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第14話 空気の読めないヤクザ

   ――なんだか、いい匂いがする……。煮物……かな。ああ……魚の焼ける匂いも……。  懐かしい匂いに、僕はゆっくりと目を開いた。  和室である僕の部屋の天井は、唐紙越しの優しい茜色に染まっている。  一人暮らしの自炊生活には不似合いな、ぬくもりのある家庭料理の匂いがする。ぼうっとした頭のまま見回す風景はいつもと変わらないのに、家の中に不思議と活気が漂っている。  ――母さん……いるの……?  そこの襖を開けて、『紬、ご飯よ〜』と母さんが呼びに来るのではないかと錯覚する。でも、頭の隅では、そんなことはあり得ないと分かっている。幼い頃に戻ってしまったような不思議な感覚だ。取り戻しようのない懐かしさが僕を包んんで妙に切なく、寂しい気持ちに心が沈んでいく。 「……母さん……」  無意味と分かっているくせに、気づけばそう呼びかけていた。当然、誰も答えてくれる者はない。夕日によって作り出された濃い影の中に、僕の声が溶けて消えていく。  ――何やってんだろ。  ぎゅ、と目を閉じて布団をかぶると、ツンと鼻の奥が痛くなった。泣きたくて、でも、泣いてしまうと歯止めが効かなくなりそうで、僕は混乱しつつ唇を噛んだ。その時。 「紬〜!! 飯やで〜〜!!」 「ヒィッ!!」  スパーーン!!! と痛快な音を立てて襖が開かれ、セットアップと思しき黒いスウェットの上下に身を包んだ椿さんが唐突に現れた。胸元にやたらリアルな猫のイラストが描かれていて、凄まじくダサい。あまりのダサさに目が覚めて、今まで部屋を包み込んでいたセンチメンタルな空気が一瞬で消えてゆく……。 「つ、椿さん……?」 「おう、起きてるやん。具合どうや」 「具合……? あ、……そうか」  そういえば、熱を出して倒れちゃったんだっけ。倒れる前のおぼろげな記憶を手繰り寄せていると、椿さんは僕の傍にどっかりとあぐらをかいた。そして僕の顔を覗き込みながら、すっと手を伸ばして額に触れる。ひんやりとした、大きな掌だった。 「うん、熱は下がったみたいやな」 「あの……今日って何曜ですか?」 「日曜の夕方や。お前、昨日丸一日ずっと寝てたからな」 「丸一日……!? 椿さん……ずっと、ここにいてくれたんですか?」 「そらそうやろ。熱出してぶっ倒れたんやで? 放っとけるわけないやん」 「……す、すみません。ありがとうございます」  お礼を言いつつも、ラフな格好をした椿さんが新鮮で、ついつい目を奪われる。  スウェット姿で髪をセットしていない椿さんは、スーツの時よりぐっと若く見えた。何ていうか、繁華街のビル裏で、生真面目そうな男子高校生をカツアゲしてそうな若いチンピラを彷彿とさせる…………なんて本人にはとても言えないけど。 「またお前に世話かけたらしいな。宍戸に聞いた」  椿さんが、僕の前で突然きちんと正座をした。そして膝の上に拳を置き、深々と頭を下げる。格好はアレだけど、所作はすごくきれいだなぁ……。 「ああ、はい。…………ど、どこまで聞いたんです?」 「えーと。猫に乗り移られてた〜とか言うてたな。詳しいことは聞かんほうがええて言われてんけど」 「…………ソウデスネ」 「ハァ……あいつらもよっぽど恐い目に遭うたんやろな。その話になると、プルプル震えて俺から目ェ逸らして、それ以上何も言いよらへんねや」 「…………なるほど」  ――……ああ、よかった。ニャンニャン鳴きながら大暴れした上に、ちゅーるでご機嫌をとられてた挙句、発情しかけて僕のお尻をぺろぺろ舐めていたことなんて、当然知りたくないだろうからな……。  と、曖昧に微笑みながら頷いていると、椿さんはするっと僕ににじり寄り、顎を掴んで自分の方を向かせた。そして探るような目つきで、僕をじっと見つめてくる。……うう眩しい、目力強い……。 