんだろ。ねえ、顔見たいんだけど駄目?」  扉のすぐ向こうから声が聞こえる。この板一枚隔てたすぐ先にいるのに、顔が見えないのがとても寂しい。数日前には肩を並べて会話をしていたのに。  廊下に座り込みくうんと鼻を鳴らすその様子に、マスターは微笑ましそうに笑いながら一階に下りていった。それに視線を向けることもなく、ドナはじっとドアノブが動かないか見上げたまま。 「駄目。何の話をしに来たんだ」 「大した話じゃないんだけど。会いに来てくれなくなったの、寂しくて」 「別に、理由はないから。暇な時だけでいいってあんたも言ってたろ」 「でもさ、暇にするって言ってたじゃん」 「どうにもならない時だってある。メニュー覚えるので今は手一杯なんだよ」  シルヴィオは嘘が下手だ。ついこの間、覚えて来たから楽になったと言っていたのを忘れているわけでもないだろうに、それを理由に使う。  無理に理由を作らないといけないほどに自分とは顔を合わせたくないということなんだろうか。正直泣きそうだ。 「俺のこと嫌いになった?」 「……別に、そうじゃないけど」 「じゃあ、アルファの友達となんかあった?」 「何でそれ知ってるんだ」 「マスターに聞いた」  ドナがそのアルファを知っているなんて思わなかったのだろう。強張った声は棘を含む。  咎める意図はないのだが、それに気付く余裕もないのか向こう側からドアが叩かれた。 「別に、そいつと俺の間に何があろうが、あんたには関係ないだろ」 「ただの友達なら別に何も言わないよ、交友関係の邪魔なんてしない。でも、そいつアルファなんだろ。シルヴィオは俺のオメガだもん」 「俺はオメガじゃないし、あんたのものでもない」 「でも、俺の恋人だから」  自分のオメガが他のアルファに取られるなんて許せるはずがない。たとえ自分の方が出会ってから日が浅くても、そのアルファが親友だろうと関係ない。  ドナは縋るように扉に手を当てた。 「そのアルファの友達の方が俺より好きになったの? そいつと番いになるの?」 「ならない。……あんたは、なんでそんなに番いにこだわるんだ。この町にオメガは沢山いるだろ。なんで皆、俺にばかり執着するんだ」 「シルヴィオが初めてなんだよ、こんなにいい匂いがして、心臓がぎゅうって締め付けられるような人。今までいろんなオメガと付き合ってきたけど、こんなこと一度だってなかった。そのアルファに何か言われたの? 嫌だよ、他のアルファにシルヴィオが取られるの」 「……俺はベータなのに、なんであんたはそこまで必死になれるんだ」  扉の向こうからシルヴィオが離れていく物音がした。今日はこれ以上会話は難しいか、ドナは扉に頭を擦り付ける。  シルヴィオはずっと自分がベータだと信じ切っている。学校の入学にあたって検査をしたのだろうが、第二次性徴なんて遅れることもあるのだし、検査の結果が絶対なんて有り得ないのに。  まあ、それを他人から指摘し続けられるのなんて嫌に決まってるか。セクシャルな話を無遠慮にぶつけられるのなんていい気がするはずもない。  先走り過ぎた。反省の意を示すにも今日はもう無理そうだ。 「ごめん、今日は帰るね。明日も来るから」  立ち上がり扉に声をかけ、帰るために踵を返す。  そんなドナの背後で、扉の開く音がした。 「後で、店に行く。レモングラスの湯がいい」 「! わかった、作って待ってる!」  振り返った時には既に扉は閉められているが、扉の前には戻らない。人の家だというのに階段を駆け下り、驚いた様子のマスターと女将に声をかけた。 「家上がらせてくれてありがとう! もう店戻るね、マスター達も今度飲みに来て!」 「はは、余裕ができたらね。元気になったようでよかった」  大きく手を振り、立て耳も大きく揺れる尻尾も気にすることなく全速力で外を駆ける。その走り方はシルヴィオと初めて会った日と同じく軽やかで、またあの獣人は何かあったのかと振り返ってしまう。  喫湯店の扉を勢いよく開け、ドナはすぐさまレモングラスの香り漂う湯を淹れるためキッチンに飛び込んだ。  驚いた様子の店主や常連客の言葉には適当に相槌を打ちながら、肉球を覆うように手袋を装着する。人とは明らかに違う手先だというのに、器用にハーブを摘まみポットに入れ、湯を沸かした。 「外で客でもひっかけて来たか?」 「似たようなものかな。あ、他に注文あった?」 「もうねえな。……食堂のところの坊主か?」 「うん。店に来るって言ってくれたから」  店に来るのは二回目でも、ドナの淹れた湯を飲むのは初めてだ。ドナはそうだ、と店主を振り返った。 「これ、俺の給金から引いておいてくれる?」 「わかったわかった、好きにしてくれ」  微笑ましいものを見る目は今日二度目だ。店主と常連客達に見守られ、ドナはなるべく気に入ってもらえるものになるようにと香りを確認しながら調合した。  カラン、とベルが鳴った。ただシルヴィオの匂いはしない。他の客か、と振り返り確認してみると、金髪の髪の優男だった。  本能でわかる。あれは自分と同じアルファ。 「いらっしゃい、こっちのカウンターにどうぞ」  初めて見る相手だ。無礼だのなんだのと騒がれても困るからと誘導し、手袋などは全て外し、カウンターに座らせてからメニューを手渡す。  男はじろりとドナを見上げて来る。アルファだからだろうか、首を傾げ見下ろすと男はにっこりと笑いながらドナのことを手で制した。 「獣人が作ったものなんて飲みたくない。君以外に淹れられる人間は?」 「な、……おじさん、お願いできる? 俺は外掃いて来るから」  毛が入っているだろうから嫌だということも言われたことはあるけれど、獣人として喫湯店で働くからこそそういったことには人一倍気を付けている。ダブルコートだからだろうか、ドナは男の言葉に若干傷心しながらも店主にあとを任せた。  ドナのことを気に入っている常連客は少し険しい顔だ。内心で有難うと礼を言いつつ、シルヴィオを待とうと店の外で待つことにした。

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