「……ありがとうな、紬」 「えっ……いえ、そんな」 「こんだけの恩を受けてしもて、どう返せばええんやろな……」 「い、いえいえいえ!! 大丈夫ですよ!! 看病までしてもらっちゃったみたいですし」 「そらそうやろ。お前を一人にして、俺がどっか行ってまうわけないやん」 「……へ」  寂しさにとらわれていた心に、椿さんのその言葉は、意外なほど深く刺さった。  揺らぎのない眼差しに見据えられていると、妙な安堵感が僕の全身を包み込んでゆく。  相手はヤクザなのに。住む世界が違う大人の男の人なのに。  こんな風に優しく頼もしい言葉をもらってしまったら、僕は……。 「紬?」 「え……?」 「どないしたん、泣きそうな顔して。どっか苦しいんか」 「ち……違います。……っ……なんか……僕」 「おいおい、何泣いてんねん」  椿さんが、ぐっと僕の頭を抱き寄せる。新品っぽい匂いのするスウェットの肩口に顔を埋めていると、ほっとして、堪えようとしていた涙がどっと溢れ出してきてしまった。だが椿さんはしばらくの間、嗚咽を漏らす僕の頭を、ゆっくりと撫で続けてくれていた。 「っ……っう……う……」 「紬、どした?」 「……すみません……、うぇっ……なんか、ホッとして……」 「……なんやて」  溢れ出した感情とともに、ついつい本音が漏れてしまう。だが今は、それを恥ずかしいとは思わなかった。だが、椿さんは僕の頭を撫でていた手をぴたりと止めて、ふるふるとかすかに震え始めている。笑われちゃったのかな。……恥ずかしい。 「あっ……すみません。いきなり泣いた上に変なこと言って……」 「ほっと……って? 俺といるとほっとするっていうことか?」 「えっ? ええと、あの」 「なるほど……なるほどなぁ……」  さりげなく椿さんの腕の中から出て行こうとしたけれど、逆にぎゅっと抱き寄せられる。さっきよりも強くスウェットに顔を埋めることになり、僕は「むぐ」と息を詰まらせた。 「そうかそうか、しゃーないなぁ。そんっっっなに俺にそばにいて欲しいんか」 「…………? いえ、そ、そうは言ってませんけど……」 「ったく紬は甘えん坊さんやなぁ。そこまで言うなら、今夜も添い寝したるから。それなら寂しくないやろ?」 「そ、添い寝!? け、けっこうですそんなっ……!!」 「まぁまぁ、遠慮すんな。……一晩中、抱いててやるから。な?」 「ん、ァっ……」  抱きしめられ、思わせぶりな声音で耳元で囁かれ……それだけで、腰からふにゃりと力が抜けてしまう。意図せずしなだれかかってしまう格好になった僕を抱きしめ、椿さんは喉の奥で低く笑った。そして、いつ着替えさせられたかも覚えていない浴衣の帯をしゅるりと解き、僕のお尻をいやらしく揉みしだきながら。 「ちょっ……やめてください……!」 「着替えや着替え。ほら、汗かいてもうてるやん……脱いだほうがいいんちゃう?」 「や、やめてくださいよっ……!」  浴衣の前を開かれながら、流れるように押し倒された……んだけど、襖は開けっ放しだし、一階にある居間からは「オォイ!! 茶碗が足りひんで茶碗が!」「米炊きすぎやろ。どんだけ炊くねん!」「ラップして冷凍しといたらいいいんスよ。あっ、宍戸さん何食ってはるんですか!!」などとヤクザの人たちがワイワイしている声が聞こえてくる。のにも関わらず、椿さんときたらえっちな手つきでパンツずらそうとしてくるし、あっちこっちにキスの雨を降らせてくるしで……。  ――ずっと猫のままでいてもらったほうが良かったかもしれない!!! 「ん、ちょっ……ダメですよ……! 下に、みなさん、いるんでしょ……? こんなことしてたら……ッ」 「ほっといたらええ。あいつらも適当に空気読むやろ」 「いやいやいや!! 一番空気読めてないの椿さんですよ!! アっ……どこ触って……!!」  脱がされそうになるパンツを掴んで抵抗するも、椿さんはさも楽しげな表情で僕を見下ろし、舌舐めずりをしながら悪魔めいた笑みを浮かべた。   「ははっ、なかなか言うやん。……ホンッマ、かわいいなお前。このまま大阪連れて帰ったろかな」 「へぇっ!? 何言っ……ン、んっ……」 「……紬かて、俺のそばにおりたいんやろ? なぁ……?」 「あっ……んぅ……」  ちゅ……と戯れのように、何度も唇を啄まれる。洋画でしか聞いたことのないような軽やかなリップ音と、柔らかく唇を食まれる感触に絆されて、気づけばうっとりと目を閉じていた。  ――ふぁ……何これ気持ちいい……んん……。    鼻を抜けてゆくタバコの匂いを、かすかに苦く感じる。でも、もっちりと濡れた唇が吸い付いたり離れたりする感触は殊の外気持ちが良くて、僕は無意識のうちに口を開いて、さらに続きをせがんでいた。  だが、それ以上の刺激は降ってこない。僕がゆっくりと目を開くと、椿さんがじっと僕の顔を見つめていて…………あれ、ちょっと待った。今のって僕のファーストキスではなかろうか!?  僕が慌ててサッと口を押さえると、椿さんの目線が険しくなる。……あれ、なんか不機嫌そう……? 「ふーん。さすがに、キスくらいはしたことあるみたいやな」 「へっ…………? な、ないですよ!! 今のが初めてですよ!! ていうか何するんですか急に!!」 「え? 初めてなん? あんなエロい反応しといて?」 「えろ……? え、えろい反応なんてしてません! 椿さんが急にへんなこと、するから……」  襲いかかる羞恥心に耐えきれず、だんだん声が小さくなる。真っ赤になりつつぷいと顔を背けると、椿さんはまた、喉の奥でククっと笑った。 「……そうか、キスも初めてか。……へ〜え」 「ば、バカにしてるでしょ。べ、別にいいじゃないですか!」    むすっとしながら浴衣の前をかき合わせようとするも、手首を掴まれ再び布団に押し付けられる。一言文句を言ってやろうと思ったけど、さっきより一段と雄じみた目つきで僕を見つめる椿さんの姿に、僕は思わずゾクリとした。ヤクザに凄まれる恐怖もあるけど、それよりも強く感じたのは性的な昂りで……。 「あーーー!! ちょ、アニキ!! 何してはるんですか!!」  その時、宍戸さんの声がわんわんと僕の部屋に響き渡った。びっくりして襖の方を見ると、宍戸さんがこっちを指差し、怒ったような顔をしている。 「言うたでしょ未成年ですよそのイモガキは!! はいはい離れて離れて! メッですよ!!」  ……いやいや、メッはやばいです宍戸さん……と、内心ツッコむ。    すると案の定、椿さんはギロォォォ……と宍戸さんを睨みつけ、ゆらりと不穏なオーラを漂わせながら立ち上がった。そして、ショッキングイエローと黒のゼブラ模様というダサすぎるセットアップを身につけた宍戸さんの胸ぐらを掴み上げ、地を這うような低音ボイスで凄み始めた。 「宍戸ォ…………メッ……ってお前……ハァ? なんやお前、メッて……?」  「あ、あー…………つい」 「ついやとォ!? 誰に向かってナメた口きいてんねんコラァ!!」 「す、すんまっせんしたァ!!! またネコチャンが取り憑いておイタしたはんのかと思って!!」 「あ゛ぁ!? 誰がネコチャンやアホなこと抜かしてんちゃうぞ!! あとなぁ!! お前が買ってきた着替えダサすぎんねん!! どんなセンスしとんねんドアホ!!」 「え、え〜? アニキ、めっちゃスマートに着こなしたはりますや〜ん。カワイイっすよ、猫」 「…………せっかくやし東京湾沈んどくか。そない沈めてもらいたいんかアァン!!?」 「し、沈みたくないッス!!!」  と、ギャーギャー大騒ぎが始まったところで、(くだん)の三毛猫霊が、襖の陰から音もなく現れた。  そして、大して興味もなさそうに大あくびをし、そのままとてとてとどこかへ歩き去って行く……。
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